「ここでいいよ、栄八さん」
由松は地蔵堂の前で人力車を止めさせて、軽やかに降りた。
この四月で尋常小学校の六年生になったばかりの由松は、いつもここで降りる。村の小学校の門まではまだ少し距離があるが、同級生の手前、門まで送ってもらうのは気恥ずかしいらしい。
「帰りは迎えに来なくていい、って与平さんに言っといてね。みんなと川遊びに行くからさ。それじゃあ、おねえさま。行ってまいります」
元気よく手をふって、由松は駆けだした。
帰りは琴音を栄八が、由松のほうは普段は農作業している与平が、もう一台の人力車を引いて迎えにいくことになっている。二台も人力車を持っているのは、この村では涼風家だけだ。
「あっ、由松! 蛇淵沼に近づいてはだめよ」
「わかってますよ、おねえさま」
琴音が釘を刺すと、由松はふり返って応じて、また駆けていった。
蛇ノ目村、蛇淵沼と〝蛇〟が冠されているように、この村ではあらゆるものに〝蛇〟がつく。
そのことは、蛇神が村の守り神であることの証だ。
とりわけ蛇淵沼は特別で、蛇神の住み処であるとされている。落ちたら最後、二度と這い上がれぬ底なし沼――。そうでなくとも、蛇神が住まう神聖な領域のため、みだりに近づいてはならない禁足地になっている。
ハレー彗星に不吉な影を見ない由松であっても、蛇神には畏怖の念を抱いている。それは琴音とて同じであったが。
再び軽快に動きだした人力車は、鬱蒼とした蛇ヶ森の前を通った。この森の奥に、件の蛇淵沼がある。
ふと、誰かに見られているような気がして、琴音は視線を上げた。栄八の肩ごしに、石畳の長い階段が見えてきた。階段を上りきったところに朱色の鳥居がある。
それは、蛇神を祭神として祀っている蛇好神社である。九百年以上も昔、小高い丘を切り開いて創建された由緒正しき神社だ。
鳥居の前には狩衣をまとった神職の男と、巫女装束をまとった女二人が立っていた。
男は、泉久葉。数え三十一歳。蛇好神社の神主を古くから務めている泉家の次期当主だ。
女は、泉香世と沙世。ともに数え十六歳。久葉の妹で、双子である。
形式上は、今なお久葉の父・葉蔵が神主であるが、葉蔵は酒浸りで、神主としての務めの大半を久葉に任せている。双子の妹は尋常小学校を卒業したあと、巫女となって久葉を手伝うようになった。
三人は目をつむって、蛇淵沼に向かって一心不乱に祝詞を捧げている。村を守っている蛇神へ感謝を奏上する、毎朝のお勤めであった。
その様子を見ると、いつも琴音の胸はざわつく。蛇好神社の人間が苦手だったからだ。
久葉とは幾度か話したことがあった。柔和な笑顔を絶やさない、人当たりのいい男ではあるものの、その目の奥は笑っていないような気がするのは何故か。
香世・沙世は双子だけに、ともに小柄で、優美な容姿までそっくり。久葉とは逆に、いつも無表情で無口。琴音と同じ尋常小学校の下級生であったが、何を考えているかわからないところがあった。
蛇好神社を通り過ぎると、人力車は、村を流れる蛇皮川沿いの道を走っていく。まさに蛇のように蛇行しながら流れる川である。
川沿いには桜並木が続いている。
「わあ、まだまだ綺麗ね。見頃は過ぎてしまったのに」
琴音は誰に聞かせるでもなく、感嘆の声をあげた。栄八の返事は期待していない。
はらりと薄桃色の花びらが琴音の膝元に落ちてきた。それをつまんで、朝の陽光に透かしてみる。
花びらが血の色に染まっていくように見えたのは、気の所為なのか。
慌てて手を離すと、生温い春風がさらっていった。
村の東側の出口が近づくにつれ、田圃に出ている村人の数が多くなってくる。田植えに備えて田おこしをしているのだが、それでいて周囲に気を配っている。
琴音の乗った人力車を見つけると、作業の手を止めて会釈したり、土にまみれた顔をほころばせ、
「琴音お嬢さま。いい天気じゃのう」
と朗らかに挨拶してくれたりする者もいる。
だが、それは気の良さからきているのではないと、琴音はわかっている。
彼らは村に出入りする者に敏感だ。それは村に生きる者として染みついた習性のようなものだろう。
不審者が入り込もうものなら、瞬く間に村中に情報が行きわたる。つい先日も、物乞いの老婆がやってきたときに、袋叩きにして村外に追い出したという話だった。
ただ……村全体に、普段よりもひりついた空気が漂っているのは、皆が不吉な箒星を恐れている所為かもしれぬ。
