「新しい周防守さまがお着きになったぞ!」
天延二年(九七四年)、海風に夏の気配が感じられるようになった四月の終わり――。
周防国(※現在の山口県東南部)の周防灘に面した、国衙(※国司が地方政務を執る役所群)の周辺は、にわかに騒々しくなった。
「姉さま! うちらも見に行こう!」
外で着物を洗っていたわたしは、幼い弟と妹たちに引っ張られ、大通りへと出た。
ところが、人だかりが凄くて何も見えない。
「今度の周防守さまは、なんでも京でも有名な歌人らしいわ」
「歌人……?」
「ほら、歌詠みや。柿本人麻呂とか、額田王とか……」
「おお、そりゃええのう。なら見目麗しい貴人じゃろうて」
耳に入ってくる大人たちの噂話に胸を弾ませるわたしだけれど……。ひしめきあう人々で、視界が完全にふさがれている。
「何も見えんねぇ」
せっかく出てきたのに……と、がっかりしていたら。
「そら!」
長らく住む人のないおんぼろ邸の土壁の上から、聞きなじみのある声が降ってきた。
「あっ、彦丸!?」
幼なじみの彦丸だった。数え九才のわたしと同い年の男の子だ。漁師の父親の手伝いをよくしているので、陽に焼けた肌がまぶしい。
「こっからだとよ~く見えるぞ。そらたちも上がってこいよ」
「そんなとこに登ったりして、怒られんの?」
「な~に、何かやらかして逃げていった役人の邸じゃ。誰も怒ったりせんよ。そこの木箱にのっかれや。引き上げたる」
彦丸は手をのばして、弟や妹たちを軽々と引き上げてくれた。
「わたしはええよ……。重いし……」
「重いことあるかい。ええから、手をのばせや」
言葉どおり、彦丸は力強くわたしを引き上げてくれた。
(泣いてばかりいた、あの彦丸が……)
いつのまにか逞しくなってきた彦丸に、わたしは気恥ずかしさを覚える。それを誤魔化すように、わざとはしゃいだ。
「わあ! よう見えるね!」
「じゃろ?」
わたしの気も知らず、彦丸は得意げに胸をそらした。
……と、海岸の方角から行列が進んできた。
国衙から手迎えた役人たちに囲まれた一団の先頭は、馬に乗った貴人だ。
「あれが新しい周防守さまじゃ!」
誰かが叫んだが、その顔には深いしわが刻まれていた。長くのびた髭は真っ白で、背中もやや曲がっている。
「ずいぶんと年寄りやないか」
「見目麗しい貴人はどこにおるんじゃ」
「あれじゃ、あの老馬とそう変わらんわ」
役人が用意した、老いてゆっくりしか動けない馬になぞらえて、あちこちから嘲笑の声が飛びかう。
わたしも想像していた貴人と違ったことに落胆したものの、すぐにそんなことはどうでも良くなった。行列の中央を、足取り軽く歩いている壺装束(※女性の外出着)の女の子に視線を奪われたからだ。
市女笠をかぶっているので顔は隠れているが、背丈を見るに、わたしと同い年くらいのようだ。
(京からやってきた女の子……)
目には見えぬが、全身から気品のようなものを発していて、わたしはすっかり見惚れてしまった。
この田舎には望むべくもなかった〝高貴な風〟を吹かせている。
野次馬たちも気圧されたように、静まり返った。
行列が見えなくなると、わたしは大きく息を吐きだした。
「あの女の子、周防守さまの娘なんじゃろか?」
「たぶんな。まるで孫娘みたいじゃったけどな……」
彦丸が悪戯っぽく、ふふっと笑う。
「笠で顔が見えんかったのが残念じゃ。どんなお顔なんじゃろ? 見たかったわぁ」
「貴人の娘が、俺らみたいなもんに顔を晒すわけないわ」
「そうなん?」
「そういうもんじゃ。そらは物を知らんのう」
彦丸の偉ぶった言い方にむっとして、わたしは頬をふくらませた。
「お邸に入ったら、もうあの子は駕籠の中の鳥じゃ。二度と姿は拝めんやろなぁ」
実際、彦丸の言うとおりになった。
新しい周防守――清原元輔さまの住まいとして用意された邸は、国衙の最奥にあり、京から伴ってきたという一人娘は、本当に邸から一歩たりとも出なかった。
(もう、お顔は拝めんのかぁ)
わたしらみたいにお使いで市場に行かされることもなければ、原っぱや海岸を走り回って遊ぶこともなさそうだし。
諦めていたら、突然に思いがけないことになった。
わたしの父は腕のいい大工さんだけれど、仕事中に怪我してしまい、療養することになったのだ。その間の収入が途絶えることになり、母は慌てて外に仕事を求めた。そして伝手を頼って見つけてきたのが……。
「周防守さまのお邸で働かせてもらえるんよ!」
母とわたしを雇入れてくださるという。
(あの子と会えるかもしれん!)
月の半分、わたしは母といっしょに、通いで清原家の邸で働くことになった。
外で働かされるというのに楽しげなわたしを、母は不思議がったが、あの子に会えるかも……となれば心は躍る。母といっしょだから心細さもない。
わたしたちはいわゆる雑仕女として、炊事や洗濯など、あらゆる雑用を任された。
とても広い邸に感動したのも最初だけ。すぐに慣れたし、やたらと顎で使われるので大変だった。
(いつかは、あの子に会える!)
