おもむろに菊地は話題を変えた。
「そういえば、もうすぐハレー彗星が最接近しますね。旧都は大騒ぎでしたよ。皆さんは怖くありませんか?」
「まさか。ただの彗星ですもの。恐れたりはしませんわ」
琴音が首を振ると、よし江と弥生も口をそろえて、
「その通りですわ。〝不吉な箒星〟なんて出鱈目もいいところ」
「みんな迷信に振り回されすぎよ」
と一笑に付した。
「ほう、桜町のお嬢さまたちは先進的ですな」
愉快そうな石清水に、よし江が言う。
「あら、琴音さんは隣村にお住まいですのよ。ねっ?」
「ええ……」
「隣村って、蛇ノ目村ですか?」
琴音に尋ねる石清水が怖い顔になった。
「そうですが……ご存知なのですか?」
「いや、地図で見た程度ですがね」
かぶりを振った石清水の顔に、また軽薄な笑みが戻る。
「隣村といっても、ここまで遠いでしょう? こちらに寄宿舎があるのですか?」
「いえ、毎日、人力車で送り迎えしてもらっていますので」
琴音が言うと、石清水は大仰に目を見張った。
「そいつはまた……」
「涼風家はご立派な家柄ですもの。海藤家はご存知でしょう? あの海藤家の分家なのですわ」
なぜか弥生が得意げに胸をそらす。
「こいつは驚いた。ええ、ええ、海藤家は知っていますとも。なあ、菊地?」
にやりとした石清水が、菊地と顔を見合わせる。
「ええ、もちろんです。華族ですから」
即答した菊地が、琴音に向きなおる。
海藤家は桜町を拠点に、旧都でも幅広く事業を展開している。遠く離れた帝都にも、海藤家と取り引きしている会社はあるので、石清水たちが知っているのも不思議はない。
ただ、海藤家の名が出てから石清水と菊地に緊張が走った気がする。
(わたしには、どこまでも家柄が付きまとうのだわ)
自分を叱責している養父母の顔が思い浮かび、琴音は軽く頭をふった。
(「家」とは関係なしに、わたしを純粋に恋うてくださる方はいない……)
ふつふつと苛立ちが募ってきた琴音は、思わず養父母をなじった。
「立派な家柄なのは海藤家であって、涼風家は大したことありませんわ。父も母も、ハレー彗星を『凶星だ』といって怯えております。頭の古い、前時代的な『家』ですわ」
「……ご両親をそのように言ってはいけませんよ」
諫めるように口を開いたのは菊地だ。
「琴音さまを女学校に通わせ、人力車の車夫を雇っているのは、他ならぬご両親ではありませんか」
切れ長の瞳を鋭く光らせて正論を言う菊地に、琴音の語気も強まる。
「まあ! 我が家の事情もご存知ないのに、あんまりな言いようですわね。折角、よし江さんたちとカフェーを楽しんでいたのに、貴方の所為で台無しですわ。帰りましょう!」
席を立った琴音が、よし江と弥生をうながす。
「お待ちください! 菊地! なんてことを言うんだ、貴様は!」
慌てた石清水が菊地を叱責し、琴音を再び座らせようとする。何事か、とカフェーの客たちがざわめく。
「ご気分を害したなら謝りますから、どうか機嫌を直してください」
「いいえ、ここで失礼します。行きましょう」
琴音はきっぱりと石清水を振り切り、よし江と弥生を急き立てる。二人は困惑しながら立ち上がった。
琴音が財布を出したのを見て、石清水が焦った声を出す。
「あっ、ここのお代は私が……」
「結構です! 自分たちが飲食した分は、自分たちで払いますので」
にべもなく言い放った琴音は、微動だにせず突っ立ったままの菊地を横目で見たあと、二人を連れて【カフェー夢見草】を出た。
「琴音さん、いったいどうなさったの?」
おそるおそる、よし江たちが尋ねるが、琴音は真っ赤なリボンをゆらしながら、
「どうもしないわ。あの石清水という方、どうにも品がないんですもの。家が帝都の呉服屋だなんて、信用ならないわ。わたしたち、きっとからかわれたのよ」
と言い切って、早足で大通りを進んでいく。
「でも、菊地さまは素敵だったわね」
「そうね。まるで舞台役者のように美しいお顔だったわ。佇まいにどこか品格も感じられたし……」
きゃあきゃあ、と二人がはしゃいでいる声を背中で聞きながら、琴音は考えを巡らせていた。
あの石清水と菊地は身分を偽っているに違いない、と――。
例の〝黒い霧〟を見たわけではない。しかし、それが「嘘をついていない」証左にはならぬ。強烈な悪意を伴わなければ、琴音の瞳には映らないからだ。
何よりも、あの菊地という眉目秀麗な男が放っていた、懐かしい匂い――。
「あっ……」
かつて琴音が結びついていた河童や烏天狗など、あやかしの匂いと同じであったことに気づいてしまった。
短気を起こしてカフェーを出てしまったことを悔いたが、今さらどうしようもない。
(あの人と、もう少し話してみたかった)
それは琴音の本心だが、蓋をして断ち切ったはずの、あやかしとの縁がふたたび結ばれる時が来たのではないか……?
