凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

 鬱蒼とした蛇ヶ森の前を通るときは、なるべく森を見ないようにした。あとで嫌でも入って行かねばならぬ森だ。

 しばらく進むと、蛇好神社に続く長い階段が見えてきた。いつもの癖だろう。頂上の鳥居を見上げたが、祝詞を捧げているはずの久葉たちがいない。琴音の胸に、暗い不安が広がる。

 視線を前に戻した琴音は、ぎょっとしてハンドル操作を誤りかけた。久葉と香世、沙世はなぜか、階段の最下段の前に立っていたのだ。

「これはこれは、琴音さま」

 久葉は朗らかに声をかけてきた。

「おはようございます。いい天気やねえ」

 その声には、素通りを許さない強い力がこめられている。琴音は自然と自転車を止めていた。

「おはようございます、皆さま」

 琴音はぎこちない笑みを浮かべて三人に挨拶したが、久葉を挟んでいる双子の姉妹は相変わらず無表情で、押し黙ったままだ。

「今日は自転車ですか。ああ、栄八さんは怪我して入院してるんやったね。大変ですなあ」
「ええ……」

(どの口がそれを……)

 自ずと、琴音の眼差しは鋭くなる。

 いま、確信できた。女学校の校舎で襲ってきた式神が発した声は、やはり久葉のものであると――。
 それに琴音が勘づいていることや、軍人に話してしまったこと。久葉が気づいていないわけがない。それでも素知らぬ風情で話しかけてくる薄気味悪さに総毛立つ。

「ああ、ご存知ですかね。大野さんとこの清兵衛が村を出たそうで……」
「えっ、清兵衛さんが!?」
「農作業が嫌になったんやろか。最近の若い男は堪(こら)え性がありませんからな」

 そんなはずはない。清兵衛は働き者だ。いきなり何もかも放りだして出奔するのは不自然だ。

「まあ、男が消えても騒ぎにはなりませんが、年若い娘さんが消えたら、そうもいきませんわ。……よう決心してくれはりましたな」
「はあ……」
「蛇神さまもお喜びですよ、琴音さん」

 ここで初めて香世が口を開いた。続いて、妹の沙世が説明する。

「琴音さんには、二日間、神社で精進(しょうじん)潔斎(けっさい)していただきます。身も心も清め、蛇神さまにお会いする準備をするのです。私と香世でお手伝いしますから、何なりと申しつけてください」

 二人の優美な容姿は見分けがつかぬほどにそっくりだ。いつも香世は赤い花簪、沙世は青い花簪をつけているので、かろうじて間違えずに済むのだが。

「……わかりました」

 琴音がうなずくと、久葉は恍惚の表情で呟く。

「つまりは二十日の夜――不吉な箒星が最接近する瞬間に、貴女は蛇神さまに捧げられます。なんとも奇縁なことですなぁ」

 久葉は黒い霧を発してはいない。

(どうして、この男にかぎって見えないのかしら……?)

 吐き気を催すほどの嫌悪を覚える男だというのに……。琴音の異能を跳ね返すほどに、この男の呪力は強いのか。心の奥底に封じ込めた悪意は如何(いか)ばかりか。
 そして何故、この男が蛇神と意志疎通できるのか。泉家の血筋とはいえ……だ。

 一刻も早く久葉から離れたかった。

「あの……」

 ハンドルを握りなおした琴音を見て、久葉は気品のある顔に人工的な笑みを張りつける。

「長々と呼び止めてすんませんなぁ。ほな、行ってらっしゃい」
「行ってまいります……」

 ペダルを漕ごうとした琴音だが、ふいに左側から「琴音さん」と声をかけられ、身体を仰け反らせた。

 香世が立っていた。久葉たちは琴音の右側にいたはずなのに……。久葉と目を合わせているときも、両隣の香世と沙世は視界の端に捉えていた。一瞬で、自転車と琴音の身体の向こう側に移動したのか。

「肩に塵(ごみ)がついておりますよ」

 香世は琴音の左肩をはらった。髪に挿した赤い花簪が微かにゆれる。

「あ、ありがとう存じます……」

 香世と至近距離で向きあったのは初めてだが、女の琴音でさえうっとりするほどに美しい。だが、その瞳には何ら感情を映してはいない。まるで人形のようだ。沙世も同様であろうが。

 そして、栄八も同じ目をしてはいなかったか。

(まさか、自分の妹たちも式神に造り替えた……?)

 恐ろしい疑念を抱えたまま、琴音はふたたび自転車を走らせた。