◆
「我ながら、余計なことを言ってしまったわ」
夜もふけて、殿舎の人々が寝静まったころ、夜回りを始めたわたしはすぐに後悔した。
月明かりが射し、釣灯籠の明かりもある簀子縁はともかく、屋内には闇がわだかまっている。手に持った紙燭の明かりでは心許ないし、闇が余計に深まるように思える。
(闇から、ぬっと物の怪が出てきたらどうしよう……?)
気丈夫といっても、やはり怖いものは怖い。
自らの妄想に怯えつつ、裳を引きずりながら殿舎内を歩く。
対の屋、壺、渡殿などを隈なく調べていき、御簾で隠されている物入れの前に来た。
儀式に使う用具などを仕舞いこんでいる場所だ。
(中から、何か声がしたような……)
唾を飲み込み、意を決して開けると……。
「きゃあ!」
女の小さな悲鳴がした。
心の臓が飛び出るかと思ったが、紙燭の明かりでよく見てみると、同じ下臈女房の右近だった。
「右近!?」
何をしているの、と言いかけてやめた。
束帯をつけた貴人と抱き合っていたからだ。
「衛門……。これは違うのよ。いかがわしいことはしてないから! そう、歌を詠み合っているだけなのよ」
「……お邪魔しました」
御簾を元通りにして、わたしは踵を返した。
(右近たら、いつの間に殿方と……?)
下臈女房は貴人と出会いがない、と嘆いていたが、わたしの要領が悪いだけかもしれない。
ひととき恐怖を忘れ、頬を上気させながら、庭に面した簀子縁へと出た。
月明かりにほっと息をついた刹那――。
突然、目の前に、黒い人影があらわれたんだ!
全身黒づくめで、殿方か女人かもわからず、顔には目も鼻も口もない。
「――っ!」
わたしは喉がつまったようになり、声を発することもできない。さらには腰がぬけて、尻餅をついてしまった。
そのはずみで紙燭の火が消えたが、なぜか黒い人影は闇に埋もれることなく、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。
脳裏に、酒垂山であやかしに殺されそうになったときのことが浮かぶ。
これが走馬灯というものかしら……?
黒い人影が、ぬっと黒い手をのばしてきた。
(今度こそ、殺されてしまう!)
身体をこわばらせていたら、叱咤するような声が飛んだ。
「しっかりしろ!」
黒い影とわたしの間に割り込むように、誰かが立った。
(誰……!?)
「下がれ、霊鬼め」
殿方の低い声がして、黒い人影は動きを止めた。
月明かりに照らされ、かろうじて殿方のまとっている狩衣と立烏帽子が見える。
殿方が、よく聞きとれない呪文を唱えると、黒い人影は後ずさりを始めた。表情がないから感情のない化け物に思えたけど、怯えているみたいだ。
そして、そのまま滑るように後ろへと逃げていく。
――と、わたしの横に、いつのまにか水干姿の男の子が立っていた。
「奴を逃がすな」
「承知」
狩衣姿の殿方に命じられ、男の子が足音を立てることなく、黒い人影を追っていった。
「大丈夫か?」
ふり返った殿方に問われ、わたしは何とか「はい」とだけ返す。
殿方が差しのべた手につかまると、ぐいっと力強く引き上げてくれた。
「あ、あの……ありがとうございました」
「礼には及ばぬ。俺の仕事だからな」
「陰陽寮の方でしょうか?」
「ああ」
誰かが正式に、物の怪の調伏を陰陽寮に依頼したのだろう。ということは、中宮さまや一条帝の御耳にも入っていることになる。
わたしが夜回りを買って出たことは、徒労に終わったのだ。
「あの黒い影は何なのでしょう? さきほど霊鬼とおっしゃっていましたが……」
「霊鬼というのは、つまり、生き霊みたいなものだ」
わたしの問いかけに、陰陽師は淡々と応じる。
「生き霊……ですか?」
「強い恨みを抱いている者は、眠っている間に魂が身体をぬけ出して、悪行を働くことがある。それが霊鬼だ」
「では、さっきの霊鬼は、この登花殿にいる誰かのもの……ということでしょうか?」
