凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

 自転車で正門をくぐった琴音に向けられた視線は、今までのものとは違った。
 桜町の華たる【桜高女】の女学生たちの間に動揺が走っていることは、すぐさま察せられた。

 琴音に恋文を渡してくる者は一人もいない。こちらから挨拶をしても、目をそらして、小走りに逃げていく。

 校舎の二階に目をやれば、割れた窓ガラスが新聞紙でふさがれていた。

 英語教師の丹羽が落下して大怪我を負った件については、陸軍と警察によって緘口令(かんこうれい)が敷かれたと能登少尉から聞いている。丹羽は誤って落ちたことになり、その場に琴音がいたことや、式神が暴れたことなどは秘匿(ひとく)された。

 しかし、この様子では悪い形で情報が漏れたかもしれない……と琴音は嘆息する。

 その予感は当たった。
 琴音が教室に入っていくと、冷ややかな空気が流れた。遠巻きに琴音を見ては、ひそひそと囁きあう。

「琴音さん……」

 かろうじて話しかけてくれたのは、よし江と弥生だけだ。

「ごきげんよう」

 琴音は、つとめて普段どおりに挨拶した。彼女たちに会えるのは、今日が最後になるのだから。

「金曜と土曜はお休みだったわね」
「どうなさってたの?」

 二人は異様な雰囲気に鼻白むこともなく、心配げに尋ねてくれた。

「体調が優れなくて……。でも、もうすっかり大丈夫よ」

 明るく答えるが、よし江が遠慮がちに切り出す。

「元気そうで安心したけれど……ちょっと良くない噂が広がっているのよ」
「良くない噂……?」

 琴音が小首をかしげると、弥生が口を開いた。

「木曜日の放課後……ほら、私たちがカフェーに行った日よ。丹羽先生が大怪我なさって、しばらく入院ですって」
「そ、それは大変……」
「噂では、丹羽先生は自ら二階から飛び降りたとか……。道ならぬ恋に悩んでいらしたそうなの」
「…………」

 それは事実とは違う。あれは恋などと呼べるものじゃない。訂正したくても出来ないもどかしさに胸がじりじりとする。
 言葉が出てこない琴音を見て、よし江が声をひそめる。

「その……私たちは信じちゃいないのだけれど、琴音さんが警官だか軍人だかに連れていかれたっていう話が広まっていて……。それに尾鰭(おひれ)がついて、丹羽先生が飛び降りたのは琴音さんが原因ということに……」

「えっ……?」

 頭でも殴られたように立ち尽くす琴音を見て、よし江が慌てる。

「そ、そんなわけないわよね。あの日の放課後は、私たちと一緒だったもの。カフェーを出て別れたあとは、正門に迎えに来た車でお帰りになったのでしょう?」

(陸軍の屯所まで連れていかれるわたしを、誰かに見られた? それとも教師から情報が漏れたの?)

 考えを巡らせるが、視界が真っ黒に染まっていくことに気づいて、琴音は教室を見回した。

「〝深紅の姫君〟も落ちたものね」

 聞こえよがしに誰かが言った。
 まるで汚いものを見るかのような同級生たちの視線が刺さる。いつのまにか教室全体に溢(あふ)れ返っている黒い霧は、彼女たちの琴音に対する幻滅と嫌悪感から生じたものだ。

 その耐え難い臭気により、胃の中のものをすべて吐き出しそうになる。
 琴音はハンケチで口をおさえつつ、教室を飛び出した。

(来るんじゃなかった!)

 二日後には蛇神の生贄になってしまう身だ。絶望して泣き叫び、狂ってしまえたら、どんなに楽だったか。平静を装って桜町に出てきたのは、【桜高女】にいる間だけ、本当の自分でいられたからだ。
 最後にもう一度、本当の自分に戻ってみたかった。それだけを望んだというのに……。

 昇降口に向かって廊下を走っていると、醜悪な笑みが立ち塞(ふさ)がった。

「あ~ら、もうすぐ授業ですわよ、琴音さん。そんなに急いで、どちらに行かれるの?」

 厭味(いやみ)ったらしい声を出したのは、海藤千賀子だ。その全身からは、誰よりもどす黒い霧が発散されている。いま一番見たくない顔だった。