「きゃっ!」
誰かにぶつかった琴音を抱き止めたのは、三つ揃いスーツの男――英語教師の丹羽だった。
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
「ご、ごめんなさい!」
「ああ、琴音くんじゃないか」
長身の丹羽が、背中を曲げて琴音の顔を覗きこむ。
「どうした? 顔が真っ青じゃないか。ゴーストにでも出くわしたかね」
「それが……」
怯えて振り返った琴音だが、よし江の偽者は追っては来ていない。丹羽は琴音の視線の先をたどって、
「誰もいないじゃないか」
と怪訝な顔つきで言った。
「まだ残ってる生徒は君くらいなものだよ。何か用事でもあったかい?」
「え、ええ……教室に忘れ物をしたものですから……」
言いながら琴音は胸に手を当てた。呼吸が乱れ、心臓は激しく鼓動している。
「誰もいない廊下が怖かったとか? 意外だな。君はもっと気丈夫だと思っていたが……」
丹羽はからかうような調子で話すが、それどころではない琴音には癇に障る。
「それでは失礼します」
「待ちたまえ」
一礼して立ち去ろうとした琴音を、丹羽は呼び止めた。
「君に話しておきたいことがあったんだ。ついてきたまえ」
有無を言わせぬ調子に、琴音もついて行くしかない。
丹羽は階段を上がっていき、二階の廊下をずんずん進んでいく。まさかと思ったが、丹羽が立ち止まったのは、やはり一番奥の小部屋だった。先日、海藤千賀子と揉めた部屋だ。
「さあ、入りたまえ」
丹羽に促され、琴音は嫌とも言えずに中に入った。相変わらず雑然として狭苦しい部屋だ。
窓から射し込む夕焼けの光は弱々しく、もうすぐ日没だと知れる。丹羽が後ろ手で戸を閉めると、いよいよ真っ暗になった。
「丹羽先生。お話しというのは何でしょう?」
「それなんだが……この前のことを君に謝りたくてね」
「はあ……」
「千賀子くんが悪いことは僕にもわかっていたんだ。だが、立場上、どうしてもね。ほら、彼女は海藤家の御令嬢だから……」
この期に及んで、言い訳がましいことを言うために呼び止めたのか。
琴音は、ぎゅっと拳を握りこんだ。つい最近まで丹羽に好感を抱いていた自分が腹立たしい。
「その件でしたら、もう済んだことです。迎えの車が来ているでしょうから、失礼します」
丹羽の横をすり抜けようとした琴音だったが。
「おっと、待ちたまえよ。話はまだ終わってないよ」
琴音の腕をつかみ、丹羽は顔を近づけてきた。闇に呑まれてよく見えなかった表情が露わになると同時に、真っ黒な霧が噴き出しているのが見えた。
(気づかなかった!)
あまりに迂闊だった。頭が混乱していたとはいえ、だ。
「は、はなしてください!」
「僕はね、以前から千賀子くんとの縁談を勧められていたのさ」
「えっ……?」
「だけど、君は誰よりも美しい。僕が一緒になりたいのはね、琴音くん。君なんだよ!」
丹羽は口づけしようと、さらに顔を近づけてきた。真っ黒な霧は生臭い。
琴音は顔をそむけた。
「くっ! 涼風家に婿入りしたら、あの陰気な蛇ノ目村で暮らすことになるからね。僕は決心したよ。君を外に連れ出してあげる。君だって窮屈な思いをしてるだろう?」
「…………」
丹羽は、養父母が琴音を外に嫁がせたがっていることは知らないようだった。
「旧都がいいかい? それとも帝都か? 君が行きたいところに連れていってあげるよ。外国でもいいんだ。だから……」
「わたしはどこにも行きません! はなして!」
振りほどこうにも、男の力にはかなわない。丹羽は鼻息を荒くし、凄まじい力で琴音を抱きしめてきた。
(誰か助けて!)
