「ねえ、衛門。変な噂が立っているのをご存知かしら?」
右近と呼ばれている同じ下臈女房に訊かれたのは、蒸し暑い夜だった。
簀子縁でぼんやりと星を眺めていたわたしは、
「噂って、どんなもの……?」
と、好奇心が湧いてきた。
「出るらしいのよ。物の怪が……」
「えっ、物の怪が……!?」
びっくりして声が大きくなったわたしを、右近が咎める。
「しーっ! 声が大きいわ」
「だって、急に恐ろしいことを言うんですもの。……で、それは本当なの?」
檜扇で口元を隠しながら、右近が教えてくれた。
「らしいわよ。夜に、もう何人も見てるのよ。簀子縁だったり、壺(※坪庭)だったり、渡殿(※渡り廊下)だったり、場所は様々だけど、みんな一様に黒い人影を見ているのよ。近付いて話しかけたら霧になって消えてしまった……というのも同じ」
「黒い人影……」
「おかしいのはね、出るのは、この登花殿だけ。桐壺はおろか、隣の弘徽殿だって、そんな話は出ていないのよ」
「じゃあ、この登花殿に何か曰くがあるのかしら? 恨みを抱いたまま死んだ者がいて、悪鬼になったとか……」
わたしが呟くと、右近は眉をひそめた。
「まあ、悪鬼だなんて恐ろしいことを! 嫌だわ、衛門を驚かせるつもりが、これではあべこべね。もう寝てしまうわ」
右近は不本意そうに局に帰っていった。
この登花殿で物の怪やら悪鬼やらは目にしたことはないが、このところ寝苦しい日が続いており、夢見も悪い。
決まって見るのが、周防国での、あの一件だ。
半身が蛇になった女人のあやかしに襲われたときの記憶を、そのまま夢に見るのだ。とぐろに巻きつかれた彦丸が喰われそうになったところで、わたしは飛び起きる。
(彦丸は、どうしているかしら?)
わたしたちを助けてくれた陰陽師の賀茂忠光さまに弟子入りした彦丸は、両親にも黙って周防国を出て行った。それ以来、一度も会っていない。
わたしが酒垂山に連れて行かなければ、彦丸は父親と同じく漁師になって、ずっと周防国で暮らしただろう。
(わたしが彦丸の生き方を変えてしまった)
それは悔いとなって、わたしの胸の内のしこりのようになっている。
忠光さまとともに国中を旅するなかで、修行して陰陽師になれたのだろうか? もしかしたら大内裏の陰陽寮にいるかも……とも思うが、登花殿にいては確かめようもない。
それにしても、夢見の悪さは蒸し暑さだけのせいではない気がする。
実際にあやかしを目にしたわたしだ。この登花殿には、そのときに肌で感じた妖気に近い、不気味な気配がかすかに感じられるのだ。
そして、物の怪の目撃談は増え続け、宰相の君や清少納言さまの耳にも入ることとなった。
「憎らしい物の怪ね! 登花殿の評判に傷がつくわ!」
中宮さまがお昼寝されている間に、女房たち全員が台盤所(※台所)に集まり、話し合いの場が持たれたのだが……。
珍しく宰相の君が、怒気のこもった声を出した。
「お言葉ですが、宰相さま。もう傷はついております」
発言したのは、小兵衛と呼ばれている中臈女房だった。
「小兵衛。それはどういうこと?」
宰相の君が訝しげに訊ねる。
「このところ公達や殿上人の足が遠のいておりますれば、噂が内裏全体に広がっていると考えるのが宜しいかと。まあ、噂の出所は決まっているでしょうが……」
小兵衛にちらりと目線を送られた清少納言さまが、すかさず反論する。
「心外だわ! わたしが言いふらしたとでも!?」
「あなたは親しくしている殿方が多いようですから……」
実際、清少納言さまは藤原実方さま、藤原斉信さま、藤原行成さまなど、錚々たる貴公子たちと浮名を流していた。もちろん、それが根も葉もない噂であることは、わたしがよく知っている。
