生温かい風が吹くたびに、満開を過ぎた桜の木々が薄桃色の花びらを散らす。
華やぐ旧都から十里(約四十キロメートル)と離れていないが、どこかものさびしい蛇ノ目村にも春が訪れた。
それでも琴音の心が浮き上がることはない。
(この村にいる限り、春の訪れを喜ぶこともできない……)
琴音は、そっと悲嘆に暮れる。
数え十七歳の乙女にとって、それはあまりに酷薄であった。
蛇ノ目村――。
西国にはごまんとある寒村とは異なり、広大な田畑の管理は行き届いており、早朝から作業している村人の数も多い。それでもどこか陰気なのは、古から蛇神が村を守護していると言い伝えられているからか。
農業と養蚕業で成り立っている村の奥まった場所に、異様なまでに立派な純和風の屋敷がある。村一番の名士たる涼風家の屋敷である。
その居間では琴音を含めた家族四人が朝食をとっていて、使用人たちが立ち働いて給仕している。
「お父さま。学校のみんなはハレー彗星を怖がっているんですよ。もう、おっかしくて。ただの彗星だというのに……」
数え十二歳の由松が、やや大人びた口調で話すと、父親の松之助は憮然として返した。
「あれは凶星だ。ろくなもんじゃない」
いつも由松に優しい父も、ハレー彗星の話題になると機嫌が悪くなる。
明治四十三年の四月、世間はハレー彗星の話題で持ちきりだ。あと一週間ほどで地球に最接近する箒星について、新聞各紙も連日書き立てていた。大抵は松之助のいうように「凶星が迫っている」「災厄が起こる前兆」という論調で、不安を煽り立てる見出しが躍っている。
「不吉な箒星を見た者は目が潰れる」などという霊媒師の談話を載せている新聞もあるくらいだ。
「凶星だなんて大げさですよ。ねえ、おねえさま」
話を振られて、琴音は曖昧にうなずく。
「おねえさまも言っていたじゃないですか。ハレー彗星はちっとも不吉じゃないって」
父の眉間のしわが深くなったのを横目で見て、琴音は言葉に詰まった。だが、弟に悪気は微塵もないのだ。
「ええ、わたしも由松と同じよ。お友達のよし江さんと弥生さんも笑っていたわ。『ただの彗星なのに、見たら目が潰れるだなんておかしいわね』って。面白おかしく書いている新聞を鵜呑みにするのはナンセンスだわ」
「ですよね。ナンセンスですよ」
姉が同意してくれたので、由松もつぶらな瞳を輝かせて無邪気に応じる。
(少し喋りすぎたかしら)
琴音の胸の奥に、黒ずんだ不安が広がる。
案の定、食事の手を止めて、母親の富美が琴音をぎろりと睨みつけた。
「琴音。由松の前で浮ついた西洋言葉を使うんじゃありませんよ。真似するじゃないの」
「はい……。ごめんなさい」
母は、自分が少しでも楽しそうに話していたら、すかさず噛みついてくる。
琴音がうつむくと、母は大きくため息を吐いた。
「まったく、町の女学校に通わせてもらっている分際で、生意気な子だよ。変な知恵ばっかりつけて、親の意見を否定するなんてね」
「お母さま。そんな言い方ってありませんよ。おねえさまは僕に味方してくれただけなんですから」
由松が取りなそうとするが、居間には気まずい沈黙が流れた。
空気を変えようと、由松が殊更にはしゃいでみせる。
「彗星は二十日の夜に最も近づくようですから、みんなで見てみましょうよ。きっと綺麗ですよ。ねっ、おねえさま」
「え、ええ……」
琴音が気後れしながら笑みをつくると、父は手にしていた湯呑みを食卓に叩きつけるように置いて、
「だめだ! 不吉な箒星を見たら、目が潰れるどころか、魂を持っていかれるぞ! その日の夜は、おまえたち、部屋から一歩も出るんじゃない。わかったな?」
と怒気を隠そうともせずに、ひと息で言った。
あまりの剣幕に、琴音も由松も「わかりました」と返事するしかなかった。
席を立った父が、琴音に一瞥をくれる。
「おまえのさっきの話は、この父に対して含むところでもあるのか?」
「め、滅相もございません!」
琴音は慌てて否定したが、父は意に介さない。
「由松は大事な跡取り息子だ。おかしな話を吹き込むんじゃないぞ」
そう言い捨てて、父は居間から出ていった。
「ごめんなさい、おねえさま。僕が余計な話をしたばっかりに……」
「いいのよ、由松のせいじゃ……」
「由松や」
しょんぼりしている由松を慰めようとした琴音の言葉をさえぎって、母が先程とは打って変わって猫なで声を出した。
「おまえが気にすることはないんだよ。琴音が生意気な口をきくから、お父さまがお叱りになっただけのことなんだから。さあ、早くお食べ。学校に遅れますよ」
涼風家は万時がこの調子である。下品だから、と西国訛りの地元言葉を使うことも許されない。
