凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

 幻十郎は上着を脱ぎ捨て、身構えた。

「撃滅やと? やってみい!」

 叫ぶやいなや、式神は一気に間合いを詰めてきた。

(速い!)

 拳と蹴りが雨あられと、幻十郎を襲ってくる。
 徹底的に己を鍛え上げた幻十郎だ。剣術と体術においては本隊の隊員にも負けていない自負があるが、人間の域を超えるものではない。

 式神の怒涛(どとう)の攻めを避けたり捌(さば)くのがやっとで、なかなか攻撃に移れない。
 間隙(かんすき)を縫って式神の腹に一発、拳で打撃を加えたが、びくともしない。

(やはり妖刀で斬らなければ駄目か……)

 己の非力が恨めしい。

 そして、膠着(こうちゃく)状態が崩れるのは一瞬だった。
 式神の左手の鋭い爪が、幻十郎の肩に刺さったのだ。

「ぐっ……」

 激痛が走り、動きを止めた幻十郎の首を、式神が右手で鷲掴みにした。

「貴様は何者や? なんでこの娘を庇(かば)う?」
「…………」
「吐いたら命までは取らんで」
「……し、死んでも言うものか」
「ほんなら死ね」

 雑音まじりの声で短く言うと、式神は右手に力をこめた。首の骨が軋(きし)む音がする。

(ここまでか……)

 醜悪な式神の顔の輪郭(りんかく)が、闇に溶けていく。廊下を照らしていた狐火もすべて消えてしまったようだ。
 幻十郎は、意識が薄れてゆくのを感じた。

「菊地さま!」

(誰のことだ……?)

「菊地さま! しっかりしてくださいませ! わたしを守ってくださるのではなかったのですか!」

 琴音の叫び声に、幻十郎はかろうじて意識を繋ぎ止める。

(ああ……菊地というのは私のことか……。いや、私は八神幻十郎だ!)

 彼女に本名を知らせないまま死んでたまるか、と気力を振り絞る。

「ど、どうせなら……」
「はあ?」

 幻十郎が喋りだすと、式神は手の力を緩めた。

「私を喰ってみろ。その犬のような口でな」

 式神は、それを幻十郎の精一杯の強がりと受け取ったようだ。

「面白い。お望み通り、頭から貪(むさぼ)り喰ったるわ」

 舌なめずりした式神は、鋭い牙が光る口をあんぐりと開けた。まさに血肉に飢えた野犬のごとき大口だ。

 幻十郎は、意識を左手に集中させた。
 残っている妖力をすべて注ぎ込み、掌(てのひら)に狐火をつくりだす。

「これでも喰ってろ!」

 叫びながら幻十郎は、式神の口の中に狐火を放り込んだ。

「うがっ!」

 式神は喉をおさえて、よろよろと後ずさりした。

「爆(は)ぜよ」

 幻十郎が命じたとおりに、狐火は式神の体内で燃え上がる。

「ぎえええええええええ!」

 全身を炎に包まれた式神は、断末魔の叫びを残して黒煙となり、跡形もなく消えさった。

 幻十郎は大きく息を吐いて、片膝をついた。
 勝てるとは思わなかった――というのが正直なところだ。式神の声は雑音まじりで、遠くから響いているように感じたことを思い出す。

(式神を操っている者は、この近くにはいないということか)

 少なくとも一里以上は離れている気がする。……であれば、あの式神は遠隔操作となったため、本来の能力を発揮できていなかったことになる。

(私の狐火は殺傷能力が低いからな)

 自力で式神を始末できた理由がわかって、幻十郎の顔に自嘲の笑みが浮かぶ。
 式神の消滅と同時に、結界も消えたようだ。

「菊地さま……大丈夫ですか……?」

 声がして振り返ると、足を動かせない琴音が、這(は)うようにして幻十郎に手を伸ばしている。式神の爪でえぐられた右肩を気遣ってくれているようだった。白いカッターシャツが血に染まっている。

「私は大丈夫だ……」

 幻十郎は無理に微笑んでみせる。思えば、琴音の叫び声のおかげで諦めることなく戦えたのだ。

「八神!」
「八神中尉!」

 能登と永井軍曹が駆け寄ってきた。緊張が一気に解けて、身体から力が抜けていく。
 さすがの能登も、ただならぬ事態に顔が真っ青だ。

「どうした八神! 何があったんだ!?」
「……し、式神が琴音さんを襲った」
「式神だって!?」
「撃滅したが、まだ油断ならない。彼女を狙っている呪術使いがいる。彼女を保護してくれ……能登……」

 幻十郎は言い終えると、意識を失った。