凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

「――っ!」

 琴音はぎょっとして肩を跳ね上がらせた。
 栄八の目が、禍々(まがまが)しい光を放っているからだ。

「お嬢さま。貴女はふしだらな女なんですかい? 嘘をついて、こんな男といかがわしい行為を……」
「君! 何だね、その言い草は!」

 丹羽が開き直ったかのように詰め寄ると、栄八は琴音を引き寄せ、後ろに突き飛ばした。丹羽とは比較にならないほどの怪力に、琴音は廊下に倒れこむ。

「わめくな、下衆(げす)が」

 栄八は冷たく言い放ち、片手で丹羽の首を絞めた。
 丹羽の喉から、空気が漏れるような奇妙な音が響く。腕の痛みをこらえて顔を上げた琴音は、悪い夢を見ているような心地になった。

 沈みかけの太陽が照らしだしたのは、丹羽の苦悶の表情だ。いまにも目玉が飛び出しそうである。
 しかも……丹羽の体は完全に浮き上がっている。栄八は片手しか使っていないというのに。

「栄八さん! やめて!」

 琴音が叫ぶと、栄八は丹羽を放り投げた。手毬(てまり)でも投げたのか、というほど無造作に。
 丹羽の体は小部屋の窓を突き破り、落ちていった。
 どさり、という鈍い音は、琴音の耳まで届いた。

「さて、お次は、お嬢さまの番ですぜ」

 ふり返って、にやりとした栄八の表情は、悪鬼そのものだった。耳は尖り、大きく広がった口から鋭い牙が覗いている。しかも薄闇のなかで真っ赤な目が光っている。

 琴音は、か細い悲鳴を上げるのがやっとだった。逃げようにも、足は恐怖で石のようになって動かぬ。

「殺したりはせんから安心なさい」

 栄八は無理やり琴音を立たせた。

「せやけど、お仕置きをせなあかん。悪い虫がつかんように、顔に傷をつけさせてもらいますわ」

 その声は栄八のものではなかった。もっと若い男の声だ。どこかで聞いたことのあるような気もするが、記憶の糸をたぐり寄せる余裕は琴音にはない。
 そもそも雑音まじりのくぐもった声で、遠くから風に運ばれてきたような声だ。

「貴女はもっと純真無垢であるべきやった……」

 栄八がかざした左手の爪が、いきなり二寸(約六センチメートル)くらいまで伸びた。

「や、やめて……」

 視界が涙でにじむ。栄八の正体は恐ろしい化け物だったというのか。
 栄八の長い爪が、琴音の頬に当てられた。ひやりとする感触に、鳥肌が立つ。

「ぐがっ!」

 短い呻(うめ)き声を残して、栄八は琴音の視界から消えた。
 突き当たりの壁に叩きつけられ、床に転がった栄八を見て、真横に吹っ飛ばされたんだと気づく。

「え……」

 肩で息しているよし江を見て、琴音は絶句した。
 勢いよく駆けてきて、栄八を蹴り飛ばしたようだ。

 それよりもまず、廊下が明るくなっていることに琴音は気づいた。提灯(ちょうちん)なんて一つもないのに……?
 いや、よし江のまわりに、怪しげな火がいくつも浮かんでいるのだった。怪談話で聞く人魂のような怪火だ。

「き、貴様……よくも……」

 ゆっくり体を起こした栄八が、よし江を睨みつける。

(よし江さんの偽者が、わたしを助けてくれたの……?)

 琴音はただ、呆然と立ち尽くすしかない。

「この娘に手出しは許さん」
「なに!?」
「おまえからは、あやかしの気配を感じない。……式神だな?」

 よし江の偽者の発した声も、よし江のものではなくなっている。こちらも聞き覚えのある若い男の声だが、まだ耳に残っている声だ。

 栄八は「そういう貴様は……」と焦った声を出したが、何かに気づいたように目を見開いた。

「狐火……? まさか貴様、妖狐か……?」

 栄八に問われたよし江の偽者は、不敵な笑みを浮かべた。

「ご明察(めいさつ)だ。拝ませてやるよ」

 言うが早いか、みるみると、その姿を変えていく。

「あ、貴方は……菊地さま……?」

 もはや何が起きても驚きはすまい、と思っていたのに……。

(そうだわ。この声は、たしかにさっき別れたばかりの菊地さまのもの……)

 琴音の眼前で、友人のよし江から、執事の菊地へと姿を変えたのだった。
 身体から力が抜け落ちて、琴音は崩れるように床に座りこむ。

(栄八が式神で、菊地さまが妖狐……?)

 菊地は琴音に微笑みかけて、
「安心しろ。私が守ってやる」
 と言い切ったあと、また栄八に視線を戻した。

 あの懐かしい匂いが、ふたたび琴音の鼻腔に押し寄せる。
 菊地の姿に、ハレー彗星の軌跡が重なった。こんなときにも不吉な箒星は幻影を見せてくる。

(さきほどの白昼夢は、これの予知夢だったの?)

 だとすれば……菊地はハレー彗星が連れてきた救いの神なのかもしれない。
 恐怖と混乱で侵されていた琴音の胸に、かすかな希望の光が灯る。

 この人ならば、牢獄のような蛇ノ目村から連れ出してくれるかもしれぬ、と――。