「そうなるな」
陰陽師がうなずくと、水干姿の男の子が戻ってきた。
「霊鬼は、女房たちの局に逃げ込みました。誰の身体に戻ったかはわかりませんが、形代をつけておきましたので」
「うむ、それでいい。休め」
命じられると、やおら男の子は霧となって消えた。
「いまの子は式神ですね?」
「ほう。慣れているのか? いちいち驚かないのは助かるが」
ずっと冷淡だった陰陽師の声に、いくらか人間味がまじった気がした。
「慣れているわけではありませんが、ずっと昔に見たことがあるのです。あやかしに襲われていたところを、御年を召した陰陽師の方に助けて頂いて……」
「何という名だ?」
「賀茂忠光さまです。ご存知でしょうか?」
もしかしたら、彦丸のことを知っているかも……と一縷の望みをかける。
「ああ、知っているとも。俺の師匠だからな」
「えっ……?」
「俺の名は、賀茂光宗だ」
「光宗さま……。あっ、わたしは周防衛門と申します!」
まだ名乗っていなかったことを思い出し、慌てて言ったが、心の臓が激しく鼓動している。
(まさか……)
「失礼いたします」
わたしは思い切って光宗さまの袖をつかみ、月の光がよく当たっているところへ引っ張り出した。
月下に露わになった光宗さまの肌は、女のように白く美しい。目鼻立ちも整っていて、なんとも眉目秀麗である。
いつも朗らかで、よく日焼けしていた彦丸。目の前の、冷徹な雰囲気をまとった美しき陰陽師。この両者が、どうしても繋がらない。
だが、よく見てみれば涼しげな目元は、記憶のなかの彦丸と似ている気もする。
それに何より、控えめではあるが、端正な顔に浮かべた光宗さまのほほ笑みは、彦丸がわたしをからかったときの悪戯っぽい笑みと似ているのだ。
「我ながら、余計なことを言ってしまったわ」
夜もふけて、殿舎の人々が寝静まったころ、夜回りを始めたわたしはすぐに後悔した。
月明かりが射し、釣灯籠の明かりもある簀子縁はともかく、屋内には闇がわだかまっている。手に持った紙燭の明かりでは心許ないし、闇が余計に深まるように思える。
(闇から、ぬっと物の怪が出てきたらどうしよう……?)
気丈夫といっても、やはり怖いものは怖い。
自らの妄想に怯えつつ、裳を引きずりながら殿舎内を歩く。
対の屋、壺、渡殿などを隈なく調べていき、御簾で隠されている物入れの前に来た。
儀式に使う用具などを仕舞いこんでいる場所だ。
(中から、何か声がしたような……)
唾を飲み込み、意を決して開けると……。
「きゃあ!」
女の小さな悲鳴がした。
心の臓が飛び出るかと思ったが、紙燭の明かりでよく見てみると、同じ下臈女房の右近だった。
「右近!?」
何をしているの、と言いかけてやめた。
束帯をつけた貴人と抱き合っていたからだ。
「衛門……。これは違うのよ。いかがわしいことはしてないから! そう、歌を詠み合っているだけなのよ」
「……お邪魔しました」
御簾を元通りにして、わたしは踵を返した。
(右近たら、いつの間に殿方と……?)
下臈女房は貴人と出会いがない、と嘆いていたが、わたしの要領が悪いだけかもしれない。
ひととき恐怖を忘れ、頬を上気させながら、庭に面した簀子縁へと出た。
月明かりにほっと息をついた刹那――。
突然、目の前に、黒い人影があらわれたんだ!
全身黒づくめで、殿方か女人かもわからず、顔には目も鼻も口もない。
「――っ!」
わたしは喉がつまったようになり、声を発することもできない。さらには腰がぬけて、尻餅をついてしまった。
そのはずみで紙燭の火が消えたが、なぜか黒い人影は闇に埋もれることなく、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。
脳裏に、酒垂山であやかしに殺されそうになったときのことが浮かぶ。
これが走馬灯というものかしら……?
