啓治と幻十郎の父――八神啓太郎は、軍人になるために生まれてきたような男だ。内戦での武功が認められ、華族となって爵位を与えられた。今は元老院の一員であり、陸軍大臣を務めている。
啓太郎の妻・はつは病弱であったから、男児をひとり無事に生めたのは幸いであった。その啓治にしても幼い頃は病臥することが多く、「長くは生きられぬだろう」と医者に宣告された。
はつだけを武骨に愛した啓太郎は妾を囲うこともなかったため、男児を養子に迎えることを望んだ。
そして引き取られたのが、狂信的な陰陽師によって滅ぼされた妖狐一族の生き残りである、孤児の幻十郎だった。
つまり、幻十郎にとって啓太郎とはつは養父母であり、啓治は四歳上の義兄だ。
結局、啓治は余命宣告を跳ねのけ、充分健康に育ったのであるが……。
「軍人になって、帝の御為に命を使え」
これが啓太郎の口癖であったが、長男の啓治は本の虫で、運動や武道に興味を示さなかった。しかも「中学校を卒業したら陸軍士官学校に入れ」という父の意向に反し、「学者になりたいから」と高等学校への進学を決めてしまった。
それがもとで父と啓治の間に軋轢が生じ、言い争う毎日――。耐えかねた啓治はとうとう、十九歳の時に出奔した。帝都の一等地に居を構えていた八神家を飛び出したのである。
以後、各地を転々として、一度も帝都に戻っていない。
ただ、手紙だけは折に触れて寄こした。母は喜んだが、父は読みもしなかった。
「おまえと会うのは五年ぶりか……」
啓治がぼそりと呟く。
「ええ。前に会ったのは、私がまだ士官学校にいた頃ですから」
士官学校の演習で富士山麓まで遠出をしたことがあった。偶然、近くの田舎町で啓治が古本屋をやっていたので、休みを利用して会いに行ったのだ。
あれから啓治は西へ、西へと移動し、ついに旧都で店を構えるまでになり、春子という伴侶も得た。ここに至るまで、どれほど辛酸をなめたのか。
「今日はどうしたんだ?」
「母さんが手紙で伝えてるでしょうが、いま、悪しきあやかし対策の部隊にいます。珍しく西国で任務がありましてね。こっちに駆り出されたから、ついでに立ち寄ったのです。手土産はありませんが」
「いらん」
幻十郎がくくっと笑うと、沈黙が流れた。旧都の喧騒だけが耳に入ってくる。
沈黙を破ったのは、啓治だった。
「俺のことが憎いだろうな……」
眼鏡の奥の瞳に、わずかに憐憫の情がこもっている。
「えっ、私が兄さんを……?」
「憎いはずだ。俺が家を出たから、親父の期待はおまえの肩にのしかかった。おまえとて軍人になりたかったわけではあるまい」
「まあ、たしかにそうですが……。狂った陰陽師に一族が滅ぼされましたからね。なぜ私が人間を守るために軍人にならなきゃいけないのか。疑問に思ったことはあります。ですが……」
幻十郎は、真っ直ぐに啓治を見据えて言った。
「私は父さんに救われました。何不自由なく生きてこられたのも、父さんのお陰です。母さんも、この私を温かく迎えてくれた。兄さんと差をつけたりしませんでしたからね。兄さんだって、私を本当の弟として見てくれたじゃないですか」
「…………」
「父さんのような根っからの軍人ではないかもしれませんが、少なくとも八神家に報いるために軍人になったんです。そこに後悔はありません。それに……兄さんもまだ八神の人間じゃありませんか。父さんは勘当しちゃいませんからね」
そう言うと、幻十郎は手に持っていた本を啓治に渡して、懐から財布を出す。
「これをもらいます。幾らです?」
「四十銭」
「釣りはいりません。気が早いですが、出産祝いです」
幻十郎が一円銀貨を渡すと、啓治は微笑んで、
「おおきに」
と西国訛りで言った。
「まあ買ってもらえるのは嬉しいが、小説を読むような趣味あったか?」
「ん……?」
啓治に問われて、幻十郎は初めて表紙を見る。
泉鏡花の『高野聖』という小説だった。小説などほとんど読んだことのない幻十郎だ。
「……暇潰しに読んでみましょう」
苦笑まじりに返事して、「また来ます」と露草書房を後にする。
(いつか店名が八神書房に変わる日は来るだろうか……?)
