「そういえば、今日は放課後に【新入生歓迎の会】の打ち合わせがあったんだわ。いつもより一時間遅く迎えにきてね、栄八さん」
「へい、わかりやした」
栄八は、琴音の嘘を疑うことなく受け入れた。いつものように女学校の校門で琴音を下ろしたあと、愛想なく人力車を引いていく。
(信じたみたいね)
琴音は、ほっと胸を撫でおろした。
今日は、よし江たちとカフェーに行く約束の木曜日だ。気持ちのいい快晴のため、余計に気分が浮き上がる。
まだか、まだかと落ち着かない心地で授業を受けて、ようやく放課後を迎えると――。
「大丈夫よ、琴音さん!」
先に校門に行ってもらったよし江と弥生が、校庭の木陰から様子をうかがっていた琴音を手招きする。栄八が琴音に言われたことを忘れる可能性もあるので、栄八が来ていないことを二人に確かめてもらったのだ。
安堵した琴音はサッと駆けだし、革製の編み上げブーツの足音を響かせた。琴音の躍動する姿に、下級生たちが見惚れている。
二人と合流した琴音は、蛇ノ目村では見せない笑顔を浮かべながら大通りに出た。
帰りは裏門から校舎に入り、何食わぬ顔で正門から出ていけばいい。
多くの人が行き交う大通りにあっても、三人並んで歩くと人目を引いた。【桜高女】の生徒は、この町の華である。すれ違う詰襟の男子学生や立派な身なりの紳士も、必ず振り向いた。
もっとも、大半が琴音の美貌に目を奪われたのであるが。
三人は小間物を置いている店に立ち寄り、いまどきの乙女らしく簪や手鏡などを見て回ったあと、勧商場の隣にあるお目当てのカフェーまでやってきた。真新しい【カフェー夢見草】という看板が目印だ。
「わあ、このお店ね」
まだまだ珍しい西洋風の店構えに、琴音の心が躍る。
「……入りましょうか」
逡巡したあと先陣を切って店内に入っていった弥生に、よし江と琴音も続く。
大人に伴われずにカフェーに入るなど、滅多にない三人であったから、ちょっとした冒険である。
「いらっしゃいませっ!」
すぐに溌剌とした女性の声が飛んだ。季節に合った桜色の着物の上に、白いエプロンをつけた女給だった。
「三名様ですね。こちらへどうぞ」
琴音たちとそう変わらない年齢であろう女給は、愛想よく四人掛けのテーブル席に案内してくれた。よし江と弥生が隣り合って座り、琴音は向かいに腰を下ろす。
中は広々としていて、八つほどのテーブル席のほか、十人は座れるカウンター席があったが、ほぼ席は埋まっている盛況ぶりだ。煙草の煙が充満し、濃厚な珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。
三人は、きょろきょろと店内を見回した。
壁には美しい西洋画が飾られ、豪奢な花瓶には見たこともない派手な花が挿されている。見たところ客も学生は琴音たちだけで、大人の世界が形成されていた。
品書きを見ると、珈琲やお酒のほか、パンケーキなどの洋菓子から、ライスカレーやカツレツまで提供しているらしい。
「珈琲一杯が十銭ですって!?」
お小遣いを充分貰っているよし江と弥生は平気そうだが、あまり貰っていない琴音は目玉が飛び出そうだった。
よし江と弥生は珈琲を、琴音は一番安いソーダ水を注文する。
程なくして運ばれてきたソーダ水を一口飲むと、さっぱりした炭酸が、やや汗ばむ陽気には心地いい。
店内の雰囲気に慣れてきた三人は、あれこれと話に花を咲かせた。
会話の中心になるのは、やはり琴音だ。毎日のようにもらっている恋文の話題、そして……千賀子との一件だ。
「偉かったわね、琴音さん」
「そうそう。胸がすくような思いだったわ」
よし江と弥生は褒めてくれるが、琴音は何と言っていいかわからない。結局、丹羽の所為で有耶無耶になってしまったのだ。
(頼りになる男の人なんて、そうそういないのだわ)
今回の件で丹羽に失望したばかりではない。乙女なら誰しもが憧れる、男との浪漫的な恋愛なんて所詮は絵空事だと、琴音はすっかり幻滅したのだった。
「それにしても……幾江さんが折檻されていることによく気づいたわね?」
おもむろによし江に訊かれて、琴音はぎくり、とした。
「そういえばそうね。琴音さん、いきなり走り出すんですもの。驚いたわ」
弥生も同調したので、琴音は必死に言い訳を絞りだす。
「えっと、それは……激しくなじるような声が聞こえたから……」
「そんな声、聞こえた?」
「いいえ、ちっとも気づかなかったわ」
よし江と弥生は顔を見合わせ、不思議そうにしている。
「わたし、とっても耳がいいのよ。蚊のまつ毛が落ちる音だって聞こえるんだもの」
「それって、たしか……清少納言の『枕草子』だったかしら」
「ああ、『大蔵卿ばかり耳とき人はなし』ね」
琴音が冗談に紛らわせて言うと、二人は笑って、それ以上は追及しなかった。
「……それにしても千賀子さんって酷いわね。どうしてかしら。琴音さんと大違い……」
「よし江さんったら」
弥生がたしなめると、よし江は慌てて口を押さえて、
「ごめんなさい。余計なこと言ったかしら」
と謝った。
「いいのよ」
琴音は首を振って、薄く笑った。
