凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

【カフェー夢見草】を出たあと、琴音は大通りでよし江たちと別れた。
 頭からは、菊地という執事のことが離れない。

 だが冷静になってみると、「菊地はあやかしではないか」という疑いはあまりに荒唐無稽だと思えてきた。
 菊地は容姿端麗で知的であり、所作も洗練されていた。あまり笑顔を見せなかったが、癒されるような穏やかさを湛(たた)えていた。

(わたしは、あの人に期待してしまったのかしら)

 蛇ノ目村から連れ出してくれる人だと……。海藤家の分家たる涼風家の令嬢うんぬんではなく、あくまで琴音という女として見てくれる人だと……。

 けれども、結局は菊地とて家柄しか気にしていない、普通の男なのだ。
 勝手に期待して、勝手に幻滅してしまった。
 琴音は、自嘲気味に薄く笑う。

 大通りから人気のない脇道に入った刹那(せつな)、刺すような頭痛がして歩みを止めた。視界が真っ暗になり、立っていられずにうずくまる。琴音は小さく悲鳴をあげた。

 漆黒の夜空を切り裂くように、彗星が尾を引いて流れてくる。

 それは、ただのハレー彗星ではなかった。恐れを抱いて当然の、紛うことなき凶星だ。
 しかし、どこか懐かしい。そして生温かい。まるで血のようだ。
 不吉な箒星の軌跡に、あの見目麗しい菊地の幻影が重なる。【カフェー夢見草】ではついに見ることのなかった優しい笑みを浮かべている。

 琴音は思わず、すがるように問い掛けた。

「わたしを連れ出してくださいますか……?」

 菊地は真顔になって手をのばした。

「おまえが望むなら、そうしよう。私が守ってやる」

 ふわり、と鼻先に漂(ただよ)ってきたのは、あの懐かしい匂いだ。
 そこで急に視界が開けた。
 これは、ハレー彗星が見せてきた白昼夢かもしれぬ。
 頭痛が治まり、意識がはっきりしてから琴音はゆっくりと立ち上がった。

(やはりあの人は、ただの人ではないわ)

 疑いは確信へと変わった。だとすれば、ハレー彗星が連れてきた悪鬼か、それとも救いの神か。


 琴音はぐるっと遠回りして、女学校の裏門に向かった。
 もう栄八が迎えに来ている頃だ。裏門から入って、何食わぬ顔で正門から出て行けばいい。
 門番の用務員に一礼して「忘れ物をしましたので」と告げ、裏門から校舎に入った。

 放課後の校舎はがらんとしており、窓から射し込む夕焼けの光が、長い廊下の陰影をより濃くしている。
 なんだか不気味で、廊下を歩く足を早める。

 ――と、後ろからついてくる足音に琴音は気づいた。かすかに気配も感じる。
 だが、振り返って確かめることは躊躇(ためら)われた。

(気味が悪いわ)

 恐ろしい予感とともに、嫌な胸騒ぎを覚える。
 突き当たりの角を曲がったところで、琴音は立ち止まって壁にもたれた。

 すると、もう一つの足音はぴたりと止んだ。琴音が勘づいたことに相手も気づいたらしく、どうしたものか逡巡(しゅんじゅん)しているような気配がある。
 このままでは埒(らち)が明かない。

(もしかしたら、わたしを慕ってくれている下級生かもしれないわ)

 あえて楽観的になることで勇気を振りしぼる。
 曲がり角から、そっと顔を覗かせた琴音が目にしたのは――。

「よし江さん!」

 さっき別れたはずのよし江が突っ立っていた。

「嫌だわ、驚かせないで。心の蔵が止まるところだったわ」

 琴音が大きく息を吐きだすと、よし江は何とも言えない曖昧な表情を浮かべて、
「あら、ごめんなさい。堪忍してね。私、忘れ物をしちゃったものだから……」
「忘れ物って、教室に……?」
「え、ええ……」

 琴音たちの教室は、いま二人が会話している校舎の、渡り廊下をはさんだ隣の校舎にあるのだが……。

「まだ取ってきてないんでしょう?」

 訝しげに琴音が尋ねると、よし江は取り繕うように笑って、
「ええ……ほら、もうすっかり暗いでしょう? 私、心細くって……。琴音さんに付いていってもらおうと思って、慌てて追いかけてきたの」
「…………」

 おかしい、と琴音は思った。よし江は肝が据(す)わっていて、暗がりをむやみに恐れたりするような性分(しょうぶん)ではない。
 それに……些細(ささい)ではあるが違和感があった。

(そうだわ! 左の目元にほくろがないわ!)

 見間違いかと目をこらすが、たしかに、よし江の左の目元にあるはずのほくろがない。

(よし江さんじゃ……ない!)

「あなたは誰なの!?」

 琴音は半(なか)ば恐怖にかられて声を荒げた。よし江は真顔になって、無言のまま琴音を見つめている。それは開きなおったかのようでもあった。

 よし江の瞳が、薄闇のなかで妖しく光りはじめた。とたんに琴音の視界が歪んでいく。まぶたが重くなっていく感覚もある。

「……わたしには効(き)かないわ」

 自分に言い聞かせるように呟いたが、よし江はぎょっとして立ちすくんだ。

(催眠術にかけられるところだった!?)

 このよし江は偽者だ――。そう確信した琴音は、踵(きびす)を返して走った。
 追いかけてくる足音も気配もしないが、脇目も振らず走った。
 ここを曲がれば、下駄箱のある昇降口……というところで。