そうした予感に、琴音の胸はざわついた。
「そういえば、もうすぐハレー彗星が最接近しますね。旧都は大騒ぎでしたよ。皆さんは怖くありませんか?」
「まさか。ただの彗星ですもの。恐れたりはしませんわ」
琴音が首を振ると、よし江と弥生も口をそろえて、
「その通りですわ。〝不吉な箒星〟なんて出鱈目もいいところ」
「みんな迷信に振り回されすぎよ」
と一笑に付した。
「ほう、桜町のお嬢さまたちは先進的ですな」
愉快そうな石清水に、よし江が言う。
「あら、琴音さんは隣村にお住まいですのよ。ねっ?」
「ええ……」
「隣村って、蛇ノ目村ですか?」
琴音に尋ねる石清水が怖い顔になった。
「そうですが……ご存知なのですか?」
「いや、地図で見た程度ですがね」
かぶりを振った石清水の顔に、また軽薄な笑みが戻る。
「隣村といっても、ここまで遠いでしょう? こちらに寄宿舎があるのですか?」
「いえ、毎日、人力車で送り迎えしてもらっていますので」
琴音が言うと、石清水は大仰に目を見張った。
「そいつはまた……」
「涼風家はご立派な家柄ですもの。海藤家はご存知でしょう? あの海藤家の分家なのですわ」
なぜか弥生が得意げに胸をそらす。
「こいつは驚いた。ええ、ええ、海藤家は知っていますとも。なあ、菊地?」
にやりとした石清水が、菊地と顔を見合わせる。
「ええ、もちろんです。華族ですから」
即答した菊地が、琴音に向きなおる。
海藤家は桜町を拠点に、旧都でも幅広く事業を展開している。遠く離れた帝都にも、海藤家と取り引きしている会社はあるので、石清水たちが知っているのも不思議はない。
ただ、海藤家の名が出てから石清水と菊地に緊張が走った気がする。
(わたしには、どこまでも家柄が付きまとうのだわ)
自分を叱責している養父母の顔が思い浮かび、琴音は軽く頭をふった。
(「家」とは関係なしに、わたしを純粋に恋うてくださる方はいない……)
ふつふつと苛立ちが募ってきた琴音は、思わず養父母をなじった。
「立派な家柄なのは海藤家であって、涼風家は大したことありませんわ。父も母も、ハレー彗星を『凶星だ』といって怯えております。頭の古い、前時代的な『家』ですわ」
「……ご両親をそのように言ってはいけませんよ」
諫めるように口を開いたのは菊地だ。
「琴音さまを女学校に通わせ、人力車の車夫を雇っているのは、他ならぬご両親ではありませんか」
切れ長の瞳を鋭く光らせて正論を言う菊地に、琴音の語気も強まる。
「まあ! 我が家の事情もご存知ないのに、あんまりな言いようですわね。折角、よし江さんたちとカフェーを楽しんでいたのに、貴方の所為で台無しですわ。帰りましょう!」
席を立った琴音が、よし江と弥生をうながす。
「お待ちください! 菊地! なんてことを言うんだ、貴様は!」
慌てた石清水が菊地を叱責し、琴音を再び座らせようとする。何事か、とカフェーの客たちがざわめく。
「ご気分を害したなら謝りますから、どうか機嫌を直してください」
「いいえ、ここで失礼します。行きましょう」
琴音はきっぱりと石清水を振り切り、よし江と弥生を急き立てる。二人は困惑しながら立ち上がった。
琴音が財布を出したのを見て、石清水が焦った声を出す。
「あっ、ここのお代は私が……」
「結構です! 自分たちが飲食した分は、自分たちで払いますので」
にべもなく言い放った琴音は、微動だにせず突っ立ったままの菊地を横目で見たあと、二人を連れて【カフェー夢見草】を出た。
「琴音さん、いったいどうなさったの?」
おそるおそる、よし江たちが尋ねるが、琴音は真っ赤なリボンをゆらしながら、
「どうもしないわ。あの石清水という方、どうにも品がないんですもの。家が帝都の呉服屋だなんて、信用ならないわ。わたしたち、きっとからかわれたのよ」
と言い切って、早足で大通りを進んでいく。
「でも、菊地さまは素敵だったわね」
「そうね。まるで舞台役者のように美しいお顔だったわ。佇まいにどこか品格も感じられたし……」
きゃあきゃあ、と二人がはしゃいでいる声を背中で聞きながら、琴音は考えを巡らせていた。
あの石清水と菊地は身分を偽っているに違いない、と――。
例の〝黒い霧〟を見たわけではない。しかし、それが「嘘をついていない」証左にはならぬ。強烈な悪意を伴わなければ、琴音の瞳には映らないからだ。
何よりも、あの菊地という眉目秀麗な男が放っていた、懐かしい匂い――。
「あっ……」
かつて琴音が結びついていた河童や烏天狗など、あやかしの匂いと同じであったことに気づいてしまった。
短気を起こしてカフェーを出てしまったことを悔いたが、今さらどうしようもない。
(あの人と、もう少し話してみたかった)
それは琴音の本心だが、蓋をして断ち切ったはずの、あやかしとの縁がふたたび結ばれる時が来たのではないか……?
そうした予感に、琴音の胸はざわついた。