黒い人影が、ぬっと黒い手をのばしてきた。
(今度こそ、殺されてしまう!)
身体をこわばらせていたら、叱咤するような声が飛んだ。
「しっかりしろ!」
黒い影とわたしの間に割り込むように、誰かが立った。
(誰……!?)
「下がれ、霊鬼め」
殿方の低い声がして、黒い人影は動きを止めた。
月明かりに照らされ、かろうじて殿方のまとっている狩衣と立烏帽子が見える。
殿方が、よく聞きとれない呪文を唱えると、黒い人影は後ずさりを始めた。表情がないから感情のない化け物に思えたけど、怯えているみたいだ。
そして、そのまま滑るように後ろへと逃げていく。
――と、わたしの横に、いつのまにか水干姿の男の子が立っていた。
「奴を逃がすな」
「承知」
狩衣姿の殿方に命じられ、男の子が足音を立てることなく、黒い人影を追っていった。
「大丈夫か?」
ふり返った殿方に問われ、わたしは何とか「はい」とだけ返す。
殿方が差しのべた手につかまると、ぐいっと力強く引き上げてくれた。
「あ、あの……ありがとうございました」
「礼には及ばぬ。俺の仕事だからな」
「陰陽寮の方でしょうか?」
「ああ」
誰かが正式に、物の怪の調伏を陰陽寮に依頼したのだろう。ということは、中宮さまや一条帝の御耳にも入っていることになる。
わたしが夜回りを買って出たことは、徒労に終わったのだ。
「あの黒い影は何なのでしょう? さきほど霊鬼とおっしゃっていましたが……」
「霊鬼というのは、つまり、生き霊みたいなものだ」
わたしの問いかけに、陰陽師は淡々と応じる。
「生き霊……ですか?」
「強い恨みを抱いている者は、眠っている間に魂が身体をぬけ出して、悪行を働くことがある。それが霊鬼だ」
「では、さっきの霊鬼は、この登花殿にいる誰かのもの……ということでしょうか?」
「そうなるな」
陰陽師がうなずくと、水干姿の男の子が戻ってきた。
「霊鬼は、女房たちの局に逃げ込みました。誰の身体に戻ったかはわかりませんが、形代をつけておきましたので」
「うむ、それでいい。休め」
命じられると、やおら男の子は霧となって消えた。
「いまの子は式神ですね?」
「ほう。慣れているのか? いちいち驚かないのは助かるが」
ずっと冷淡だった陰陽師の声に、いくらか人間味がまじった気がした。
「慣れているわけではありませんが、ずっと昔に見たことがあるのです。あやかしに襲われていたところを、御年を召した陰陽師の方に助けて頂いて……」
「何という名だ?」
「賀茂忠光さまです。ご存知でしょうか?」
もしかしたら、彦丸のことを知っているかも……と一縷の望みをかける。
「ああ、知っているとも。俺の師匠だからな」
「えっ……?」
「俺の名は、賀茂光宗だ」
「光宗さま……。あっ、わたしは周防衛門と申します!」
まだ名乗っていなかったことを思い出し、慌てて言ったが、心の臓が激しく鼓動している。
(まさか……)
「失礼いたします」
わたしは思い切って光宗さまの袖をつかみ、月の光がよく当たっているところへ引っ張り出した。
月下に露わになった光宗さまの肌は、女のように白く美しい。目鼻立ちも整っていて、なんとも眉目秀麗である。
いつも朗らかで、よく日焼けしていた彦丸。目の前の、冷徹な雰囲気をまとった美しき陰陽師。この両者が、どうしても繋がらない。
だが、よく見てみれば涼しげな目元は、記憶のなかの彦丸と似ている気もする。
それに何より、控えめではあるが、端正な顔に浮かべた光宗さまのほほ笑みは、彦丸がわたしをからかったときの悪戯っぽい笑みと似ているのだ。


