平安後宮おてんば女房と氷の陰陽師

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 犬をめぐる大騒動以後、わたしはすっかり、みくりさまの信奉者となった。
 みくりさまが吹かせる〝高貴な風〟を間近で浴び、会話までしたのだ。この感動を誰かに話さずにはいられない。
 一度聞かせた相手であっても、構わずに同じ話を繰り返して、うんざりされることも多かった。

 ただ彦丸だけは、億劫(おっくう)がらずに何度も話を聞いてくれた。内心は呆れていたかもしれないけれど。

 うだるような夏が過ぎ去り、周防国に秋が訪れたころ――。

 みくりさまがご病気になってしまった。
 熱が下がらないということで、呼び集められた僧侶が邸に泊まり込み、三日三晩、加持祈祷(かじきとう)を続けた。
 その甲斐あって憑(と)りついていた物の怪は祓(はら)えたのか、熱は下がった。

 ところが食欲が戻らず、やせ細っていく一方で……。
 そうしたみくりさまの容態を、雑仕女の間で飛びかう噂話で耳にしたが、わたしにはおそばで看病することもできない。

(わたしも、みくりさまの御力になりたい!)

 歯がゆくて仕方なかったわたしは、妙案を思いついた。


 ――食欲がないときは、竜胆(りんどう)の根を煎(せん)じて飲んだらええんじゃ。


 数年前に死んでしまった祖父の口癖を思い出したのだ。竜胆の花を探して、その根をみくりさまに献上すれば、きっと食欲が戻るはず!

「竜胆の花……?」

 わたしはさっそく彦丸に相談してみた。

「うん! どこに咲いてるんじゃろか?」
「そんなもん、今はもう、この辺りには咲いとらんよ。昔はあちこちに咲いてたらしいけど、日照りが続いて駄目になったとか……」
「それは知っとるけど、なんとか一輪だけでも手に入らんかなぁ」
「咲いてるとしたら……」

 言いよどむ彦丸に、わたしは続きを促す。

「どこ!? 咲いてるところ知ってるの!? 教えて!」

 わたしの勢いに気圧されて、彦丸は渋々教えてくれた。

「ちょうど今時分、酒垂(さかたり)山(やま)の頂上に咲いてるって聞いたけど……」
「酒垂山……」

 それを聞いて、わたしは全身が固まった。
 酒垂山とは、国衙の北側にある低山だ。悪霊やら、あやかしやらがうろついているので、絶対に近づくな、と大人たちにきつく言い聞かされてきた。

「あんな山に登ったら、命がいくつあっても足らんで」
「…………」

 怯(ひる)んだわたしを見て、彦丸が説き伏せるように言う。

「なあ、そらには無理じゃ。諦めるしかないで」

 けれど、わたしの意志は揺らがない。

「諦めんよ! 行くっ!」

 結局、わたしは仕事が休みの日の朝、家族にも黙って酒垂山に登った。ぶつくさ言いながらも、「心配じゃから」と彦丸もついてきてくれて。
 低山だから、案外すんなりと頂上まで行けた。

「あった! あれが竜胆の花じゃろ!」

 一面に咲き誇る青紫色の花を見つけたわたしたちは、数本だけ根から掘り起こした。

「よかった! これで、みくりさまのお役に立てる……!」

 着ていた小袖が土にまみれ、汗でぐっしょりと濡れようとも気にならない。

 わたしが感激していると、彦丸は苦笑いを浮かべて、
「そらはまだまだ子どもじゃのう。一度言いだしたら聞かんものなぁ」
 と呆れ声を出した。

「子どもでもええよ。みくりさまの為なんじゃから……」
「そのみくりさまとは、たった一度話したきりなんじゃろ?」

 ふんだ。あのときの感激は、彦丸にはわからない。
 わたしはべえっと舌を出したけれど、思い直して礼を言う。

「ついてきてくれて、ありがとう、彦丸。……じゃけど、わたしにいつも親切にしてくれるのはなんで?」

 なんだかんだで、彦丸はいつもわたしに優しい。だから、わたしも彦丸に頼ってしまう。

「な、なんや急に。なんでって……幼なじみやから……。それ以外に理由なんかあるわけないじゃろ」

 何となく口を突いて出た問い掛けに、彦丸は顔を赤らめてうろたえる。その様子に、わたしもきゅっと、胸が苦しくなる。

(なんで、こんなに切ない心持ちになるんじゃろ?)

 気まずい沈黙を破ったのは、彦丸だった。

「さっさと山を下りるで。あやかしが来たら大変じゃ」

 彦丸の先導で下山し、麓(ふもと)にたどり着いて安堵したのも、つかの間だった。
 目の前に、いきなり巨大な影が立ちふさがったんだ。

「まあまあ、これはなんと悪しき小童(こわっぱ)たちじゃろう。山に登るのは見逃してやったというに……」

 上から降ってきた女人(にょにん)の声に、わたしたちは立ちすくんだ。
 長い黒髪をふり乱した一糸まとわぬ妙齢の女人ではあったが、その下半身は陽光を受けてぎらりと光る鱗(うろこ)に覆われた蛇であった。

(これは……悪い夢じゃ……)

 わたしは、目の前の光景が信じられなかった。

「へ、蛇の化け物じゃ!」

 彦丸が叫び声が響いて、ようやくわたしは我に返った。

「化け物とはご挨拶じゃないか。この山一帯を司(つかさど)っておる蛇神じゃぞ。此方(こなた)の許しなく、山に咲く花を摘みとっていくこと、まかりならぬ」

 半身が蛇になっている女人は、竜胆の花を持っているわたしを睨みつけた。その表情は、悪鬼の形相と化している。

「この大罪は、おまえらの命をもって償え!」

 蛇神が叫ぶと同時に、彦丸がわたしの腕をつかんだ。

「逃げるぞ!」

 彦丸に手を引かれ、わたしは走った。……が、持っていた竜胆の花を落としてしまったことに気づいて。

「あっ……竜胆が!」

 わたしが立ち止まると、彦丸と手が離れた。

「馬鹿! そんなもん放っておけ!」
「きゃあ!」

 すぐさま蛇神に追いつかれ、わたしは尻餅をついた。