狐につままれた状態……というのは、妖狐の幻十郎にとっては皮肉が過ぎようか。
「何を言っている……?」
「今日、村に帰ったわたしは、神隠しに遭います。明後日……凶星が最接近する二十日の夜に、わたしは蛇神さまのもとへ参ります。村は救われますし、涼風家も安泰に……」
「だから何を言っているんだ!」
幻十郎は激昂した。
「凶星なんかじゃない! ただの彗星だ! 本物の神ならば、贄を求めることもない! 久葉の口車に乗せられるな!」
幻十郎の言葉はふわふわと浮き上がり、虚しく【徒名池】に落ちていく。鯉も食いつきはすまい。
生温い風が吹き、琴音の艶やかな髪を揺らす。
困ったように眉根を寄せたあと、琴音は言いきった。
「もう、わたしは決めたのです。可愛い由松のためなら、この命、惜しくありません」
その言葉には似つかわしくない、優しい笑顔を浮かべながら――。
「こちらのハンケチ、綺麗に洗ってからお返ししたかったのですが、それも叶いそうにありません。申し訳ありません」
琴音はハンケチを差し出したが、幻十郎は手を出さなかった。
ハンケチを引っ込めたあと、琴音は呟くように言った。
「八神さまのお気持ちは、とても嬉しいです。けれども……村の掟は絶対なのです。わたしが逃げ出せば、涼風家は村八分になってしまいます。わたしを慕ってくれている由松だけは……由松だけは守りたいのです」
娘や夫を失い、長年彷徨った挙句、この町で死んでいったみさをの姿が、幻十郎の脳裏に浮かぶ。
(このままでは駄目だ!)
「どうして……君たちはそう簡単に……」
何としても琴音を止めなければならない。だが、弟のためだと言われてしまえば、言葉も力を失う。
「我々、特務部隊と警察が、二十日までに村に入る! 忌まわしい因習など、我々が跡形もなく消してやる! だから……」
「それは無理です。幾星霜を経て、村に根付いたものを取り除くなど……」
琴音は諦観のこもった顔で首を振ると、自転車に手をかけた。
「予定より早いですが、村に帰ります」
(止めるのは無理なのか……)
幻十郎は胸ポケットに忍ばせていた小瓶を手に取り、琴音に差し出した。
「ならば、これだけは持っていってくれ」
「これは……?」
「お守りのようなものだ。助けがほしいとき、その蓋をあけてみるといい」
「……ありがとう存じます」
薄く笑って受け取った琴音の指先が、幻十郎の手に触れる。その細長い指から、数日のうちに熱が奪われようとしている。
「八神さま。ここでお別れです」
琴音は気丈に言うと、頭を下げてから自転車を押して、サドルに跨った。その背中に向けて、幻十郎が手を差し伸べながら言葉を絞りだす。
「逃げよう。君の弟もいっしょに、三人で逃げよう。私は君と……おまえとともに生きていきたい……」
聞こえたはずだ。声は届いたはずだ。
だが、琴音は答えない。
(行かないでくれ。振り返ってくれ。私の手を取ってくれ……)
祈るような想いで琴音の背中を見つめるが……。
琴音はペダルを漕ぎだした。その下げ髪につけた真っ赤なリボンが、風に揺れる。
幻十郎は、微動だにしなかった。
琴音が乗った自転車が霞んで見えなくなったとき、ようやく歩きだす。
ふらふらと大通りを引き返していると、騒がしい一団の行列とすれ違った。明治に改元後、西国で活動を始めた新興宗教の一派だ。
「凶星がやってくる! 不吉な箒星が降ってくる!」
「七十六年に一度の厄災が、すぐそこに迫っている!」
「大地震が起こる! 大洪水が起こる! 疫病も流行る!」
大仰な格好をして、太鼓を打ち鳴らし、不安を煽り立てる文言を喚きちらす一団に、幻十郎は眉をしかめる。
(凶星だと? 不吉だと? 馬鹿を言え。ただの彗星だ!)
握りこぶしを震わせるが、そんなことに気付きもしない一団は、声高に叫ぶ。
「我らが教祖に救いを求めよ! さすれば道は拓けよう!」
その教祖とやらは、蛇ノ目村の蛇神のように贄を求めたりしないのか。
そしてなぜ、信者どもは未曾有の危機を前に、愉悦の表情を浮かべているのか。
残酷なほどに青い空に、ハレー彗星の幻影が浮かぶ。笑顔の琴音を、暗黒の彼方へと連れ去っていくのが見える。
(凶星よ、何故、ひとりの乙女に因果を背負わせる?)
