平安後宮おてんば女房と氷の陰陽師

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「我ながら、余計なことを言ってしまったわ」

 夜もふけて、殿舎の人々が寝静まったころ、夜回りを始めたわたしはすぐに後悔した。
 月明かりが射し、釣灯籠(つりどうろう)の明かりもある簀子縁はともかく、屋内には闇がわだかまっている。手に持った紙燭(しそく)の明かりでは心許ないし、闇が余計に深まるように思える。

(闇から、ぬっと物の怪が出てきたらどうしよう……?)

 気丈夫といっても、やはり怖いものは怖い。
 自らの妄想に怯えつつ、裳を引きずりながら殿舎内を歩く。
 対の屋、壺、渡殿などを隈なく調べていき、御簾(みす)で隠されている物入れの前に来た。
 儀式に使う用具などを仕舞いこんでいる場所だ。

(中から、何か声がしたような……)

 唾を飲み込み、意を決して開けると……。

「きゃあ!」

 女の小さな悲鳴がした。
 心(しん)の臓(ぞう)が飛び出るかと思ったが、紙燭の明かりでよく見てみると、同じ下臈女房の右近だった。

「右近!?」

 何をしているの、と言いかけてやめた。
 束帯(そくたい)をつけた貴人と抱き合っていたからだ。

「衛門……。これは違うのよ。いかがわしいことはしてないから! そう、歌を詠み合っているだけなのよ」
「……お邪魔しました」

 御簾を元通りにして、わたしは踵(きびす)を返した。

(右近たら、いつの間に殿方と……?)

 下臈女房は貴人と出会いがない、と嘆いていたが、わたしの要領が悪いだけかもしれない。
 ひととき恐怖を忘れ、頬を上気させながら、庭に面した簀子縁へと出た。
 月明かりにほっと息をついた刹那――。

 突然、目の前に、黒い人影があらわれたんだ!
 全身黒づくめで、殿方か女人かもわからず、顔には目も鼻も口もない。

「――っ!」

 わたしは喉がつまったようになり、声を発することもできない。さらには腰がぬけて、尻餅をついてしまった。
 そのはずみで紙燭の火が消えたが、なぜか黒い人影は闇に埋もれることなく、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。

 脳裏に、酒垂山であやかしに殺されそうになったときのことが浮かぶ。
 これが走馬灯というものかしら……?

 黒い人影が、ぬっと黒い手をのばしてきた。

(今度こそ、殺されてしまう!)

 身体をこわばらせていたら、叱咤(しった)するような声が飛んだ。

「しっかりしろ!」

 黒い影とわたしの間に割り込むように、誰かが立った。

(誰……!?)

「下がれ、霊鬼(れいき)め」

 殿方の低い声がして、黒い人影は動きを止めた。
 月明かりに照らされ、かろうじて殿方のまとっている狩衣(かりぎぬ)と立烏帽子(たてえぼし)が見える。

 殿方が、よく聞きとれない呪文を唱えると、黒い人影は後ずさりを始めた。表情がないから感情のない化け物に思えたけど、怯えているみたいだ。
 そして、そのまま滑るように後ろへと逃げていく。

 ――と、わたしの横に、いつのまにか水干姿の男の子が立っていた。

「奴を逃がすな」
「承知」

 狩衣姿の殿方に命じられ、男の子が足音を立てることなく、黒い人影を追っていった。

「大丈夫か?」

 ふり返った殿方に問われ、わたしは何とか「はい」とだけ返す。
 殿方が差しのべた手につかまると、ぐいっと力強く引き上げてくれた。

「あ、あの……ありがとうございました」
「礼には及ばぬ。俺の仕事だからな」
「陰陽寮の方でしょうか?」
「ああ」

 誰かが正式に、物の怪の調伏を陰陽寮に依頼したのだろう。ということは、中宮さまや一条帝の御耳にも入っていることになる。
 わたしが夜回りを買って出たことは、徒労に終わったのだ。

「あの黒い影は何なのでしょう? さきほど霊鬼とおっしゃっていましたが……」
「霊鬼というのは、つまり、生き霊みたいなものだ」

 わたしの問いかけに、陰陽師は淡々と応じる。

「生き霊……ですか?」
「強い恨みを抱いている者は、眠っている間に魂が身体をぬけ出して、悪行を働くことがある。それが霊鬼だ」
「では、さっきの霊鬼は、この登花殿にいる誰かのもの……ということでしょうか?」
「そうなるな」

 陰陽師がうなずくと、水干姿の男の子が戻ってきた。

「霊鬼は、女房たちの局に逃げ込みました。誰の身体に戻ったかはわかりませんが、形代(かたしろ)をつけておきましたので」
「うむ、それでいい。休め」

 命じられると、やおら男の子は霧となって消えた。

「いまの子は式神ですね?」
「ほう。慣れているのか? いちいち驚かないのは助かるが」

 ずっと冷淡だった陰陽師の声に、いくらか人間味がまじった気がした。

「慣れているわけではありませんが、ずっと昔に見たことがあるのです。あやかしに襲われていたところを、御年を召した陰陽師の方に助けて頂いて……」
「何という名だ?」
「賀茂忠光さまです。ご存知でしょうか?」

 もしかしたら、彦丸のことを知っているかも……と一縷(いちる)の望みをかける。

「ああ、知っているとも。俺の師匠だからな」
「えっ……?」
「俺の名は、賀茂光宗(みつむね)だ」
「光宗さま……。あっ、わたしは周防衛門と申します!」

 まだ名乗っていなかったことを思い出し、慌てて言ったが、心の臓が激しく鼓動している。

(まさか……)

「失礼いたします」

 わたしは思い切って光宗さまの袖をつかみ、月の光がよく当たっているところへ引っ張り出した。

 月下に露わになった光宗さまの肌は、女のように白く美しい。目鼻立ちも整っていて、なんとも眉目秀麗(びもくしゅうれい)である。
 いつも朗らかで、よく日焼けしていた彦丸。目の前の、冷徹な雰囲気をまとった美しき陰陽師。この両者が、どうしても繋がらない。

 だが、よく見てみれば涼しげな目元は、記憶のなかの彦丸と似ている気もする。
 それに何より、控えめではあるが、端正な顔に浮かべた光宗さまのほほ笑みは、彦丸がわたしをからかったときの悪戯っぽい笑みと似ているのだ。