桜町の中心地は、蛇ノ目村の静けさが嘘のような繁華街だ。
大通りには飲食店や個人商店が所狭しと建ち並び、せわしく人々が行き交う。旅館や芝居小屋も揃っている。
小規模だが、近ごろ流行りの勧商場まであって、朝から賑わいを見せていた。これは西洋ではデパートと呼ばれていて、一つの大きな建物内に多数の商店が集まっている営業形態のものだ。
大通りから脇道に入っていくと、琴音が通う高等女学校がある。この辺りでは【桜高女】で通っている名門である。
「行ってらっしゃいまし、お嬢さま。お迎えはいつも通りに……」
校門で琴音を下ろすと、栄八は無表情のまま人力車を引いて、そそくさと行ってしまった。
(やっと一人になれたわ)
琴音の表情から緊張が抜け落ち、頬に赤味が差していく。
「おはようございます! 涼風さま」
あっという間に下級生に囲まれ、ひっきりなしに挨拶が続いた。
「ごきげんよう」
琴音はしっかり一人ひとりの目を見て応じ、微笑んでみせる。
真っ赤な着物に海老茶の袴を合わせ、下げ髪にも真っ赤なリボンをつけた琴音は、肌の白さと相まって可憐だ。しかも自分の考えをはきはきと話す自由闊達な女生徒であり、〝深紅の姫君〟として誰からも慕われる存在であった。
琴音にしてみれば、学校にいる間だけは〝本当の自分〟に戻れる。両親の顔色をうかがう必要もなければ、閉鎖的な村で息の詰まる思いもしなくて済むのだから。
「琴音さん、おはよう!」
この四月に最終学年の五年生になったばかりの琴音が自分の教室に入っていくと、ここでもたちまち同級生に囲まれる。
「ごきげんよう」
またも丁寧に応じると、窓際の自分の席へ向かう。
すると、待ち構えていたように、友人の長谷川よし江と岩崎弥生が話しかけてきた。二人とも桜町のお嬢さまで、よし江は造り酒屋の娘、弥生は旅館の娘だ。
「琴音さん! 今朝は何通なの?」
よし江が尋ねれば、弥生も瞳に好奇心を宿らせて、
「十通はあるんじゃないかしら。そうでしょう?」
と、答えを促す。
「九通だったわ」
琴音は懐から手紙の束を取り出した。
「あら、惜しい! でも、新入生が学校に慣れてきたら、きっと琴音さんに夢中になるわ」
「そうしたら、毎日二十通は下らないわよ、きっと」
よし江が手紙の束に手をのばしたが、琴音はさっと仕舞いこんだ。
「いつも言っているでしょう? 恋文には書いた人の真剣な気持ちがこもっているのよ。どんなに仲良しでも、これだけは見せられないわ」
きっぱりと言い放ったが、それで気まずくなるような間柄でもない。
「わかっているわ。琴音さんは真面目だものね」
よし江と弥生が顔を見合わせて、くすくす笑う。
女学生は、男と話すだけで「はしたない」と謗られるご時世である。女学校においては、女生徒同士で絆を深めるのが流行りであった。
男女の恋愛を模した遊戯として行う者もいれば、友愛を超えて真摯に恋うる者もいる。
可憐な琴音は、もっぱら情熱的な愛の対象となっていて、恋文を渡されるのは日常茶飯事だ。もっとも、その一方的な恋が成就したことは一度としてないのだが。
「ねえ、勧商場の隣に、新しいカフェーができたのはご存知? 明日、授業終わりに行ってみない?」
「いいわね! ……あっ」
よし江の誘いに、弥生が表情を曇らせる。
「明日はうちの旅館に団体客が来るから、手伝うように言われているのよ。明後日はどうかしら?」
「うーん、明後日は級長の集まりがあるから……」
今度は、よし江が眉尻を下げた。
「じゃあ、明々後日の木曜日は?」
「木曜なら大丈夫。琴音さんは?」
「何も予定はないけれど……」
琴音の脳裏に、苦虫を潰したような表情の両親が思い浮かぶ。町を遊び歩くことを両親は良しとしていない。ばれたら叱責されるだろうが……。
(久しぶりに羽目を外したい気分だわ)
不安よりもカフェーに行ってみたい気持ちが勝った。
「栄八さんには上手いこと言って誤魔化すわ。一時間くらいなら大丈夫よ」
「そうこなくちゃ。決まりね!」
「口裏合わせなら、私たちも協力するわ」
「ありがとう」
行くと決めたら、不安はたちまち消え去った。
(桜町にいる間くらい、自由に楽しんでいいわよね)
数日後の楽しみができたことで、琴音の心は少し軽くなるのだった。
「ところで、これをご覧になって」
おもむろに、弥生が『西国新報』の朝刊を取りだした。
「あら、またお家から新聞を持ちだしてきたのね。叱られたりしないの?」
琴音が呆れ半分、心配半分で訊くが、当の弥生はけろりとしている。
「平気よ。うちの旅館には新聞がたくさんあるもの。一部くらいなくなっても、誰も気づきやしないわ」
「まあ、悪いこと」
よし江は呆れ声を出しながらも、さっそく一面の記事に見入っている。
ハレー彗星が最接近する四月二十日の夜を境に、大地震が頻発するであろう、との見立てが載っている。どこかの地震学者の談話つきだ。
先日は、箒星を見たら目が潰れるという見出しだったが……。手を変え品を変え、人々の不安を煽ってくる。
「よくもまあ、そんなに嘘八百を……」
琴音は肩をすくめたが、いかがわしい記事は女学生たちの好奇心をくすぐる。まわりの同級生たちも、「見せて」と集まってきた。
だが、聡明なる【桜高女】の生徒たちが、この嘘を鵜呑みにすることはない。それはきわめてナンセンスなのだから。
