松之助に「もう行っていい」と言われ、琴音は首を垂れて、
「お父さまとお母さまに育てていただいた御恩を、お返ししたいと存じます」
と述べると、座敷を辞するために襖に手をかけた。
「ああ、待て。栄八の奴はいないからな。明日は私の自転車に乗っていけ。貸してやる」
「はい。ありがとう存じます」
琴音は虚ろな表情で返事するだけだ。
「放課後は、真っ直ぐに帰ってくるんだぞ。地蔵堂の前で、おまえは神隠しに遭う。いいな? あとは村の者が万事うまくやる」
「わかりました」
あまりに素直な琴音に、松之助は眉根を寄せた。
「軍隊や警察に逃げ込もうなどと、ゆめゆめ考えるなよ」
「心配には及びませんわ、旦那さま。琴音は由松のことを大事に思っていますもの。そうでしょう?」
問いかける富美は、母親らしい微笑みを浮かべてはいるが、目の奥は笑っていない。
「はい。必ず帰って参ります」
琴音の返事に、松之助は満足げにうなずく。
「うむ。おまえが逃げたら涼風家は村八分になっておしまいだ。由松の行く末は、おまえにかかっていることを忘れるな」
真っ黒な霧が充満した奥座敷を辞したあと、琴音はふらふらとおぼつかない足取りで自室に戻った。血の気は失せ、その美しい顔には何の感情も宿ってはいない。
願うことは、ただ、由松には幸せになってほしい――。それだけだ。
◆
時は遡って、四月十五日、金曜日の昼下がり――。
蛇好神社の社務所には、涼風松之助を筆頭に、村長や地主などの村の有力者が呼び集められていた。
招集をかけた泉久葉は、一番最後にゆったりと入ってきた。いつものように妹の香世・沙世を従えている。
久葉たちが座るやいなや、松之助は苛立たしげに口火を切る。
「久葉さん。一体どうなっているんですか。貴方の式神がやられるなんて!」
深夜に桜町から琴音を連れ戻したため、ほぼ一睡もしていない。そのことが余計に口調を荒くさせる。
「いや、琴音さんが教師と不埒な行為に及びそうになってましてな。その罰を与えようとしたら、思わぬ邪魔が入ったんですわ」
久葉はこんなときも柔和な表情を崩さない。松之助の苛立ちは増した。
「貴方が派手に暴れるから、軍人どころか警察まで動きだしたじゃないですか」
「それを言うなら、涼風さん。あんたの対応もまずかったわ。琴音さんを取り返したいからって、徒党を組んで陸軍の屯所に乗り込むとは、愚の骨頂ですわ。奴らを刺激しただけですやんか」
(生意気な!)
松之助は充血した目を見開き、鼻息を荒くした。
「娘を拉致されたあげく、車夫も失ったんです。冷静でいられるわけがない!」
「こっちも大事にしとった式神がやられたんやからね。あんたと気持ちは同じや」
(栄八を式神にしたのは、おまえだろうが!)
口をついて出そうになったのを、松之助は堪えた。
「せやけど、私の指示にないことをしてもらったら困るで」
あくまで穏やかな口調だが、久葉の眼差しには、屈服せざるを得ない威圧感がある。松之助は思わず目を伏せた。
これが代々、蛇神を祀ってきた泉家の人間の風格というべきか。
「ま、まあ、そのへんで。仲間内で揉めるのはまずいで」
村長が、おそるおそる仲介に入る。
「いやいや揉めとらんよ。忌憚なく意見を言い合っとるんや。なあ、涼風さん?」
「はあ……」
張りつめていた場の空気が、ようやく緩む。
「まあ、車夫なんか、いくらでも替えは効きますやろ。また桜町で雇ったらよろしいがな」
町の人間は、蛇ノ目村には近づきたがらない。連れてくるためには、それなりの給金を用意せねばならぬ。
(それを知ってて、そんなことを言うのか)
腸は煮えくり返っているが、これ以上噛みつくのはまずい、と心を落ち着かせる。
久葉は松之助より一回り以上も年下だが、家格は泉家のほうが上であるし、あまり強く出ることができない。そもそも、松之助がすんなりと蛇ノ目村に馴染めたのも、泉家の後ろ盾があってのことだった。
涼風家を盤石なものとし、兄の海藤家すら凌ぐ一族の祖となる――。
野望を抱く松之助にしてみれば、久葉を味方につけておくことが肝要だ。
ゆえに、久葉が「栄八を式神にして琴音を守護させる」と言いだしたときも、異を唱えたりはしなかった。
久葉は蛇神の意志のままに動く。琴音が新たな生贄の候補となっていることを知り、松之助は内心ほくそ笑んだほどだ。