幻十郎の問い掛けは、信者たちの叫声にかき消された。
「何を言っている……?」
「今日、村に帰ったわたしは、神隠しに遭います。明後日……凶星が最接近する二十日の夜に、わたしは蛇神さまのもとへ参ります。村は救われますし、涼風家も安泰に……」
「だから何を言っているんだ!」
幻十郎は激昂した。
「凶星なんかじゃない! ただの彗星だ! 本物の神ならば、贄を求めることもない! 久葉の口車に乗せられるな!」
幻十郎の言葉はふわふわと浮き上がり、虚しく【徒名池】に落ちていく。鯉も食いつきはすまい。
生温い風が吹き、琴音の艶やかな髪を揺らす。
困ったように眉根を寄せたあと、琴音は言いきった。
「もう、わたしは決めたのです。可愛い由松のためなら、この命、惜しくありません」
その言葉には似つかわしくない、優しい笑顔を浮かべながら――。
「こちらのハンケチ、綺麗に洗ってからお返ししたかったのですが、それも叶いそうにありません。申し訳ありません」
琴音はハンケチを差し出したが、幻十郎は手を出さなかった。
ハンケチを引っ込めたあと、琴音は呟くように言った。
「八神さまのお気持ちは、とても嬉しいです。けれども……村の掟は絶対なのです。わたしが逃げ出せば、涼風家は村八分になってしまいます。わたしを慕ってくれている由松だけは……由松だけは守りたいのです」
娘や夫を失い、長年彷徨った挙句、この町で死んでいったみさをの姿が、幻十郎の脳裏に浮かぶ。
(このままでは駄目だ!)
「どうして……君たちはそう簡単に……」
何としても琴音を止めなければならない。だが、弟のためだと言われてしまえば、言葉も力を失う。
「我々、特務部隊と警察が、二十日までに村に入る! 忌まわしい因習など、我々が跡形もなく消してやる! だから……」
「それは無理です。幾星霜を経て、村に根付いたものを取り除くなど……」
琴音は諦観のこもった顔で首を振ると、自転車に手をかけた。
「予定より早いですが、村に帰ります」
(止めるのは無理なのか……)
幻十郎は胸ポケットに忍ばせていた小瓶を手に取り、琴音に差し出した。
「ならば、これだけは持っていってくれ」
「これは……?」
「お守りのようなものだ。助けがほしいとき、その蓋をあけてみるといい」
「……ありがとう存じます」
薄く笑って受け取った琴音の指先が、幻十郎の手に触れる。その細長い指から、数日のうちに熱が奪われようとしている。
「八神さま。ここでお別れです」
琴音は気丈に言うと、頭を下げてから自転車を押して、サドルに跨った。その背中に向けて、幻十郎が手を差し伸べながら言葉を絞りだす。
「逃げよう。君の弟もいっしょに、三人で逃げよう。私は君と……おまえとともに生きていきたい……」
聞こえたはずだ。声は届いたはずだ。
だが、琴音は答えない。
(行かないでくれ。振り返ってくれ。私の手を取ってくれ……)
祈るような想いで琴音の背中を見つめるが……。
琴音はペダルを漕ぎだした。その下げ髪につけた真っ赤なリボンが、風に揺れる。
幻十郎は、微動だにしなかった。
琴音が乗った自転車が霞んで見えなくなったとき、ようやく歩きだす。
ふらふらと大通りを引き返していると、騒がしい一団の行列とすれ違った。明治に改元後、西国で活動を始めた新興宗教の一派だ。
「凶星がやってくる! 不吉な箒星が降ってくる!」
「七十六年に一度の厄災が、すぐそこに迫っている!」
「大地震が起こる! 大洪水が起こる! 疫病も流行る!」
大仰な格好をして、太鼓を打ち鳴らし、不安を煽り立てる文言を喚きちらす一団に、幻十郎は眉をしかめる。
(凶星だと? 不吉だと? 馬鹿を言え。ただの彗星だ!)
握りこぶしを震わせるが、そんなことに気付きもしない一団は、声高に叫ぶ。
「我らが教祖に救いを求めよ! さすれば道は拓けよう!」
その教祖とやらは、蛇ノ目村の蛇神のように贄を求めたりしないのか。
そしてなぜ、信者どもは未曾有の危機を前に、愉悦の表情を浮かべているのか。
残酷なほどに青い空に、ハレー彗星の幻影が浮かぶ。笑顔の琴音を、暗黒の彼方へと連れ去っていくのが見える。
(凶星よ、何故、ひとりの乙女に因果を背負わせる?)
幻十郎の問い掛けは、信者たちの叫声にかき消された。

