署長たちが出ていったあと、幻十郎は永井軍曹に謝った。
「すまない、永井。おまえの努力を無駄にしてしまった……」
「いえ……」
蛇ノ目村を管轄している桜町警察署と連携するため、水面下で動いていた永井軍曹だが、すべては徒労に終わったのだ。さすがに落胆の色は隠せない。
「これからどうする?」
能登に訊ねられたが、幻十郎はすぐには答えられなかった。
雑談しながら廊下を歩いている陸軍兵士たちの声が、沈黙の流れる室内にまで響いた。
同じ陸軍ではあるが、他の部隊を頼ることは、警察に頼るよりもさらに難しい。
(帝都とは勝手が違いすぎる)
平穏が訪れて久しい西国では、悪しきあやかしの悪行や、神の暴虐は真に迫った脅威ではない。自分たちの置かれた難しい立場を、改めて痛感させられる。
幻十郎は歯噛みしながら、小さいが、激情のこもった声を発した。
「おまえたちは、この件から手を引け。あとは、私が一人でやる」
これ以上、任務を全うするなら、それなりの覚悟がいる。
「おい、それはどういうことだ?」
能登が苛立たしげに食ってかかってきた。
「第二小隊は待機命令が出た。手を引いたほうがいいだろう。これから先、圧力も強まるだろうしな」
「俺は第四小隊だ! 関係ないだろう!」
「私たちは諜報員だ。素性を知られずに行動することが肝要だ。おまえはもう、警察の連中に知られている。役には立たん。だから〝変化〟できる私だけでも……」
「格好つけんな、馬鹿が!」
能登は声を荒げ、幻十郎の胸倉をつかんできた。
「おまえ一人で村に乗り込む腹だろうが! 琴音さんを助けるために!」
「…………」
「それがどういう結果を招くか、わかっているんだろうな!?」
「お、落ち着いてください!」
永井軍曹が、慌てて間に入る。
「……はなせよ」
幻十郎は、能登の手をふりほどき、皺になったカッターシャツを直す。
能登は肩をすくめ、鼻を鳴らした。
「おまえは、俺たちを守るために一人でやるつもりだろうがな。そんな意を汲んでくれる組織はどこにもない。おまえの自己満足の所為で、隊長たちは詰め腹を切らされるだろうよ。第二小隊の連中だって出世街道から外れる。俺はとっくに外れてるから構わないがな……」
「私は……」
能登の言っていることは正しい。正しいが、幻十郎はそんなことに気が回らないほどに焦っていた。何と言葉を返していいかわからず、唇を引き結ぶ。
「失礼します!」
そこへ大柄な榎本軍曹が、大きな足音とともに会議室へ入ってきた。
「旧都の成田曹長から無線連絡が入りました! 泉葉蔵の次男――葉太と見られる男を捕まえたそうです!」
その報告を聞くや、能登はにんまりとした。能登らしい表情だ。
「八神! こいつは吉報だぞ! 旧都へ行こう!」
「えっ……?」
幻十郎が目を丸くしていると、もう能登は出掛ける支度をしていた。
「蛇ノ目村に乗り込むには、もう少し決め手が必要なんだ。その決め手になりうる男が、旧都にいるってことだ!」
◆
二十日の夕刻になった。
ついに、あと数時間で、凶星が最接近するのだ。
精進潔斎を終えた琴音は、白い着物に着がえて、その時が来るのをじっと待っていた。
由松は「家族みんなでハレー彗星を見ましょう」と言っていたが、結局それは叶いそうにない。
(由松は元気にしているかしら)
最後に一目でいいから会いたかった。
やがて閂が開けられ、重々しい扉が動くと同時に、橙色の光が室内に入り込む。
眩しさに、琴音は目を細めた。
「お時間です」
香世と沙世が静かに入ってきた。
この二日間、二人は無愛想ながら親切ではあった。決して琴音を乱雑に扱わず、精進料理ではあるが、食事もきちんと運んできてくれた。さらに心身を清める手伝いをし、祈祷もしてくれた。
「香世さん、沙世さん、ありがとう。大変お世話になりました」
琴音が頭を下げると、まさか礼を言われるとは思わなかったらしい。二人は顔を見合わて、やや戸惑ったような表情を見せた。……が、すぐに元の調子に戻った。
「兄さまは、一足先に禁足地に行っております」
「私たちも移動しましょう」
二人は巫女装束を脱ぎ捨てて全裸になると、その艶やかな背中にそれぞれの翼を広げた。
「はい」
琴音が二人の手を取った刹那、夕闇が支配する蛇ヶ森の最深部へと移動した。
「奥にお進みください」
香世に言われるまま、琴音は歩を進めた。
(これが、蛇神さまが住まう蛇淵沼……)
これほどまでに大きいとは思わなかった。そして、これほどまでに禍々しいとも……。
落ちたら最後、二度と這い上がれぬ底なし沼のほとりに、久葉は立っていた。
