◆
犬をめぐる大騒動以後、わたしはすっかり、みくりさまの信奉者となった。
みくりさまが吹かせる〝高貴な風〟を間近で浴び、会話までしたのだ。この感動を誰かに話さずにはいられない。
一度聞かせた相手であっても、構わずに同じ話を繰り返して、うんざりされることも多かった。
ただ彦丸だけは、億劫がらずに何度も話を聞いてくれた。内心は呆れていたかもしれないけれど。
うだるような夏が過ぎ去り、周防国に秋が訪れたころ――。
みくりさまがご病気になってしまった。
熱が下がらないということで、呼び集められた僧侶が邸に泊まり込み、三日三晩、加持祈祷を続けた。
その甲斐あって憑りついていた物の怪は祓えたのか、熱は下がった。
ところが食欲が戻らず、やせ細っていく一方で……。
そうしたみくりさまの容態を、雑仕女の間で飛びかう噂話で耳にしたが、わたしにはおそばで看病することもできない。
(わたしも、みくりさまの御力になりたい!)
歯がゆくて仕方なかったわたしは、妙案を思いついた。
――食欲がないときは、竜胆の根を煎じて飲んだらええんじゃ。
数年前に死んでしまった祖父の口癖を思い出したのだ。竜胆の花を探して、その根をみくりさまに献上すれば、きっと食欲が戻るはず!
「竜胆の花……?」
わたしはさっそく彦丸に相談してみた。
「うん! どこに咲いてるんじゃろか?」
「そんなもん、今はもう、この辺りには咲いとらんよ。昔はあちこちに咲いてたらしいけど、日照りが続いて駄目になったとか……」
「それは知っとるけど、なんとか一輪だけでも手に入らんかなぁ」
「咲いてるとしたら……」
言いよどむ彦丸に、わたしは続きを促す。
「どこ!? 咲いてるところ知ってるの!? 教えて!」
わたしの勢いに気圧されて、彦丸は渋々教えてくれた。
「ちょうど今時分、酒垂山の頂上に咲いてるって聞いたけど……」
「酒垂山……」
それを聞いて、わたしは全身が固まった。
酒垂山とは、国衙の北側にある低山だ。悪霊やら、あやかしやらがうろついているので、絶対に近づくな、と大人たちにきつく言い聞かされてきた。
「あんな山に登ったら、命がいくつあっても足らんで」
「…………」
怯んだわたしを見て、彦丸が説き伏せるように言う。
「なあ、そらには無理じゃ。諦めるしかないで」
けれど、わたしの意志は揺らがない。
「諦めんよ! 行くっ!」
結局、わたしは仕事が休みの日の朝、家族にも黙って酒垂山に登った。ぶつくさ言いながらも、「心配じゃから」と彦丸もついてきてくれて。
低山だから、案外すんなりと頂上まで行けた。
「あった! あれが竜胆の花じゃろ!」
一面に咲き誇る青紫色の花を見つけたわたしたちは、数本だけ根から掘り起こした。
「よかった! これで、みくりさまのお役に立てる……!」
着ていた小袖が土にまみれ、汗でぐっしょりと濡れようとも気にならない。
わたしが感激していると、彦丸は苦笑いを浮かべて、
「そらはまだまだ子どもじゃのう。一度言いだしたら聞かんものなぁ」
と呆れ声を出した。
「子どもでもええよ。みくりさまの為なんじゃから……」
「そのみくりさまとは、たった一度話したきりなんじゃろ?」
ふんだ。あのときの感激は、彦丸にはわからない。
わたしはべえっと舌を出したけれど、思い直して礼を言う。
「ついてきてくれて、ありがとう、彦丸。……じゃけど、わたしにいつも親切にしてくれるのはなんで?」
なんだかんだで、彦丸はいつもわたしに優しい。だから、わたしも彦丸に頼ってしまう。
「な、なんや急に。なんでって……幼なじみやから……。それ以外に理由なんかあるわけないじゃろ」
何となく口を突いて出た問い掛けに、彦丸は顔を赤らめてうろたえる。その様子に、わたしもきゅっと、胸が苦しくなる。
(なんで、こんなに切ない心持ちになるんじゃろ?)