由松は地蔵堂の前で人力車を止めさせて、軽やかに降りた。
この四月で尋常小学校の六年生になったばかりの由松は、いつもここで降りる。村の小学校の門まではまだ少し距離があるが、同級生の手前、門まで送ってもらうのは気恥ずかしいらしい。
「帰りは迎えに来なくていい、って与平さんに言っといてね。みんなと川遊びに行くからさ。それじゃあ、おねえさま。行ってまいります」
元気よく手をふって、由松は駆けだした。
帰りは琴音を栄八が、由松のほうは普段は農作業している与平が、もう一台の人力車を引いて迎えにいくことになっている。二台も人力車を持っているのは、この村では涼風家だけだ。
「あっ、由松! 蛇淵沼に近づいてはだめよ」
「わかってますよ、おねえさま」
琴音が釘を刺すと、由松はふり返って応じて、また駆けていった。
蛇ノ目村、蛇淵沼と〝蛇〟が冠されているように、この村ではあらゆるものに〝蛇〟がつく。
そのことは、蛇神が村の守り神であることの証だ。
とりわけ蛇淵沼は特別で、蛇神の住み処であるとされている。落ちたら最後、二度と這い上がれぬ底なし沼――。そうでなくとも、蛇神が住まう神聖な領域のため、みだりに近づいてはならない禁足地になっている。
ハレー彗星に不吉な影を見ない由松であっても、蛇神には畏怖の念を抱いている。それは琴音とて同じであったが。
再び軽快に動きだした人力車は、鬱蒼とした蛇ヶ森の前を通った。この森の奥に、件の蛇淵沼がある。
ふと、誰かに見られているような気がして、琴音は視線を上げた。栄八の肩ごしに、石畳の長い階段が見えてきた。階段を上りきったところに朱色の鳥居がある。
それは、蛇神を祭神として祀っている蛇好神社である。九百年以上も昔、小高い丘を切り開いて創建された由緒正しき神社だ。
鳥居の前には狩衣をまとった神職の男と、巫女装束をまとった女二人が立っていた。
男は、泉久葉。数え三十一歳。蛇好神社の神主を古くから務めている泉家の次期当主だ。
女は、泉香世と沙世。ともに数え十六歳。久葉の妹で、双子である。
形式上は、今なお久葉の父・葉蔵が神主であるが、葉蔵は酒浸りで、神主としての務めの大半を久葉に任せている。双子の妹は尋常小学校を卒業したあと、巫女となって久葉を手伝うようになった。
三人は目をつむって、蛇淵沼に向かって一心不乱に祝詞を捧げている。村を守っている蛇神へ感謝を奏上する、毎朝のお勤めであった。
その様子を見ると、いつも琴音の胸はざわつく。蛇好神社の人間が苦手だったからだ。
久葉とは幾度か話したことがあった。柔和な笑顔を絶やさない、人当たりのいい男ではあるものの、その目の奥は笑っていないような気がするのは何故か。
香世・沙世は双子だけに、ともに小柄で、優美な容姿までそっくり。久葉とは逆に、いつも無表情で無口。琴音と同じ尋常小学校の下級生であったが、何を考えているかわからないところがあった。
蛇好神社を通り過ぎると、人力車は、村を流れる蛇皮川沿いの道を走っていく。まさに蛇のように蛇行しながら流れる川である。
川沿いには桜並木が続いている。
「わあ、まだまだ綺麗ね。見頃は過ぎてしまったのに」
琴音は誰に聞かせるでもなく、感嘆の声をあげた。栄八の返事は期待していない。
はらりと薄桃色の花びらが琴音の膝元に落ちてきた。それをつまんで、朝の陽光に透かしてみる。
花びらが血の色に染まっていくように見えたのは、気の所為なのか。
慌てて手を離すと、生温い春風がさらっていった。
村の東側の出口が近づくにつれ、田圃に出ている村人の数が多くなってくる。田植えに備えて田おこしをしているのだが、それでいて周囲に気を配っている。
琴音の乗った人力車を見つけると、作業の手を止めて会釈したり、土にまみれた顔をほころばせ、
「琴音お嬢さま。いい天気じゃのう」
と朗らかに挨拶してくれたりする者もいる。
だが、それは気の良さからきているのではないと、琴音はわかっている。
彼らは村に出入りする者に敏感だ。それは村に生きる者として染みついた習性のようなものだろう。
不審者が入り込もうものなら、瞬く間に村中に情報が行きわたる。つい先日も、物乞いの老婆がやってきたときに、袋叩きにして村外に追い出したという話だった。
ただ……村全体に、普段よりもひりついた空気が漂っているのは、皆が不吉な箒星を恐れている所為かもしれぬ。