「あくまで仕事として応対しているだけよ。下衆の勘繰りはやめてほしいものだわ。大体、仕事よりも恋の駆け引きに忙しい方は、大勢いるようだけれど……」
清少納言さまが言うと、何人かがうつむいた。
「と、とにかく! ゆゆしき事態だわ。物の怪がうろついているなんて、恐ろしくて、おちおち寝てもいられない。ずっと寝不足よ」
微妙に話を変えた小兵衛に、なおも清少納言さまが噛みつく。
「嘘おっしゃい。あなたの局から、いつも大きないびきが聞こえてくるわよ」
「何ですって!?」
掴み合いの喧嘩が始まりそうになり、わたしは慌てて止めに入った。
「おやめください! おふたりが争う必要などありません!」
「衛門の言う通りです。中宮さまが知ったら、どんなに悲しまれるか……。憎むべきは、物の怪なのですよ」
宰相の君も、わたしに同調してくださった。
小兵衛と清少納言さまは神妙な表情になり、互いに落ち着きを取り戻したみたいで。
「でも、どうしましょう? 中宮さまはまだ、物の怪の騒動をご存知ないけれど、このままでは……。いずれは主上の御耳にも入るでしょうし、そうなれば、登花殿にお越しになることが……」
清少納言さまが口にしたことは、この場にいる誰もが恐れることだ。中宮さまが皇子をお産みになることは、わたしたち女房の悲願なのだ。
「物の怪を調伏するために僧や陰陽師を呼ぶと、大事になってしまうわ……」
小兵衛が悩ましげに、ため息をつく。
わたしは迷わず口を開いた。
「ご安心ください! わたしが眠らずに、殿舎の夜回りをいたしましょう。物の怪がこうも居つくのは、怖がる者がいるからです。その点、わたしは気丈夫なほうですから、物の怪としても甲斐がなくなって、そのうち登花殿を出て行くでしょう」
言い終わってから、これは差し出がましい真似かしら、と急に畏れ多くなって袖で顔を隠したけれど……。
「それは妙案ね! では、衛門に任せましょう。しばらく夜回りをしてちょうだい。その代わり、午前のお勤めはしなくていいから、昼まで寝ていていいわ」
清少納言さまの有無を言わせぬ調子に、異論を挟む者はいなかった。
右近と呼ばれている同じ下臈女房に訊かれたのは、蒸し暑い夜だった。
簀子縁でぼんやりと星を眺めていたわたしは、
「噂って、どんなもの……?」
と、好奇心が湧いてきた。
「出るらしいのよ。物の怪が……」
「えっ、物の怪が……!?」
びっくりして声が大きくなったわたしを、右近が咎める。
「しーっ! 声が大きいわ」
「だって、急に恐ろしいことを言うんですもの。……で、それは本当なの?」
檜扇で口元を隠しながら、右近が教えてくれた。
「らしいわよ。夜に、もう何人も見てるのよ。簀子縁だったり、壺(※坪庭)だったり、渡殿(※渡り廊下)だったり、場所は様々だけど、みんな一様に黒い人影を見ているのよ。近付いて話しかけたら霧になって消えてしまった……というのも同じ」
「黒い人影……」
「おかしいのはね、出るのは、この登花殿だけ。桐壺はおろか、隣の弘徽殿だって、そんな話は出ていないのよ」
「じゃあ、この登花殿に何か曰くがあるのかしら? 恨みを抱いたまま死んだ者がいて、悪鬼になったとか……」
わたしが呟くと、右近は眉をひそめた。
「まあ、悪鬼だなんて恐ろしいことを! 嫌だわ、衛門を驚かせるつもりが、これではあべこべね。もう寝てしまうわ」
右近は不本意そうに局に帰っていった。
この登花殿で物の怪やら悪鬼やらは目にしたことはないが、このところ寝苦しい日が続いており、夢見も悪い。
決まって見るのが、周防国での、あの一件だ。
半身が蛇になった女人のあやかしに襲われたときの記憶を、そのまま夢に見るのだ。とぐろに巻きつかれた彦丸が喰われそうになったところで、わたしは飛び起きる。
(彦丸は、どうしているかしら?)