気まずい沈黙を破ったのは、彦丸だった。
「さっさと山を下りるで。あやかしが来たら大変じゃ」
彦丸の先導で下山し、麓にたどり着いて安堵したのも、つかの間だった。
目の前に、いきなり巨大な影が立ちふさがったんだ。
「まあまあ、これはなんと悪しき小童たちじゃろう。山に登るのは見逃してやったというに……」
上から降ってきた女人の声に、わたしたちは立ちすくんだ。
長い黒髪をふり乱した一糸まとわぬ妙齢の女人ではあったが、その下半身は陽光を受けてぎらりと光る鱗に覆われた蛇であった。
(これは……悪い夢じゃ……)
わたしは、目の前の光景が信じられなかった。
「へ、蛇の化け物じゃ!」
彦丸が叫び声が響いて、ようやくわたしは我に返った。
「化け物とはご挨拶じゃないか。この山一帯を司っておる蛇神じゃぞ。此方の許しなく、山に咲く花を摘みとっていくこと、まかりならぬ」
半身が蛇になっている女人は、竜胆の花を持っているわたしを睨みつけた。その表情は、悪鬼の形相と化している。
「この大罪は、おまえらの命をもって償え!」
蛇神が叫ぶと同時に、彦丸がわたしの腕をつかんだ。
「逃げるぞ!」
彦丸に手を引かれ、わたしは走った。……が、持っていた竜胆の花を落としてしまったことに気づいて。
「あっ……竜胆が!」
わたしが立ち止まると、彦丸と手が離れた。
「馬鹿! そんなもん放っておけ!」
「きゃあ!」
すぐさま蛇神に追いつかれ、わたしは尻餅をついた。
犬をめぐる大騒動以後、わたしはすっかり、みくりさまの信奉者となった。
みくりさまが吹かせる〝高貴な風〟を間近で浴び、会話までしたのだ。この感動を誰かに話さずにはいられない。
一度聞かせた相手であっても、構わずに同じ話を繰り返して、うんざりされることも多かった。
ただ彦丸だけは、億劫がらずに何度も話を聞いてくれた。内心は呆れていたかもしれないけれど。
うだるような夏が過ぎ去り、周防国に秋が訪れたころ――。
みくりさまがご病気になってしまった。
熱が下がらないということで、呼び集められた僧侶が邸に泊まり込み、三日三晩、加持祈祷を続けた。
その甲斐あって憑りついていた物の怪は祓えたのか、熱は下がった。
ところが食欲が戻らず、やせ細っていく一方で……。
そうしたみくりさまの容態を、雑仕女の間で飛びかう噂話で耳にしたが、わたしにはおそばで看病することもできない。
(わたしも、みくりさまの御力になりたい!)
歯がゆくて仕方なかったわたしは、妙案を思いついた。
――食欲がないときは、竜胆の根を煎じて飲んだらええんじゃ。
数年前に死んでしまった祖父の口癖を思い出したのだ。竜胆の花を探して、その根をみくりさまに献上すれば、きっと食欲が戻るはず!