幻十郎と入れ違いに、二人連れの女学生が入っていった。
啓太郎の妻・はつは病弱であったから、男児をひとり無事に生めたのは幸いであった。その啓治にしても幼い頃は病臥することが多く、「長くは生きられぬだろう」と医者に宣告された。
はつだけを武骨に愛した啓太郎は妾を囲うこともなかったため、男児を養子に迎えることを望んだ。
そして引き取られたのが、狂信的な陰陽師によって滅ぼされた妖狐一族の生き残りである、孤児の幻十郎だった。
つまり、幻十郎にとって啓太郎とはつは養父母であり、啓治は四歳上の義兄だ。
結局、啓治は余命宣告を跳ねのけ、充分健康に育ったのであるが……。
「軍人になって、帝の御為に命を使え」
これが啓太郎の口癖であったが、長男の啓治は本の虫で、運動や武道に興味を示さなかった。しかも「中学校を卒業したら陸軍士官学校に入れ」という父の意向に反し、「学者になりたいから」と高等学校への進学を決めてしまった。
それがもとで父と啓治の間に軋轢が生じ、言い争う毎日――。耐えかねた啓治はとうとう、十九歳の時に出奔した。帝都の一等地に居を構えていた八神家を飛び出したのである。
以後、各地を転々として、一度も帝都に戻っていない。
ただ、手紙だけは折に触れて寄こした。母は喜んだが、父は読みもしなかった。
「おまえと会うのは五年ぶりか……」
啓治がぼそりと呟く。
「ええ。前に会ったのは、私がまだ士官学校にいた頃ですから」
士官学校の演習で富士山麓まで遠出をしたことがあった。偶然、近くの田舎町で啓治が古本屋をやっていたので、休みを利用して会いに行ったのだ。
あれから啓治は西へ、西へと移動し、ついに旧都で店を構えるまでになり、春子という伴侶も得た。ここに至るまで、どれほど辛酸をなめたのか。
「今日はどうしたんだ?」
「母さんが手紙で伝えてるでしょうが、いま、悪しきあやかし対策の部隊にいます。珍しく西国で任務がありましてね。こっちに駆り出されたから、ついでに立ち寄ったのです。手土産はありませんが」
「いらん」
幻十郎がくくっと笑うと、沈黙が流れた。旧都の喧騒だけが耳に入ってくる。
沈黙を破ったのは、啓治だった。
「俺のことが憎いだろうな……」
眼鏡の奥の瞳に、わずかに憐憫の情がこもっている。
「えっ、私が兄さんを……?」
「憎いはずだ。俺が家を出たから、親父の期待はおまえの肩にのしかかった。おまえとて軍人になりたかったわけではあるまい」
「まあ、たしかにそうですが……。狂った陰陽師に一族が滅ぼされましたからね。なぜ私が人間を守るために軍人にならなきゃいけないのか。疑問に思ったことはあります。ですが……」
幻十郎は、真っ直ぐに啓治を見据えて言った。
「私は父さんに救われました。何不自由なく生きてこられたのも、父さんのお陰です。母さんも、この私を温かく迎えてくれた。兄さんと差をつけたりしませんでしたからね。兄さんだって、私を本当の弟として見てくれたじゃないですか」
「…………」
「父さんのような根っからの軍人ではないかもしれませんが、少なくとも八神家に報いるために軍人になったんです。そこに後悔はありません。それに……兄さんもまだ八神の人間じゃありませんか。父さんは勘当しちゃいませんからね」
そう言うと、幻十郎は手に持っていた本を啓治に渡して、懐から財布を出す。
「これをもらいます。幾らです?」
「四十銭」
「釣りはいりません。気が早いですが、出産祝いです」
幻十郎が一円銀貨を渡すと、啓治は微笑んで、
「おおきに」
と西国訛りで言った。
「まあ買ってもらえるのは嬉しいが、小説を読むような趣味あったか?」
「ん……?」
啓治に問われて、幻十郎は初めて表紙を見る。
泉鏡花の『高野聖』という小説だった。小説などほとんど読んだことのない幻十郎だ。
「……暇潰しに読んでみましょう」
苦笑まじりに返事して、「また来ます」と露草書房を後にする。
(いつか店名が八神書房に変わる日は来るだろうか……?)
幻十郎と入れ違いに、二人連れの女学生が入っていった。