すると突然、戸が乱暴に開けられた。
「な、何だね、君は!?」
丹羽は琴音から離れて、声を荒げた。
「栄八さん……」
琴音は驚いた。栄八が仁王立ちしていたからだ。いつもの無表情ではなく、怒りを湛えた顔である。
「お嬢さまが一向に出てこないものですからね。先生方に訊いてみたら、『新入生歓迎の会』の打ち合わせは明日やっていうじゃないですか。せやから立ち入りの許可を得て、こうして探しておったんです」
「栄八さん、ごめんなさい。わたし……」
震える足をようやく動かし、琴音は栄八に近づいて顔を上げたのだが……。
誰かにぶつかった琴音を抱き止めたのは、三つ揃いスーツの男――英語教師の丹羽だった。
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
「ご、ごめんなさい!」
「ああ、琴音くんじゃないか」
長身の丹羽が、背中を曲げて琴音の顔を覗きこむ。
「どうした? 顔が真っ青じゃないか。ゴーストにでも出くわしたかね」
「それが……」
怯えて振り返った琴音だが、よし江の偽者は追っては来ていない。丹羽は琴音の視線の先をたどって、
「誰もいないじゃないか」
と怪訝な顔つきで言った。
「まだ残ってる生徒は君くらいなものだよ。何か用事でもあったかい?」
「え、ええ……教室に忘れ物をしたものですから……」
言いながら琴音は胸に手を当てた。呼吸が乱れ、心臓は激しく鼓動している。
「誰もいない廊下が怖かったとか? 意外だな。君はもっと気丈夫だと思っていたが……」
丹羽はからかうような調子で話すが、それどころではない琴音には癇に障る。
「それでは失礼します」
「待ちたまえ」
一礼して立ち去ろうとした琴音を、丹羽は呼び止めた。
「君に話しておきたいことがあったんだ。ついてきたまえ」
有無を言わせぬ調子に、琴音もついて行くしかない。
丹羽は階段を上がっていき、二階の廊下をずんずん進んでいく。まさかと思ったが、丹羽が立ち止まったのは、やはり一番奥の小部屋だった。先日、海藤千賀子と揉めた部屋だ。
「さあ、入りたまえ」
丹羽に促され、琴音は嫌とも言えずに中に入った。相変わらず雑然として狭苦しい部屋だ。
窓から射し込む夕焼けの光は弱々しく、もうすぐ日没だと知れる。丹羽が後ろ手で戸を閉めると、いよいよ真っ暗になった。
「丹羽先生。お話しというのは何でしょう?」
「それなんだが……この前のことを君に謝りたくてね」
「はあ……」
「千賀子くんが悪いことは僕にもわかっていたんだ。だが、立場上、どうしてもね。ほら、彼女は海藤家の御令嬢だから……」
この期に及んで、言い訳がましいことを言うために呼び止めたのか。
琴音は、ぎゅっと拳を握りこんだ。つい最近まで丹羽に好感を抱いていた自分が腹立たしい。
「その件でしたら、もう済んだことです。迎えの車が来ているでしょうから、失礼します」
丹羽の横をすり抜けようとした琴音だったが。
「おっと、待ちたまえよ。話はまだ終わってないよ」
琴音の腕をつかみ、丹羽は顔を近づけてきた。闇に呑まれてよく見えなかった表情が露わになると同時に、真っ黒な霧が噴き出しているのが見えた。
(気づかなかった!)
あまりに迂闊だった。頭が混乱していたとはいえ、だ。
「は、はなしてください!」
「僕はね、以前から千賀子くんとの縁談を勧められていたのさ」
「えっ……?」
「だけど、君は誰よりも美しい。僕が一緒になりたいのはね、琴音くん。君なんだよ!」
丹羽は口づけしようと、さらに顔を近づけてきた。真っ黒な霧は生臭い。
琴音は顔をそむけた。
「くっ! 涼風家に婿入りしたら、あの陰気な蛇ノ目村で暮らすことになるからね。僕は決心したよ。君を外に連れ出してあげる。君だって窮屈な思いをしてるだろう?」
「…………」
丹羽は、養父母が琴音を外に嫁がせたがっていることは知らないようだった。
「旧都がいいかい? それとも帝都か? 君が行きたいところに連れていってあげるよ。外国でもいいんだ。だから……」
「わたしはどこにも行きません! はなして!」
振りほどこうにも、男の力にはかなわない。丹羽は鼻息を荒くし、凄まじい力で琴音を抱きしめてきた。
(誰か助けて!)
すると突然、戸が乱暴に開けられた。
「な、何だね、君は!?」
丹羽は琴音から離れて、声を荒げた。
「栄八さん……」
琴音は驚いた。栄八が仁王立ちしていたからだ。いつもの無表情ではなく、怒りを湛えた顔である。
「お嬢さまが一向に出てこないものですからね。先生方に訊いてみたら、『新入生歓迎の会』の打ち合わせは明日やっていうじゃないですか。せやから立ち入りの許可を得て、こうして探しておったんです」
「栄八さん、ごめんなさい。わたし……」
震える足をようやく動かし、琴音は栄八に近づいて顔を上げたのだが……。