大通りには飲食店や個人商店が所狭しと建ち並び、せわしく人々が行き交う。旅館や芝居小屋も揃っている。
小規模だが、近ごろ流行りの勧商場まであって、朝から賑わいを見せていた。これは西洋ではデパートと呼ばれていて、一つの大きな建物内に多数の商店が集まっている営業形態のものだ。
大通りから脇道に入っていくと、琴音が通う高等女学校がある。この辺りでは【桜高女】で通っている名門である。
「行ってらっしゃいまし、お嬢さま。お迎えはいつも通りに……」
校門で琴音を下ろすと、栄八は無表情のまま人力車を引いて、そそくさと行ってしまった。
(やっと一人になれたわ)
琴音の表情から緊張が抜け落ち、頬に赤味が差していく。
「おはようございます! 涼風さま」
あっという間に下級生に囲まれ、ひっきりなしに挨拶が続いた。
「ごきげんよう」
琴音はしっかり一人ひとりの目を見て応じ、微笑んでみせる。
真っ赤な着物に海老茶の袴を合わせ、下げ髪にも真っ赤なリボンをつけた琴音は、肌の白さと相まって可憐だ。しかも自分の考えをはきはきと話す自由闊達な女生徒であり、〝深紅の姫君〟として誰からも慕われる存在であった。
琴音にしてみれば、学校にいる間だけは〝本当の自分〟に戻れる。両親の顔色をうかがう必要もなければ、閉鎖的な村で息の詰まる思いもしなくて済むのだから。
「琴音さん、おはよう!」
この四月に最終学年の五年生になったばかりの琴音が自分の教室に入っていくと、ここでもたちまち同級生に囲まれる。
「ごきげんよう」
またも丁寧に応じると、窓際の自分の席へ向かう。
すると、待ち構えていたように、友人の長谷川よし江と岩崎弥生が話しかけてきた。二人とも桜町のお嬢さまで、よし江は造り酒屋の娘、弥生は旅館の娘だ。
「琴音さん! 今朝は何通なの?」
よし江が尋ねれば、弥生も瞳に好奇心を宿らせて、
「十通はあるんじゃないかしら。そうでしょう?」
と、答えを促す。
「九通だったわ」
琴音は懐から手紙の束を取り出した。
「あら、惜しい! でも、新入生が学校に慣れてきたら、きっと琴音さんに夢中になるわ」
「そうしたら、毎日二十通は下らないわよ、きっと」
よし江が手紙の束に手をのばしたが、琴音はさっと仕舞いこんだ。
「いつも言っているでしょう? 恋文には書いた人の真剣な気持ちがこもっているのよ。どんなに仲良しでも、これだけは見せられないわ」
きっぱりと言い放ったが、それで気まずくなるような間柄でもない。
「わかっているわ。琴音さんは真面目だものね」
よし江と弥生が顔を見合わせて、くすくす笑う。
女学生は、男と話すだけで「はしたない」と謗られるご時世である。女学校においては、女生徒同士で絆を深めるのが流行りであった。
男女の恋愛を模した遊戯として行う者もいれば、友愛を超えて真摯に恋うる者もいる。
可憐な琴音は、もっぱら情熱的な愛の対象となっていて、恋文を渡されるのは日常茶飯事だ。もっとも、その一方的な恋が成就したことは一度としてないのだが。
「ねえ、勧商場の隣に、新しいカフェーができたのはご存知? 明日、授業終わりに行ってみない?」
「いいわね! ……あっ」
よし江の誘いに、弥生が表情を曇らせる。
「明日はうちの旅館に団体客が来るから、手伝うように言われているのよ。明後日はどうかしら?」
「うーん、明後日は級長の集まりがあるから……」
今度は、よし江が眉尻を下げた。
「じゃあ、明々後日の木曜日は?」
「木曜なら大丈夫。琴音さんは?」
「何も予定はないけれど……」
琴音の脳裏に、苦虫を潰したような表情の両親が思い浮かぶ。町を遊び歩くことを両親は良しとしていない。ばれたら叱責されるだろうが……。
(久しぶりに羽目を外したい気分だわ)
不安よりもカフェーに行ってみたい気持ちが勝った。
「栄八さんには上手いこと言って誤魔化すわ。一時間くらいなら大丈夫よ」
「そうこなくちゃ。決まりね!」
「口裏合わせなら、私たちも協力するわ」
「ありがとう」
行くと決めたら、不安はたちまち消え去った。
(桜町にいる間くらい、自由に楽しんでいいわよね)
数日後の楽しみができたことで、琴音の心は少し軽くなるのだった。
「ところで、これをご覧になって」
おもむろに、弥生が『西国新報』の朝刊を取りだした。
「あら、またお家から新聞を持ちだしてきたのね。叱られたりしないの?」
琴音が呆れ半分、心配半分で訊くが、当の弥生はけろりとしている。
「平気よ。うちの旅館には新聞がたくさんあるもの。一部くらいなくなっても、誰も気づきやしないわ」
「まあ、悪いこと」
よし江は呆れ声を出しながらも、さっそく一面の記事に見入っている。
ハレー彗星が最接近する四月二十日の夜を境に、大地震が頻発するであろう、との見立てが載っている。どこかの地震学者の談話つきだ。
先日は、箒星を見たら目が潰れるという見出しだったが……。手を変え品を変え、人々の不安を煽ってくる。
「よくもまあ、そんなに嘘八百を……」
琴音は肩をすくめたが、いかがわしい記事は女学生たちの好奇心をくすぐる。まわりの同級生たちも、「見せて」と集まってきた。
だが、聡明なる【桜高女】の生徒たちが、この嘘を鵜呑みにすることはない。それはきわめてナンセンスなのだから。

