あの女の子の名前は、みくり。やはりわたしと同い年で、数えで九才。
元輔さまの末子で、みくりさま自ら強く望んで、はるばる京から船に乗ってやってきたらしい。そのみくりさまについての噂話では、
「船旅の最中にな、海女に潜らせて、ただ舟の上で待ってるだけの漁師を見て、『なんと情けないことよ』と叱りつけたらしいわ」
などというものもあった。
海女を潜らせている漁師はたいてい夫であるから、本当は妻が無事かどうか気が気じゃない。そんなことも知らない「世間知らずのお姫さまじゃ」と、みんなは笑い話にしている。
だけど、わたしは感心したんだ。海女を不憫に思ってのことなんだもの。
(なんと気持ちのお優しい方だろう……)
しかも女だというのに、字を読み書きできるとのこと。元輔さまに教わっているらしい。
ますます会ってみたくなったが、それは叶わぬことだと気づいてきた。
なぜなら下働きの人間が出入りできる場所は限られていて、元輔さまとみくりさまがお過ごしになられている寝殿や対の屋には近づくことも許されていない。
古くから清原家に仕えているという年配の女房が目を光らせていたし、見張りの侍もいる。
邸で働くようになって一年もたつと、すっかり諦めるようになっていた。
わたしと彦丸は数え十才になった。もちろん、みくりさまも。
そして、歓喜が訪れるのは突然だった。
五月の長雨で鬱々としていたところ、夜明けに雨が上がって、からりと青空が広がった日――。
「誰かぁ!」
甲高い悲鳴が、邸全体に響きわたった。
「どうしたんじゃろ?」
台所の掃除をしていたわたしと母は、何事かと顔を見合わせた。
「誰か来ておくれ!」
東対のほうから女房が叫んでいるようだけれど、まさかわたしたちが呼ばれているわけじゃないだろうし……。
迷っていたら、侍たちの叫び声も響くようになった。
(まさか盗人が襲ってきたんじゃ……!?)
身を固くしていたら、普段なら台所に入ってくるはずのない侍が息を切らしてやってきて、
「野犬が邸内に入り込みよった! すばしっこいから捕まえるのに難儀しておる。おまえたちも手伝え!」
と叫んだ。
(これは好機到来だわ!)
わたしは一目散に駆けていった。
庭に入っていき、寝殿を横切りながら、その立派な建物に目を奪われる。
「そっちに行ったぞ!」
「回り込め!」
「何をしておる! みくりさまがおるんじゃぞ!」
東対では大騒動が巻きおこっていた。
なるほど、たしかに野良犬が一匹入り込んで、走り回っている。
従者や侍たちが追いかけ回し、女房が金切り声をあげるものだから、余計に興奮しているようだ。
「皆さま、お静かに!」
わたしは庭に面している階を上って、人差し指を口元に当てた。
皆がわたしを見て、にわかに静かになると、犬も走るのをやめて落ち着きだした。
「雑仕女か。おまえは犬に慣れておるのか?」
女房が訝しげに訊ねてくる。
「はあ。慣れているといえば慣れております……」
原っぱに行けば野良犬だらけなんだけど……。貴人の女房ともなれば、犬なんて目にすることもないかもしれない。
(飢えてる様子はないから、襲いに来たわけじゃなさそう)
どこからか迷いこんで、周りが騒ぐから戸惑っているだけだ。
「ならば早う捕まえおくれ」
「そうしたいのですが……わたしが中に入るわけには……」
「構わぬ! この際じゃ!」
女房のお許しが出たので、わたしは草鞋を脱ぎすてて簀子縁を突っ切り、室内へと踏み込んだ。
「皆さま、そのまま動かず、お声も出さぬようお願いします」
釘を刺した上で、そろりそろりと歩を進める。
この騒動で誰かが倒したのか、あるいは犬の仕業か、仕切りの几帳が倒れていた。犬はその几帳の匂いを嗅ぎながら、尻尾をふっている。
(油断している今のうちに!)
「捕まえたっ……!?」
犬を抱きかかえたわたしは、几帳の奥の、畳の上に座っている女の子と目が合った。
品のいい朽葉色の袿をまとった、その姿に息を呑む。
(みくりさまだ!)