「すまない、永井。おまえの努力を無駄にしてしまった……」
「いえ……」
蛇ノ目村を管轄している桜町警察署と連携するため、水面下で動いていた永井軍曹だが、すべては徒労に終わったのだ。さすがに落胆の色は隠せない。
「これからどうする?」
能登に訊ねられたが、幻十郎はすぐには答えられなかった。
雑談しながら廊下を歩いている陸軍兵士たちの声が、沈黙の流れる室内にまで響いた。
同じ陸軍ではあるが、他の部隊を頼ることは、警察に頼るよりもさらに難しい。
(帝都とは勝手が違いすぎる)
平穏が訪れて久しい西国では、悪しきあやかしの悪行や、神の暴虐は真に迫った脅威ではない。自分たちの置かれた難しい立場を、改めて痛感させられる。
幻十郎は歯噛みしながら、小さいが、激情のこもった声を発した。
「おまえたちは、この件から手を引け。あとは、私が一人でやる」
これ以上、任務を全うするなら、それなりの覚悟がいる。
「おい、それはどういうことだ?」
能登が苛立たしげに食ってかかってきた。
「第二小隊は待機命令が出た。手を引いたほうがいいだろう。これから先、圧力も強まるだろうしな」
「俺は第四小隊だ! 関係ないだろう!」
「私たちは諜報員だ。素性を知られずに行動することが肝要だ。おまえはもう、警察の連中に知られている。役には立たん。だから〝変化〟できる私だけでも……」
「格好つけんな、馬鹿が!」
能登は声を荒げ、幻十郎の胸倉をつかんできた。
「おまえ一人で村に乗り込む腹だろうが! 琴音さんを助けるために!」
「…………」
「それがどういう結果を招くか、わかっているんだろうな!?」
「お、落ち着いてください!」
永井軍曹が、慌てて間に入る。
「……はなせよ」
幻十郎は、能登の手をふりほどき、皺になったカッターシャツを直す。
能登は肩をすくめ、鼻を鳴らした。
「おまえは、俺たちを守るために一人でやるつもりだろうがな。そんな意を汲んでくれる組織はどこにもない。おまえの自己満足の所為で、隊長たちは詰め腹を切らされるだろうよ。第二小隊の連中だって出世街道から外れる。俺はとっくに外れてるから構わないがな……」
「私は……」
能登の言っていることは正しい。正しいが、幻十郎はそんなことに気が回らないほどに焦っていた。何と言葉を返していいかわからず、唇を引き結ぶ。
「失礼します!」
そこへ大柄な榎本軍曹が、大きな足音とともに会議室へ入ってきた。
「旧都の成田曹長から無線連絡が入りました! 泉葉蔵の次男――葉太と見られる男を捕まえたそうです!」
その報告を聞くや、能登はにんまりとした。能登らしい表情だ。
「八神! こいつは吉報だぞ! 旧都へ行こう!」
「えっ……?」
幻十郎が目を丸くしていると、もう能登は出掛ける支度をしていた。
「蛇ノ目村に乗り込むには、もう少し決め手が必要なんだ。その決め手になりうる男が、旧都にいるってことだ!」
◆
二十日の夕刻になった。
ついに、あと数時間で、凶星が最接近するのだ。
精進潔斎を終えた琴音は、白い着物に着がえて、その時が来るのをじっと待っていた。
由松は「家族みんなでハレー彗星を見ましょう」と言っていたが、結局それは叶いそうにない。
(由松は元気にしているかしら)
最後に一目でいいから会いたかった。
やがて閂が開けられ、重々しい扉が動くと同時に、橙色の光が室内に入り込む。
眩しさに、琴音は目を細めた。
「お時間です」
香世と沙世が静かに入ってきた。
この二日間、二人は無愛想ながら親切ではあった。決して琴音を乱雑に扱わず、精進料理ではあるが、食事もきちんと運んできてくれた。さらに心身を清める手伝いをし、祈祷もしてくれた。
「香世さん、沙世さん、ありがとう。大変お世話になりました」
琴音が頭を下げると、まさか礼を言われるとは思わなかったらしい。二人は顔を見合わて、やや戸惑ったような表情を見せた。……が、すぐに元の調子に戻った。
「兄さまは、一足先に禁足地に行っております」
「私たちも移動しましょう」
二人は巫女装束を脱ぎ捨てて全裸になると、その艶やかな背中にそれぞれの翼を広げた。
「はい」
琴音が二人の手を取った刹那、夕闇が支配する蛇ヶ森の最深部へと移動した。
「奥にお進みください」
香世に言われるまま、琴音は歩を進めた。
(これが、蛇神さまが住まう蛇淵沼……)
これほどまでに大きいとは思わなかった。そして、これほどまでに禍々しいとも……。
落ちたら最後、二度と這い上がれぬ底なし沼のほとりに、久葉は立っていた。

