◆
失望、怒り、哀しみ、焦燥――。
幻十郎は、底知れぬ混沌の中にいた。
ついに四月二十日――ハレー彗星が最接近する水曜日の朝を迎えたのであるが……。桜町にある陸軍の屯所には、地元の警察署長以下、幹部数名が秘密裏に訪れていた。
「だから! 涼風琴音が蛇神の生贄に選ばれたのは確実なんだ! 今すぐにでも村に乗り込むべきだ!」
幻十郎は会議室の机を叩き、声を荒げた。
「まあまあ。せやから確証もなく踏み込むのは、何かと問題あるっちゅう話なんですわ」
「大体、涼風家からは通報もないんやから……」
幹部たちは一様に苦笑いを浮かべ、幻十郎を宥めようとする。
「人の命が失われようとしているんだ! 慎重になっている場合ではない!」
永井軍曹の粘り強い説得もあり、特務小隊と警察が合同で蛇ノ目村に乗り込むことが決定したが……。決行直前になって、警察署長から横槍が入ったのだ。
しかも帝都に指示を仰いでも、特務第四小隊の有馬隊長からは「任務を続行せよ」との返信で、第二小隊の隊長からは「待機せよ」との返信であった。帝都のほうでも見解が分かれているようだ。それが幻十郎たちを苛立たせた。
小太りの署長は煙草の煙を吐き出し、見下したように言う。
「人の命ね……。聞けば、貴方は半妖なんですって?」
「それが、今回の件と何の関係が?」
同席していた能登が、署長を睨みつける。……が、署長は動じない。
「いや~、泉家の久葉さんから聞かされとるんですわ。『あやかしは無駄に好戦的や』とね」
「なっ……!」
腰を浮かせた能登を、幻十郎は制した。
(こいつは曲者だぞ)
どうもこの男は、泉家との癒着が酷いようだ。
「それにね……貴方の言う、そのみさをとかいう物乞いの証言なんぞ、当てになりませんわ。痴呆が進んどったみたいやしね」
「はっきり言ったらどうだ。泉家を怒らせたくないと」
幻十郎は、敢えて挑発的な話し方をした。
「……まあ、正直、怒らせたくはありませんわな。泉家は皇族にも連なる一族やからね」
署長はすっかり開き直ったようだった。
「泉家は、村の名士の涼風家と持ちつ持たれつの関係やからね。その涼風家は、この桜町の海藤家の分家やし」
署長は短くなった煙草を灰皿に擦りつけ、幻十郎をじっと見つめる。
「これがどういうことか、お分かりでしょうかね。すべては繋がっとる……っちゅうことですわ。均衡の上に成り立ってる……と言い換えてもいい」
「何が言いたい?」
「蛇ノ目村は、西国のなかでも随一の、伝統を大切にしとる村なんです。帝都から出てきた陸軍の若造が、ごちゃごちゃかき回すなってことですわ!」
唐突に署長が逆上した。穏やかに話しておきながら、急に激昂するのは、相手を圧するときの常套手段だ。警察らしい遣り口と言える。
だが、修羅場をくぐり抜けてきた幻十郎には通用しない。
「これを見ろ!」
幻十郎は、神隠し事件に関する調書を机に並べた。
「警察の対応がおざなりなのは、貴様ら上層部が村に配慮して隠蔽してきたからだ! 警官たちは、いまも蛇神に生贄が捧げられていることを疑っていた! 真実に迫ろうとする動きがあると、癒着のある貴様らが抑えにかかったんだ!」
幻十郎の詰問に、幹部たちが狼狽えて顔を見合わせる。署長だけが憮然として抗弁した。
「癒着とは、あんまりな物言いですな。泉家が海藤家・涼風家と連名で、陸軍の暴挙に関して、帝に奏上するという話も出とるんですがね。この警察署も、そこに名を連ねるかもしれませんわ」
「脅しているのか?」
「どうとでも」
「…………」
(こいつらと話していても時間の無駄だ)
幻十郎は立ち上がり、冷徹に言い放った。
「出ていけ。貴様らの力は借りない」
