凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

「なっ……!?」

 長身の人影が、二階の窓から落ちてきたのが見えた。
 咄嗟(とっさ)に動きだした幻十郎だが、間に合わない。人影はどさり、と鈍い音を立てて地面に落ちた。

 駆け寄ってみると、落ちてきたのはスーツ姿の若い男だった。血だらけではあるが、まだ息はある。

「何の音だ!?」
「あそこだ!」

 この学校の教師らが騒ぎはじめ、何人かが幻十郎のほうに向かってくる。
 落ちてきた男は教師らに任せることにして、幻十郎は校舎に戻った。

(嫌な予感がする……)

 階段を駆け上がり、二階へと。
 日が沈みきった長い廊下は、あまりに視界が悪い。
 幻十郎は走りながら狐火をいくつも出した。おかげで廊下の一番奥まで見通せる。

「――っ!」

 琴音がいた……のだが、男と対峙していた。法被(はっぴ)に股引き姿であるから車夫だろう。
 だが、この車夫は異様だった。

 その形相は人間のものではなく、琴音の胸倉をつかんで窓に押しつけている。そればかりか禍々しく伸びた爪を、琴音の美しい顔に当てているではないか。

 考えるより先に、体が動いていた。
 幻十郎は駆け寄った勢いのまま、車夫を蹴り飛ばした。

「き……貴様……よくも……」

 突き当たりの壁に叩きつけられた車夫は、やはり人外であった。

「……式神だな?」

 妖気を発していない人外のもの……となれば、呪力を持った誰かが生み出した式神としか考えられない。
 この式神がなぜ琴音を狙ったのかはわからないが、とにかく彼女を無事に逃がすことが先決だ。妖術を使うなら、これ以上〝変化〟を続けることは負担になる。

「あ……貴方は……菊地さま……?」

 よし江の〝変化〟を解き、本来の姿に戻った幻十郎を見て、琴音は床に座り込んだ。

「安心しろ。私が守ってやる」

 その場しのぎの言葉ではない。これは幻十郎の本心であった。

 式神を睨みつけ、術を発動する。
 それは幻術だ。相手の視覚に、幻十郎がつくりだした幻覚を流し込むことができる。

 式神は動きを止めた。大量に発生した霧とともに、二十人以上に増えた幻十郎の分身に、さしもの式神も戸惑っている。

(だが、あくまで虚仮威(こけおど)し。幾らも持ちはすまい)

「立てるか?」

 幻十郎は、琴音に手を差し伸べた。

「は、はい……」

 おそるおそる握ってきた小さく柔らかい手は、小刻みに震えている。
 この娘を守ってやりたい――。そう思わせるには充分だ。

「あ……でも、足が……」

 足を挫いたか、あるいは恐怖ですくんで力が入らないのか。立たせてみると、琴音は歩き難そうにした。

「じっとしてろ」

 幻十郎は、両腕で琴音を横向きに抱え上げた。琴音が戸惑いの声をあげる。

「えっ……あの……」
「幻術を使って、奴を足止めした。いまのうちに逃げる。私の首に腕を回せ。そのほうが安定する」
「はっ、はい……」

 素直に従った琴音を抱えたまま、幻十郎は走りだした。
 式神を操っている者が近くにいるだろうが、とにかくいまは琴音を無事に逃がすことが最優先だ。

 もうすぐ階段……というところで。

「むっ」

 禍々しい色の幕が下りていることに気づいて、幻十郎は足を止めた。

「これは……まさか……!?」

 足で蹴ると、硬い壁のような感触があり、そこから先に進めなくなっている。
 何度も蹴ったが、ヒビ一つ入らない。

「結界を張らせてもらいましたで」

 西国訛りの若い男の声に振り返ると、目を光らせた式神が悠々と歩いてくる。

「くっ……」

 もはや車夫だった面影もなく、獰猛(どうもう)な野犬のような顔に変化している。

「さすが妖狐の幻術は一流ですな。せやけど私には通用しませんわ」

(足止めにもならなかったか……)

「すまないが下りてくれ」

 幻十郎は、琴音をそっと下ろした。

「身を低くして、じっとしているんだ。動かないように」

 そう言い置いて、幻十郎は琴音を隠すようにして式神を待ち受ける。

「ど、どうするのですか……?」

 琴音が震える声で訊いてきたのを、幻十郎は背中で受け止める。

「戦って撃滅する」

 言い切ったものの、勝てる自信などない。
 そもそも自分は戦闘要員ではない。あくまで諜報員であり、これまでずっと悪しきあやかしとの戦闘は避けてきた。妖刀を携えている本隊の隊員に任せれば良かったのだから。

 だが……そうも言ってられない。必ず勝たなければ、琴音の命が危うい。