凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~

 幻十郎としては、大いに不満であったのだが……。

 帝都の特務第四小隊から無線で指示があり、幻十郎は能登少尉と組んで、蛇ノ目村について情報を集めることになった。

 ――能登少尉は帝都の呉服屋の三男坊、八神中尉はその執事として行動を共にせよ。

 その指示に、幻十郎はため息が出た。

「隊長め、楽しんでるな……」

 ほくそ笑んでいる第四小隊の隊長・有馬(ありま)仁(じん)の顔が思い浮かぶ。

 有馬は二十七歳で、階級は少佐だ。平隊員であったころ、悪しきあやかしの討伐任務の際に左目を負傷して失明した。今はその左目を、厳(いか)めしい眼帯で覆っている。任務となると言動は荒っぽくなるが、情に厚い一面があり、部下からの信頼を集めている。
 幻十郎たち別働隊の者に対しても、本隊と分け隔てなく接する男だ。

 第二小隊の成田曹長らから蛇ノ目村の調査を引き継いだあと、幻十郎は能登と軽く打ち合わせた。諜報活動の方針や偽名を決めると、
「じゃあ、これから暫(しばら)くは八神のことを菊地と呼ぶからな。ご主人さまに忠実で、口答えを一切しない従順な執事という設定でよろしく頼むよ。今回は〝変化〟する必要もなかろう」
 と茶化すように言った能登は、口笛を吹きつつ旧都の繁華街に消えた。活動費が支給されたので、お互いに扮装を用意することになったのだ。能登は呉服屋で値の張る着物を仕立てるだろう。

「私は……執事なら洋装だな」

 洋服店で背広一式をあつらえると、寸法直しに数時間かかるとのことで、繁華街の店をいくつか冷やかす。
 それでもなかなか時間は潰れない。

「行ってみるか……」

 旧都になったとはいえ、廃(すた)れてしまったわけではない。市街地は、帝都の銀座あたりと比べても遜色(そんしょく)ない華やぎである。

「凶星がやってくる! この世の終わりや! 助かりたかったら、これを肌身離さず持っとかなあきまへん!」

 ハレー彗星の騒動に便乗して、おかしげなお守りを売りつけようという魂胆だろう。胡散臭い男が街頭で声を張りあげているが、真剣に耳を傾けている者もいる。
 その中には、あやかしも混じっていた。もちろん悪意を持たず、ただそこに立っているだけだが、幻十郎にしか見えていない。

 不吉な箒星がやってきたあと、この世が破滅する行く末を見通せるというなら、何故に目の前のあやかしが見えぬのか。

 幻十郎は人混みをすり抜けて、一軒の古本屋にたどり着いた。

 ――露草(つゆくさ)書房

 建物は古めかしいが、掛かっている看板はまだ新しい。
 やや躊躇(ためら)ったあと、幻十郎は店に足を踏み入れた。古い書物特有の匂いが鼻先にただよってくる。
 店内は狭苦しい印象だが、蔵書の数はそれなりで、きちんと整理されて書棚に並べられている。店主の几帳面な性格がうかがえる。

 先客が二人いて、詰襟の男子学生が洋書を、初老の男が詩歌集を、それぞれ熱心に読んでいる。
 幻十郎は二人に紛れるようにして、適当に手に取った小説を読む振りをした。そして、ちらりと奥を見やる。
 奥まった帳場に鎮座(ちんざ)している店主は、眼鏡をかけた痩身(そうしん)の若い男だ。手元の書物に目を落としたまま、仏像のように動かない。

(ずいぶんと痩せてしまったな)

 店主は、幻十郎のよく知る男である。
 初老の男が何も買わずに店を出たあと、男子学生が洋書を買っていくと、店内は店主と幻十郎の二人だけになった。
 しばらく沈黙が続いて……。

「いつまで客の振りをしてるつもりだ」

 冷たい声色に、どこか呆れと、幾分の気安さと。

「気づいていましたか」

 幻十郎は苦笑して、本を手にしたまま、店主――八神啓治(けいじ)に近づいた。

「久しぶりですね、兄さん」

 幻十郎が声をかけても、啓治は短く「ああ」と応じただけだ。

「元気そうじゃないですか。店も繁盛してるよう……とまでは言えないか」
「ハレー彗星の騒動のせいだ。街中が浮ついてるよ、まったく。読書どころじゃないんだろう。商売あがったりだ」
「それはそれは……店にとっても凶星ってわけですね」
「そんなことより、書生にでも化けてるのか?」

 幻十郎の身なりを見て、啓治は皮肉めいた調子で尋ねる。

「いや……そういうわけじゃないんですが……」

 言いつつ、幻十郎は二階へと続く階段に視線を送った。

「義姉(ねえ)さんはいますか? 挨拶しておきたくて……」
「ああ……春子は身重でな。田舎に帰しているんだ」
「そいつはめでたい!」

 啓治の固かった表情も、ようやく緩む。

「産まれる頃に、店を休みにして迎えに行くことになってる」
「すぐに母さんに電報を打ちます。知ったら大喜びでしょう。父さんも……」
「そいつはどうだかな」
「喜びますとも。初孫じゃないですか」

 幻十郎は言いつつも、父が喜ぶ姿は想像できなかった。