やや癖はあるものの、よく手入れされた艶のある黒髪。意志の強さを感じさせる瞳。よく通った鼻すじ。形のいい唇は椿の花を思わせる。
その高貴な容姿は、わたしの想像を軽く超えるものだった。
「そなた……名前は?」
椿の花から声が漏れたが、わたしが問われているのだと、すぐに気づけなかった。
「……えっ、あっ、そらです!」
「そら……。助かりましたよ、そら。その犬はどうして、そんなに暴れたのかしら?」
侍たちから「そんな犬は殺してやりましょう」という物騒な声が聞こえてきて、わたしは咄嗟に犬を庇った。
「あの……みくりさまを一目でいいから見てみたかったんやと思います。それで、みくりさまの御姿に感激して、お酒に酔ったようになって……」
必死に言い繕うと、みくりさまは肩をゆすって笑った。
「まあ、面白いこと! それじゃあ、まるっきり人のようだわ!」
「ええ、ええ。感動して、泣いちょりますよ」
「犬も涙を流すのね」
みくりさまは、また朗らかに笑った。
殺気立っていた侍たちも、調子が狂ったのか、一様に苦笑いを浮かべる。
「さあ、みくりさま。あまり下々のものとは話されますな」
女房が几帳を立て直し、わたしたちを追い立てるように咳払いした。
みくりさまの御姿は練絹の生地に隠れてしまったが、溌剌とした声が響いた。
「わたしに会いに来たのなら、その犬は客人です。何か食べ物をご馳走してから、丁重にお見送りしなさいな」
元輔さまの末子で、みくりさま自ら強く望んで、はるばる京から船に乗ってやってきたらしい。そのみくりさまについての噂話では、
「船旅の最中にな、海女に潜らせて、ただ舟の上で待ってるだけの漁師を見て、『なんと情けないことよ』と叱りつけたらしいわ」
などというものもあった。
海女を潜らせている漁師はたいてい夫であるから、本当は妻が無事かどうか気が気じゃない。そんなことも知らない「世間知らずのお姫さまじゃ」と、みんなは笑い話にしている。
だけど、わたしは感心したんだ。海女を不憫に思ってのことなんだもの。
(なんと気持ちのお優しい方だろう……)
しかも女だというのに、字を読み書きできるとのこと。元輔さまに教わっているらしい。
ますます会ってみたくなったが、それは叶わぬことだと気づいてきた。
なぜなら下働きの人間が出入りできる場所は限られていて、元輔さまとみくりさまがお過ごしになられている寝殿や対の屋には近づくことも許されていない。
古くから清原家に仕えているという年配の女房が目を光らせていたし、見張りの侍もいる。
邸で働くようになって一年もたつと、すっかり諦めるようになっていた。
わたしと彦丸は数え十才になった。もちろん、みくりさまも。
そして、歓喜が訪れるのは突然だった。
五月の長雨で鬱々としていたところ、夜明けに雨が上がって、からりと青空が広がった日――。
「誰かぁ!」
甲高い悲鳴が、邸全体に響きわたった。
「どうしたんじゃろ?」
台所の掃除をしていたわたしと母は、何事かと顔を見合わせた。
「誰か来ておくれ!」
東対のほうから女房が叫んでいるようだけれど、まさかわたしたちが呼ばれているわけじゃないだろうし……。
迷っていたら、侍たちの叫び声も響くようになった。
(まさか盗人が襲ってきたんじゃ……!?)
身を固くしていたら、普段なら台所に入ってくるはずのない侍が息を切らしてやってきて、
「野犬が邸内に入り込みよった! すばしっこいから捕まえるのに難儀しておる。おまえたちも手伝え!」
と叫んだ。
(これは好機到来だわ!)
わたしは一目散に駆けていった。
庭に入っていき、寝殿を横切りながら、その立派な建物に目を奪われる。
「そっちに行ったぞ!」
「回り込め!」
「何をしておる! みくりさまがおるんじゃぞ!」
東対では大騒動が巻きおこっていた。
なるほど、たしかに野良犬が一匹入り込んで、走り回っている。
従者や侍たちが追いかけ回し、女房が金切り声をあげるものだから、余計に興奮しているようだ。
「皆さま、お静かに!」
わたしは庭に面している階を上って、人差し指を口元に当てた。
皆がわたしを見て、にわかに静かになると、犬も走るのをやめて落ち着きだした。
「雑仕女か。おまえは犬に慣れておるのか?」
女房が訝しげに訊ねてくる。
「はあ。慣れているといえば慣れております……」
原っぱに行けば野良犬だらけなんだけど……。貴人の女房ともなれば、犬なんて目にすることもないかもしれない。
(飢えてる様子はないから、襲いに来たわけじゃなさそう)
どこからか迷いこんで、周りが騒ぐから戸惑っているだけだ。
「ならば早う捕まえおくれ」
「そうしたいのですが……わたしが中に入るわけには……」
「構わぬ! この際じゃ!」
女房のお許しが出たので、わたしは草鞋を脱ぎすてて簀子縁を突っ切り、室内へと踏み込んだ。
「皆さま、そのまま動かず、お声も出さぬようお願いします」
釘を刺した上で、そろりそろりと歩を進める。
この騒動で誰かが倒したのか、あるいは犬の仕業か、仕切りの几帳が倒れていた。犬はその几帳の匂いを嗅ぎながら、尻尾をふっている。
(油断している今のうちに!)
「捕まえたっ……!?」
犬を抱きかかえたわたしは、几帳の奥の、畳の上に座っている女の子と目が合った。
品のいい朽葉色の袿をまとった、その姿に息を呑む。
(みくりさまだ!)
やや癖はあるものの、よく手入れされた艶のある黒髪。意志の強さを感じさせる瞳。よく通った鼻すじ。形のいい唇は椿の花を思わせる。
その高貴な容姿は、わたしの想像を軽く超えるものだった。
「そなた……名前は?」
椿の花から声が漏れたが、わたしが問われているのだと、すぐに気づけなかった。
「……えっ、あっ、そらです!」
「そら……。助かりましたよ、そら。その犬はどうして、そんなに暴れたのかしら?」
侍たちから「そんな犬は殺してやりましょう」という物騒な声が聞こえてきて、わたしは咄嗟に犬を庇った。
「あの……みくりさまを一目でいいから見てみたかったんやと思います。それで、みくりさまの御姿に感激して、お酒に酔ったようになって……」
必死に言い繕うと、みくりさまは肩をゆすって笑った。
「まあ、面白いこと! それじゃあ、まるっきり人のようだわ!」
「ええ、ええ。感動して、泣いちょりますよ」
「犬も涙を流すのね」
みくりさまは、また朗らかに笑った。
殺気立っていた侍たちも、調子が狂ったのか、一様に苦笑いを浮かべる。
「さあ、みくりさま。あまり下々のものとは話されますな」
女房が几帳を立て直し、わたしたちを追い立てるように咳払いした。
みくりさまの御姿は練絹の生地に隠れてしまったが、溌剌とした声が響いた。
「わたしに会いに来たのなら、その犬は客人です。何か食べ物をご馳走してから、丁重にお見送りしなさいな」