「お父さまとお母さまに育てていただいた御恩を、お返ししたいと存じます」
と述べると、座敷を辞するために襖に手をかけた。
「ああ、待て。栄八の奴はいないからな。明日は私の自転車に乗っていけ。貸してやる」
「はい。ありがとう存じます」
琴音は虚ろな表情で返事するだけだ。
「放課後は、真っ直ぐに帰ってくるんだぞ。地蔵堂の前で、おまえは神隠しに遭う。いいな? あとは村の者が万事うまくやる」
「わかりました」
あまりに素直な琴音に、松之助は眉根を寄せた。
「軍隊や警察に逃げ込もうなどと、ゆめゆめ考えるなよ」
「心配には及びませんわ、旦那さま。琴音は由松のことを大事に思っていますもの。そうでしょう?」
問いかける富美は、母親らしい微笑みを浮かべてはいるが、目の奥は笑っていない。
「はい。必ず帰って参ります」
琴音の返事に、松之助は満足げにうなずく。
「うむ。おまえが逃げたら涼風家は村八分になっておしまいだ。由松の行く末は、おまえにかかっていることを忘れるな」
真っ黒な霧が充満した奥座敷を辞したあと、琴音はふらふらとおぼつかない足取りで自室に戻った。血の気は失せ、その美しい顔には何の感情も宿ってはいない。
願うことは、ただ、由松には幸せになってほしい――。それだけだ。
◆
時は遡って、四月十五日、金曜日の昼下がり――。
蛇好神社の社務所には、涼風松之助を筆頭に、村長や地主などの村の有力者が呼び集められていた。
招集をかけた泉久葉は、一番最後にゆったりと入ってきた。いつものように妹の香世・沙世を従えている。
久葉たちが座るやいなや、松之助は苛立たしげに口火を切る。
「久葉さん。一体どうなっているんですか。貴方の式神がやられるなんて!」
深夜に桜町から琴音を連れ戻したため、ほぼ一睡もしていない。そのことが余計に口調を荒くさせる。
「いや、琴音さんが教師と不埒な行為に及びそうになってましてな。その罰を与えようとしたら、思わぬ邪魔が入ったんですわ」
久葉はこんなときも柔和な表情を崩さない。松之助の苛立ちは増した。
「貴方が派手に暴れるから、軍人どころか警察まで動きだしたじゃないですか」
「それを言うなら、涼風さん。あんたの対応もまずかったわ。琴音さんを取り返したいからって、徒党を組んで陸軍の屯所に乗り込むとは、愚の骨頂ですわ。奴らを刺激しただけですやんか」
(生意気な!)
松之助は充血した目を見開き、鼻息を荒くした。
「娘を拉致されたあげく、車夫も失ったんです。冷静でいられるわけがない!」
「こっちも大事にしとった式神がやられたんやからね。あんたと気持ちは同じや」
(栄八を式神にしたのは、おまえだろうが!)
口をついて出そうになったのを、松之助は堪えた。
「せやけど、私の指示にないことをしてもらったら困るで」
あくまで穏やかな口調だが、久葉の眼差しには、屈服せざるを得ない威圧感がある。松之助は思わず目を伏せた。
これが代々、蛇神を祀ってきた泉家の人間の風格というべきか。
「ま、まあ、そのへんで。仲間内で揉めるのはまずいで」
村長が、おそるおそる仲介に入る。
「いやいや揉めとらんよ。忌憚なく意見を言い合っとるんや。なあ、涼風さん?」
「はあ……」
張りつめていた場の空気が、ようやく緩む。
「まあ、車夫なんか、いくらでも替えは効きますやろ。また桜町で雇ったらよろしいがな」
町の人間は、蛇ノ目村には近づきたがらない。連れてくるためには、それなりの給金を用意せねばならぬ。
(それを知ってて、そんなことを言うのか)
腸は煮えくり返っているが、これ以上噛みつくのはまずい、と心を落ち着かせる。
久葉は松之助より一回り以上も年下だが、家格は泉家のほうが上であるし、あまり強く出ることができない。そもそも、松之助がすんなりと蛇ノ目村に馴染めたのも、泉家の後ろ盾があってのことだった。
涼風家を盤石なものとし、兄の海藤家すら凌ぐ一族の祖となる――。
野望を抱く松之助にしてみれば、久葉を味方につけておくことが肝要だ。
ゆえに、久葉が「栄八を式神にして琴音を守護させる」と言いだしたときも、異を唱えたりはしなかった。
久葉は蛇神の意志のままに動く。琴音が新たな生贄の候補となっていることを知り、松之助は内心ほくそ笑んだほどだ。