琴音と千賀子が異母姉妹であることは校内では周知の事実ながら、何となく触れてはいけない【禁句】になっていた。
「へい、わかりやした」
栄八は、琴音の嘘を疑うことなく受け入れた。いつものように女学校の校門で琴音を下ろしたあと、愛想なく人力車を引いていく。
(信じたみたいね)
琴音は、ほっと胸を撫でおろした。
今日は、よし江たちとカフェーに行く約束の木曜日だ。気持ちのいい快晴のため、余計に気分が浮き上がる。
まだか、まだかと落ち着かない心地で授業を受けて、ようやく放課後を迎えると――。
「大丈夫よ、琴音さん!」
先に校門に行ってもらったよし江と弥生が、校庭の木陰から様子をうかがっていた琴音を手招きする。栄八が琴音に言われたことを忘れる可能性もあるので、栄八が来ていないことを二人に確かめてもらったのだ。
安堵した琴音はサッと駆けだし、革製の編み上げブーツの足音を響かせた。琴音の躍動する姿に、下級生たちが見惚れている。
二人と合流した琴音は、蛇ノ目村では見せない笑顔を浮かべながら大通りに出た。
帰りは裏門から校舎に入り、何食わぬ顔で正門から出ていけばいい。
多くの人が行き交う大通りにあっても、三人並んで歩くと人目を引いた。【桜高女】の生徒は、この町の華である。すれ違う詰襟の男子学生や立派な身なりの紳士も、必ず振り向いた。
もっとも、大半が琴音の美貌に目を奪われたのであるが。
三人は小間物を置いている店に立ち寄り、いまどきの乙女らしく簪や手鏡などを見て回ったあと、勧商場の隣にあるお目当てのカフェーまでやってきた。真新しい【カフェー夢見草】という看板が目印だ。
「わあ、このお店ね」
まだまだ珍しい西洋風の店構えに、琴音の心が躍る。
「……入りましょうか」
逡巡したあと先陣を切って店内に入っていった弥生に、よし江と琴音も続く。
大人に伴われずにカフェーに入るなど、滅多にない三人であったから、ちょっとした冒険である。
「いらっしゃいませっ!」
すぐに溌剌とした女性の声が飛んだ。季節に合った桜色の着物の上に、白いエプロンをつけた女給だった。
「三名様ですね。こちらへどうぞ」
琴音たちとそう変わらない年齢であろう女給は、愛想よく四人掛けのテーブル席に案内してくれた。よし江と弥生が隣り合って座り、琴音は向かいに腰を下ろす。
中は広々としていて、八つほどのテーブル席のほか、十人は座れるカウンター席があったが、ほぼ席は埋まっている盛況ぶりだ。煙草の煙が充満し、濃厚な珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。
三人は、きょろきょろと店内を見回した。
壁には美しい西洋画が飾られ、豪奢な花瓶には見たこともない派手な花が挿されている。見たところ客も学生は琴音たちだけで、大人の世界が形成されていた。
品書きを見ると、珈琲やお酒のほか、パンケーキなどの洋菓子から、ライスカレーやカツレツまで提供しているらしい。
「珈琲一杯が十銭ですって!?」
お小遣いを充分貰っているよし江と弥生は平気そうだが、あまり貰っていない琴音は目玉が飛び出そうだった。
よし江と弥生は珈琲を、琴音は一番安いソーダ水を注文する。
程なくして運ばれてきたソーダ水を一口飲むと、さっぱりした炭酸が、やや汗ばむ陽気には心地いい。
店内の雰囲気に慣れてきた三人は、あれこれと話に花を咲かせた。
会話の中心になるのは、やはり琴音だ。毎日のようにもらっている恋文の話題、そして……千賀子との一件だ。
「偉かったわね、琴音さん」
「そうそう。胸がすくような思いだったわ」
よし江と弥生は褒めてくれるが、琴音は何と言っていいかわからない。結局、丹羽の所為で有耶無耶になってしまったのだ。
(頼りになる男の人なんて、そうそういないのだわ)
今回の件で丹羽に失望したばかりではない。乙女なら誰しもが憧れる、男との浪漫的な恋愛なんて所詮は絵空事だと、琴音はすっかり幻滅したのだった。
「それにしても……幾江さんが折檻されていることによく気づいたわね?」
おもむろによし江に訊かれて、琴音はぎくり、とした。
「そういえばそうね。琴音さん、いきなり走り出すんですもの。驚いたわ」
弥生も同調したので、琴音は必死に言い訳を絞りだす。
「えっと、それは……激しくなじるような声が聞こえたから……」
「そんな声、聞こえた?」
「いいえ、ちっとも気づかなかったわ」
よし江と弥生は顔を見合わせ、不思議そうにしている。
「わたし、とっても耳がいいのよ。蚊のまつ毛が落ちる音だって聞こえるんだもの」
「それって、たしか……清少納言の『枕草子』だったかしら」
「ああ、『大蔵卿ばかり耳とき人はなし』ね」
琴音が冗談に紛らわせて言うと、二人は笑って、それ以上は追及しなかった。
「……それにしても千賀子さんって酷いわね。どうしてかしら。琴音さんと大違い……」
「よし江さんったら」
弥生がたしなめると、よし江は慌てて口を押さえて、
「ごめんなさい。余計なこと言ったかしら」
と謝った。
「いいのよ」
琴音は首を振って、薄く笑った。
琴音と千賀子が異母姉妹であることは校内では周知の事実ながら、何となく触れてはいけない【禁句】になっていた。