わたしたちを助けてくれた陰陽師の賀茂忠光さまに弟子入りした彦丸は、両親にも黙って周防国を出て行った。それ以来、一度も会っていない。
わたしが酒垂山に連れて行かなければ、彦丸は父親と同じく漁師になって、ずっと周防国で暮らしただろう。
(わたしが彦丸の生き方を変えてしまった)
それは悔いとなって、わたしの胸の内のしこりのようになっている。
忠光さまとともに国中を旅するなかで、修行して陰陽師になれたのだろうか? もしかしたら大内裏の陰陽寮にいるかも……とも思うが、登花殿にいては確かめようもない。
それにしても、夢見の悪さは蒸し暑さだけのせいではない気がする。
実際にあやかしを目にしたわたしだ。この登花殿には、そのときに肌で感じた妖気に近い、不気味な気配がかすかに感じられるのだ。
そして、物の怪の目撃談は増え続け、宰相の君や清少納言さまの耳にも入ることとなった。
「憎らしい物の怪ね! 登花殿の評判に傷がつくわ!」
中宮さまがお昼寝されている間に、女房たち全員が台盤所(※台所)に集まり、話し合いの場が持たれたのだが……。
珍しく宰相の君が、怒気のこもった声を出した。
「お言葉ですが、宰相さま。もう傷はついております」
発言したのは、小兵衛と呼ばれている中臈女房だった。
「小兵衛。それはどういうこと?」
宰相の君が訝しげに訊ねる。
「このところ公達や殿上人の足が遠のいておりますれば、噂が内裏全体に広がっていると考えるのが宜しいかと。まあ、噂の出所は決まっているでしょうが……」
小兵衛にちらりと目線を送られた清少納言さまが、すかさず反論する。
「心外だわ! わたしが言いふらしたとでも!?」
「あなたは親しくしている殿方が多いようですから……」
実際、清少納言さまは藤原実方さま、藤原斉信さま、藤原行成さまなど、錚々たる貴公子たちと浮名を流していた。もちろん、それが根も葉もない噂であることは、わたしがよく知っている。
「あくまで仕事として応対しているだけよ。下衆の勘繰りはやめてほしいものだわ。大体、仕事よりも恋の駆け引きに忙しい方は、大勢いるようだけれど……」
清少納言さまが言うと、何人かがうつむいた。
「と、とにかく! ゆゆしき事態だわ。物の怪がうろついているなんて、恐ろしくて、おちおち寝てもいられない。ずっと寝不足よ」
微妙に話を変えた小兵衛に、なおも清少納言さまが噛みつく。
「嘘おっしゃい。あなたの局から、いつも大きないびきが聞こえてくるわよ」
「何ですって!?」
掴み合いの喧嘩が始まりそうになり、わたしは慌てて止めに入った。
「おやめください! おふたりが争う必要などありません!」
「衛門の言う通りです。中宮さまが知ったら、どんなに悲しまれるか……。憎むべきは、物の怪なのですよ」
宰相の君も、わたしに同調してくださった。
小兵衛と清少納言さまは神妙な表情になり、互いに落ち着きを取り戻したみたいで。
「でも、どうしましょう? 中宮さまはまだ、物の怪の騒動をご存知ないけれど、このままでは……。いずれは主上の御耳にも入るでしょうし、そうなれば、登花殿にお越しになることが……」
清少納言さまが口にしたことは、この場にいる誰もが恐れることだ。中宮さまが皇子をお産みになることは、わたしたち女房の悲願なのだ。
「物の怪を調伏するために僧や陰陽師を呼ぶと、大事になってしまうわ……」
小兵衛が悩ましげに、ため息をつく。
わたしは迷わず口を開いた。
「ご安心ください! わたしが眠らずに、殿舎の夜回りをいたしましょう。物の怪がこうも居つくのは、怖がる者がいるからです。その点、わたしは気丈夫なほうですから、物の怪としても甲斐がなくなって、そのうち登花殿を出て行くでしょう」
言い終わってから、これは差し出がましい真似かしら、と急に畏れ多くなって袖で顔を隠したけれど……。
「それは妙案ね! では、衛門に任せましょう。しばらく夜回りをしてちょうだい。その代わり、午前のお勤めはしなくていいから、昼まで寝ていていいわ」
清少納言さまの有無を言わせぬ調子に、異論を挟む者はいなかった。