失望、怒り、哀しみ、焦燥――。
幻十郎は、底知れぬ混沌の中にいた。
ついに四月二十日――ハレー彗星が最接近する水曜日の朝を迎えたのであるが……。桜町にある陸軍の屯所には、地元の警察署長以下、幹部数名が秘密裏に訪れていた。
「だから! 涼風琴音が蛇神の生贄に選ばれたのは確実なんだ! 今すぐにでも村に乗り込むべきだ!」
幻十郎は会議室の机を叩き、声を荒げた。
「まあまあ。せやから確証もなく踏み込むのは、何かと問題あるっちゅう話なんですわ」
「大体、涼風家からは通報もないんやから……」
幹部たちは一様に苦笑いを浮かべ、幻十郎を宥めようとする。
「人の命が失われようとしているんだ! 慎重になっている場合ではない!」
永井軍曹の粘り強い説得もあり、特務小隊と警察が合同で蛇ノ目村に乗り込むことが決定したが……。決行直前になって、警察署長から横槍が入ったのだ。
しかも帝都に指示を仰いでも、特務第四小隊の有馬隊長からは「任務を続行せよ」との返信で、第二小隊の隊長からは「待機せよ」との返信であった。帝都のほうでも見解が分かれているようだ。それが幻十郎たちを苛立たせた。
小太りの署長は煙草の煙を吐き出し、見下したように言う。
「人の命ね……。聞けば、貴方は半妖なんですって?」
「それが、今回の件と何の関係が?」
同席していた能登が、署長を睨みつける。……が、署長は動じない。
「いや~、泉家の久葉さんから聞かされとるんですわ。『あやかしは無駄に好戦的や』とね」
「なっ……!」
腰を浮かせた能登を、幻十郎は制した。
(こいつは曲者だぞ)
どうもこの男は、泉家との癒着が酷いようだ。
「それにね……貴方の言う、そのみさをとかいう物乞いの証言なんぞ、当てになりませんわ。痴呆が進んどったみたいやしね」
「はっきり言ったらどうだ。泉家を怒らせたくないと」
幻十郎は、敢えて挑発的な話し方をした。
「……まあ、正直、怒らせたくはありませんわな。泉家は皇族にも連なる一族やからね」
署長はすっかり開き直ったようだった。
「泉家は、村の名士の涼風家と持ちつ持たれつの関係やからね。その涼風家は、この桜町の海藤家の分家やし」
署長は短くなった煙草を灰皿に擦りつけ、幻十郎をじっと見つめる。
「これがどういうことか、お分かりでしょうかね。すべては繋がっとる……っちゅうことですわ。均衡の上に成り立ってる……と言い換えてもいい」
「何が言いたい?」
「蛇ノ目村は、西国のなかでも随一の、伝統を大切にしとる村なんです。帝都から出てきた陸軍の若造が、ごちゃごちゃかき回すなってことですわ!」
唐突に署長が逆上した。穏やかに話しておきながら、急に激昂するのは、相手を圧するときの常套手段だ。警察らしい遣り口と言える。
だが、修羅場をくぐり抜けてきた幻十郎には通用しない。
「これを見ろ!」
幻十郎は、神隠し事件に関する調書を机に並べた。
「警察の対応がおざなりなのは、貴様ら上層部が村に配慮して隠蔽してきたからだ! 警官たちは、いまも蛇神に生贄が捧げられていることを疑っていた! 真実に迫ろうとする動きがあると、癒着のある貴様らが抑えにかかったんだ!」
幻十郎の詰問に、幹部たちが狼狽えて顔を見合わせる。署長だけが憮然として抗弁した。
「癒着とは、あんまりな物言いですな。泉家が海藤家・涼風家と連名で、陸軍の暴挙に関して、帝に奏上するという話も出とるんですがね。この警察署も、そこに名を連ねるかもしれませんわ」
「脅しているのか?」
「どうとでも」
「…………」
(こいつらと話していても時間の無駄だ)
幻十郎は立ち上がり、冷徹に言い放った。
「出ていけ。貴様らの力は借りない」