「竜胆の花……?」
わたしはさっそく彦丸に相談してみた。
「うん! どこに咲いてるんじゃろか?」
「そんなもん、今はもう、この辺りには咲いとらんよ。昔はあちこちに咲いてたらしいけど、日照りが続いて駄目になったとか……」
「それは知っとるけど、なんとか一輪だけでも手に入らんかなぁ」
「咲いてるとしたら……」
言いよどむ彦丸に、わたしは続きを促す。
「どこ!? 咲いてるところ知ってるの!? 教えて!」
わたしの勢いに気圧されて、彦丸は渋々教えてくれた。
「ちょうど今時分、酒垂山の頂上に咲いてるって聞いたけど……」
「酒垂山……」
それを聞いて、わたしは全身が固まった。
酒垂山とは、国衙の北側にある低山だ。悪霊やら、あやかしやらがうろついているので、絶対に近づくな、と大人たちにきつく言い聞かされてきた。
「あんな山に登ったら、命がいくつあっても足らんで」
「…………」
怯んだわたしを見て、彦丸が説き伏せるように言う。
「なあ、そらには無理じゃ。諦めるしかないで」
けれど、わたしの意志は揺らがない。
「諦めんよ! 行くっ!」
結局、わたしは仕事が休みの日の朝、家族にも黙って酒垂山に登った。ぶつくさ言いながらも、「心配じゃから」と彦丸もついてきてくれて。
低山だから、案外すんなりと頂上まで行けた。
「あった! あれが竜胆の花じゃろ!」
一面に咲き誇る青紫色の花を見つけたわたしたちは、数本だけ根から掘り起こした。
「よかった! これで、みくりさまのお役に立てる……!」
着ていた小袖が土にまみれ、汗でぐっしょりと濡れようとも気にならない。
わたしが感激していると、彦丸は苦笑いを浮かべて、
「そらはまだまだ子どもじゃのう。一度言いだしたら聞かんものなぁ」
と呆れ声を出した。
「子どもでもええよ。みくりさまの為なんじゃから……」
「そのみくりさまとは、たった一度話したきりなんじゃろ?」
ふんだ。あのときの感激は、彦丸にはわからない。
わたしはべえっと舌を出したけれど、思い直して礼を言う。
「ついてきてくれて、ありがとう、彦丸。……じゃけど、わたしにいつも親切にしてくれるのはなんで?」
なんだかんだで、彦丸はいつもわたしに優しい。だから、わたしも彦丸に頼ってしまう。
「な、なんや急に。なんでって……幼なじみやから……。それ以外に理由なんかあるわけないじゃろ」
何となく口を突いて出た問い掛けに、彦丸は顔を赤らめてうろたえる。その様子に、わたしもきゅっと、胸が苦しくなる。
(なんで、こんなに切ない心持ちになるんじゃろ?)
気まずい沈黙を破ったのは、彦丸だった。
「さっさと山を下りるで。あやかしが来たら大変じゃ」
彦丸の先導で下山し、麓にたどり着いて安堵したのも、つかの間だった。
目の前に、いきなり巨大な影が立ちふさがったんだ。
「まあまあ、これはなんと悪しき小童たちじゃろう。山に登るのは見逃してやったというに……」
上から降ってきた女人の声に、わたしたちは立ちすくんだ。
長い黒髪をふり乱した一糸まとわぬ妙齢の女人ではあったが、その下半身は陽光を受けてぎらりと光る鱗に覆われた蛇であった。
(これは……悪い夢じゃ……)
わたしは、目の前の光景が信じられなかった。
「へ、蛇の化け物じゃ!」
彦丸が叫び声が響いて、ようやくわたしは我に返った。
「化け物とはご挨拶じゃないか。この山一帯を司っておる蛇神じゃぞ。此方の許しなく、山に咲く花を摘みとっていくこと、まかりならぬ」
半身が蛇になっている女人は、竜胆の花を持っているわたしを睨みつけた。その表情は、悪鬼の形相と化している。
「この大罪は、おまえらの命をもって償え!」
蛇神が叫ぶと同時に、彦丸がわたしの腕をつかんだ。
「逃げるぞ!」
彦丸に手を引かれ、わたしは走った。……が、持っていた竜胆の花を落としてしまったことに気づいて。
「あっ……竜胆が!」
わたしが立ち止まると、彦丸と手が離れた。
「馬鹿! そんなもん放っておけ!」
「きゃあ!」
すぐさま蛇神に追いつかれ、わたしは尻餅をついた。