そして……父も、母も、愛情をそそぐのは由松だけだ。
華やぐ旧都から十里(約四十キロメートル)と離れていないが、どこかものさびしい蛇ノ目村にも春が訪れた。
それでも琴音の心が浮き上がることはない。
(この村にいる限り、春の訪れを喜ぶこともできない……)
琴音は、そっと悲嘆に暮れる。
数え十七歳の乙女にとって、それはあまりに酷薄であった。
蛇ノ目村――。
西国にはごまんとある寒村とは異なり、広大な田畑の管理は行き届いており、早朝から作業している村人の数も多い。それでもどこか陰気なのは、古から蛇神が村を守護していると言い伝えられているからか。
農業と養蚕業で成り立っている村の奥まった場所に、異様なまでに立派な純和風の屋敷がある。村一番の名士たる涼風家の屋敷である。
その居間では琴音を含めた家族四人が朝食をとっていて、使用人たちが立ち働いて給仕している。
「お父さま。学校のみんなはハレー彗星を怖がっているんですよ。もう、おっかしくて。ただの彗星だというのに……」
数え十二歳の由松が、やや大人びた口調で話すと、父親の松之助は憮然として返した。
「あれは凶星だ。ろくなもんじゃない」
いつも由松に優しい父も、ハレー彗星の話題になると機嫌が悪くなる。
明治四十三年の四月、世間はハレー彗星の話題で持ちきりだ。あと一週間ほどで地球に最接近する箒星について、新聞各紙も連日書き立てていた。大抵は松之助のいうように「凶星が迫っている」「災厄が起こる前兆」という論調で、不安を煽り立てる見出しが躍っている。
「不吉な箒星を見た者は目が潰れる」などという霊媒師の談話を載せている新聞もあるくらいだ。
「凶星だなんて大げさですよ。ねえ、おねえさま」
話を振られて、琴音は曖昧にうなずく。
「おねえさまも言っていたじゃないですか。ハレー彗星はちっとも不吉じゃないって」
父の眉間のしわが深くなったのを横目で見て、琴音は言葉に詰まった。だが、弟に悪気は微塵もないのだ。
「ええ、わたしも由松と同じよ。お友達のよし江さんと弥生さんも笑っていたわ。『ただの彗星なのに、見たら目が潰れるだなんておかしいわね』って。面白おかしく書いている新聞を鵜呑みにするのはナンセンスだわ」
「ですよね。ナンセンスですよ」
姉が同意してくれたので、由松もつぶらな瞳を輝かせて無邪気に応じる。
(少し喋りすぎたかしら)
琴音の胸の奥に、黒ずんだ不安が広がる。
案の定、食事の手を止めて、母親の富美が琴音をぎろりと睨みつけた。
「琴音。由松の前で浮ついた西洋言葉を使うんじゃありませんよ。真似するじゃないの」
「はい……。ごめんなさい」
母は、自分が少しでも楽しそうに話していたら、すかさず噛みついてくる。
琴音がうつむくと、母は大きくため息を吐いた。
「まったく、町の女学校に通わせてもらっている分際で、生意気な子だよ。変な知恵ばっかりつけて、親の意見を否定するなんてね」
「お母さま。そんな言い方ってありませんよ。おねえさまは僕に味方してくれただけなんですから」
由松が取りなそうとするが、居間には気まずい沈黙が流れた。
空気を変えようと、由松が殊更にはしゃいでみせる。
「彗星は二十日の夜に最も近づくようですから、みんなで見てみましょうよ。きっと綺麗ですよ。ねっ、おねえさま」
「え、ええ……」
琴音が気後れしながら笑みをつくると、父は手にしていた湯呑みを食卓に叩きつけるように置いて、
「だめだ! 不吉な箒星を見たら、目が潰れるどころか、魂を持っていかれるぞ! その日の夜は、おまえたち、部屋から一歩も出るんじゃない。わかったな?」
と怒気を隠そうともせずに、ひと息で言った。
あまりの剣幕に、琴音も由松も「わかりました」と返事するしかなかった。
席を立った父が、琴音に一瞥をくれる。
「おまえのさっきの話は、この父に対して含むところでもあるのか?」
「め、滅相もございません!」
琴音は慌てて否定したが、父は意に介さない。
「由松は大事な跡取り息子だ。おかしな話を吹き込むんじゃないぞ」
そう言い捨てて、父は居間から出ていった。
「ごめんなさい、おねえさま。僕が余計な話をしたばっかりに……」
「いいのよ、由松のせいじゃ……」
「由松や」
しょんぼりしている由松を慰めようとした琴音の言葉をさえぎって、母が先程とは打って変わって猫なで声を出した。
「おまえが気にすることはないんだよ。琴音が生意気な口をきくから、お父さまがお叱りになっただけのことなんだから。さあ、早くお食べ。学校に遅れますよ」
涼風家は万時がこの調子である。下品だから、と西国訛りの地元言葉を使うことも許されない。
そして……父も、母も、愛情をそそぐのは由松だけだ。