それだけを楽しみに働いていたら、同じ雑仕女たちの噂話が耳に入り、清原家の内部事情が次第にわかってきた。
天延二年(九七四年)、海風に夏の気配が感じられるようになった四月の終わり――。
周防国(※現在の山口県東南部)の周防灘に面した、国衙(※国司が地方政務を執る役所群)の周辺は、にわかに騒々しくなった。
「姉さま! うちらも見に行こう!」
外で着物を洗っていたわたしは、幼い弟と妹たちに引っ張られ、大通りへと出た。
ところが、人だかりが凄くて何も見えない。
「今度の周防守さまは、なんでも京でも有名な歌人らしいわ」
「歌人……?」
「ほら、歌詠みや。柿本人麻呂とか、額田王とか……」
「おお、そりゃええのう。なら見目麗しい貴人じゃろうて」
耳に入ってくる大人たちの噂話に胸を弾ませるわたしだけれど……。ひしめきあう人々で、視界が完全にふさがれている。
「何も見えんねぇ」
せっかく出てきたのに……と、がっかりしていたら。
「そら!」
長らく住む人のないおんぼろ邸の土壁の上から、聞きなじみのある声が降ってきた。
「あっ、彦丸!?」
幼なじみの彦丸だった。数え九才のわたしと同い年の男の子だ。漁師の父親の手伝いをよくしているので、陽に焼けた肌がまぶしい。
「こっからだとよ~く見えるぞ。そらたちも上がってこいよ」
「そんなとこに登ったりして、怒られんの?」
「な~に、何かやらかして逃げていった役人の邸じゃ。誰も怒ったりせんよ。そこの木箱にのっかれや。引き上げたる」
彦丸は手をのばして、弟や妹たちを軽々と引き上げてくれた。
「わたしはええよ……。重いし……」
「重いことあるかい。ええから、手をのばせや」
言葉どおり、彦丸は力強くわたしを引き上げてくれた。
(泣いてばかりいた、あの彦丸が……)
いつのまにか逞しくなってきた彦丸に、わたしは気恥ずかしさを覚える。それを誤魔化すように、わざとはしゃいだ。
「わあ! よう見えるね!」
「じゃろ?」
わたしの気も知らず、彦丸は得意げに胸をそらした。
……と、海岸の方角から行列が進んできた。
国衙から手迎えた役人たちに囲まれた一団の先頭は、馬に乗った貴人だ。
「あれが新しい周防守さまじゃ!」
誰かが叫んだが、その顔には深いしわが刻まれていた。長くのびた髭は真っ白で、背中もやや曲がっている。
「ずいぶんと年寄りやないか」
「見目麗しい貴人はどこにおるんじゃ」
「あれじゃ、あの老馬とそう変わらんわ」
役人が用意した、老いてゆっくりしか動けない馬になぞらえて、あちこちから嘲笑の声が飛びかう。
わたしも想像していた貴人と違ったことに落胆したものの、すぐにそんなことはどうでも良くなった。行列の中央を、足取り軽く歩いている壺装束(※女性の外出着)の女の子に視線を奪われたからだ。
市女笠をかぶっているので顔は隠れているが、背丈を見るに、わたしと同い年くらいのようだ。
(京からやってきた女の子……)
目には見えぬが、全身から気品のようなものを発していて、わたしはすっかり見惚れてしまった。
この田舎には望むべくもなかった〝高貴な風〟を吹かせている。
野次馬たちも気圧されたように、静まり返った。
行列が見えなくなると、わたしは大きく息を吐きだした。
「あの女の子、周防守さまの娘なんじゃろか?」
「たぶんな。まるで孫娘みたいじゃったけどな……」
彦丸が悪戯っぽく、ふふっと笑う。
「笠で顔が見えんかったのが残念じゃ。どんなお顔なんじゃろ? 見たかったわぁ」
「貴人の娘が、俺らみたいなもんに顔を晒すわけないわ」
「そうなん?」
「そういうもんじゃ。そらは物を知らんのう」
彦丸の偉ぶった言い方にむっとして、わたしは頬をふくらませた。
「お邸に入ったら、もうあの子は駕籠の中の鳥じゃ。二度と姿は拝めんやろなぁ」
実際、彦丸の言うとおりになった。
新しい周防守――清原元輔さまの住まいとして用意された邸は、国衙の最奥にあり、京から伴ってきたという一人娘は、本当に邸から一歩たりとも出なかった。
(もう、お顔は拝めんのかぁ)
わたしらみたいにお使いで市場に行かされることもなければ、原っぱや海岸を走り回って遊ぶこともなさそうだし。
諦めていたら、突然に思いがけないことになった。
わたしの父は腕のいい大工さんだけれど、仕事中に怪我してしまい、療養することになったのだ。その間の収入が途絶えることになり、母は慌てて外に仕事を求めた。そして伝手を頼って見つけてきたのが……。
「周防守さまのお邸で働かせてもらえるんよ!」
母とわたしを雇入れてくださるという。
(あの子と会えるかもしれん!)
月の半分、わたしは母といっしょに、通いで清原家の邸で働くことになった。
外で働かされるというのに楽しげなわたしを、母は不思議がったが、あの子に会えるかも……となれば心は躍る。母といっしょだから心細さもない。
わたしたちはいわゆる雑仕女として、炊事や洗濯など、あらゆる雑用を任された。
とても広い邸に感動したのも最初だけ。すぐに慣れたし、やたらと顎で使われるので大変だった。
(いつかは、あの子に会える!)
それだけを楽しみに働いていたら、同じ雑仕女たちの噂話が耳に入り、清原家の内部事情が次第にわかってきた。


