凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

「ここは陸軍の屯所だ。さっきまで軍医の先生があんたを診てくれていた。もう大丈夫だから、安心して休みなさい」
「お心遣いは有難いんやけど、あたしは村に戻らんと……」
「村って、蛇ノ目村かい?」

 みさをは、こくりとうなずく。

「どうして蛇ノ目村に戻りたいんだ?」
「はるが眠ってるからや。蛇淵沼に……」
「蛇神が眠ってる禁足地か!?」

 思わず幻十郎は身を乗り出した。

「そうや。はるは、蛇神さまの生贄にされてもうたんよ。あたしは嫌やって言うたのに、主人は名誉なことやからって……」

(はる……戸沢はる! 十二年前に神隠しに遭った戸沢はるのことか!)

「あんたは、戸沢さんだね?」
「そう……戸沢……。はるを贄として差し出したんで、戸沢家は安泰やって言われたけどなぁ。新しい子は授からんし、主人は後悔して苦しんで、とうとう首を吊ってもうた。それであたしは村を出たんや」

 ぽろぽろと、みさをの瞳から涙がこぼれ出る。

「それから旧都に出て働いたけど、女ひとりでは生きていけん。色街でやっていける年でもないし、すぐに物乞いに身をやつしてもうて……。去年から桜町に来たんも、少しでもはるのそばにいてやりたかったからなんよ」
「あんた、数日前に村に帰ったね?」
「なんでか自分でもわからん。気づいたら村におった。外から入ってくる者には厳しい村やけど、こっちが物乞いやから警戒が緩んだんやろか。するすると蛇ヶ森の前まで行けたんよ」

 容姿があまりに変わりすぎている。戸沢みさをだと気づいた村人はいなかっただろう。

「この森の奥に行けば、はるに会える――。辛抱たまらんなって、森に入ろうとしたら、たちまち若い衆に囲まれてな。それから……蛇好神社の神主もおった」
「泉久葉か……」
「あの神社はほんまにいかがわしいわ。あたしがまだ村にいたころは父親の葉蔵が神主やったけど、村の者を言葉巧みに操って……。息子の代になっても変わっとらんのか」
「どういうことだい?」
「若い衆を使って、あたしを殴る蹴るさせたんよ。『禁足地に入ろうとする不届きものを懲らしめろ』いうてな」

 まさに、喉から手が出るほど欲しかった証言だ。閉鎖的な村の支配構造の頂点に、泉家がいる――。みさをは、それを言っているのだ。

「若い衆のなかには、大野さんとこの清兵衛がおったわ」
「清兵衛……?」
「はるは面倒見よくてなぁ。涼風さんとこのお嬢さんとか、清兵衛とか可愛がっとったのに……」

(琴音さんのことだな)

「その清兵衛が、あたしやと気づかんと蹴ってきよった。あまりに惨めやったで。蛇皮川にかかる橋のとこに打ち捨てられて、這うようにして桜町に戻ったんや」

 言い終えると、みさをは微笑んだ。

「お医者さまに怪我を治してもろて、また村に戻るで。あそこには、はるがいるんやから……」
「安心しろ。今度は、私もついて行ってやろう。誰にもあんたに手出しはさせん」
「おおきに。おまえさん、強そうやもんなぁ。心強いわ……」

 みさをは視線を天井に向けると、いまにも折れそうなほど細い腕を伸ばした。
 その手は、天井ではなく、果てしない夜空を掴もうとしている。
 ふいに箒星が現れた。その長い尾に乗っているのは、可憐な娘だ。きっと戸沢はるだろう。

「すぐ会いに行くからな。お父ちゃんといっしょに……」

 不吉なハレー彗星であっても、その願いを叶えてくれるだろうか。
 いや、叶っただろう。
 刹那ではあったが、幻十郎は見た。
 親子三人、仲睦まじく夜空を駆けていくのを――。


   ◆


 四月十八日、月曜日――。

 朝から青々とした空のもと、琴音は風を受けていた。
 艶やかな髪がそよぎ、真っ赤なリボンがゆれる。海老茶の袴も大きく膨らむ。

 琴音は父から借りた自転車を漕いでいた。
 いつもは人力車で運ばれていくだけだった畦道を、自らの足を動かして進んでいく。こちらのほうが気楽で、よほど性に合っている。

 本来なら爽やかな女学校までの道行きも、気持ちは沈み込んだままだ。

(まだ完全には決心がついていないのかしら)

 今日の帰り、地蔵堂の前で自分は神隠しに遭う。そして蛇神への捧げものになる。
 すべては由松のため。もう覚悟は決めたはずだ。……なのに。
 このままどこか遠くまで漕いでいきたい衝動にかられる。

「琴音お嬢さま! おはようございます!」

 田圃で作業している村人たちが、いつもより元気よく挨拶してくる。琴音の心の内の逡巡(しゅんじゅん)を読んだわけでもあるまいが。
 誰も、琴音が人力車に乗っていないことには触れてこない。はなから車夫の栄八は存在しなかったかのように……。

 琴音も笑顔で挨拶を返しながら、自転車を走らせる。