町の外れに大きな川があった。海へと続くその川は、水深も深く、さらに違法に放たれた肉食の外来魚も繁殖している危険な場所だ。当然遊泳禁止地域であり、釣り人もほとんどない。
 その川の外壁に、町中から集められた下水が川へと流れる排水口があった。出口付近は高さ一メートルほどしかなかったが、奥に向かえば直径四メートル以上になる場所もある。ネズミどころか、大蛇やワニだって軽々と住むことができそうな下水管だ。その町で流れ出た汚水の殆どが、そこを流れ、下水処理場で浄水され放流される。
 その排水口から少し離れた川岸の草むらに、酷く痩せた小さな子供が倒れていた。
 身体中傷だらけで血塗れのその子は、腫れて半分しか開けられない瞼を開き、オレンジ色に霞む世界を見つめていた。

 ここで死ぬのかな?
 子供はまるで他人事のように、自分の死を考える。そこに生への未練はない。だが目を閉じようとしたとき、遠くから人の声が聞こえて来た。

「たとえばうちでお前をミンチにして便所にでも流しちまえば、糞と一緒に下水処理されてこの川へ流れ着くって寸法さ、そうなりてえか?」
 夕刻の日差しがあたりをオレンジ色に染める中、金髪に近い薄茶色に髪を染めた、まだ若そうな男が凄む。脅された男は、そいつよりも二回りも大きな身体を震わせ、許してくださいと地面に頭を擦り付けていた。
「広い下水管ん中、あっちへふらふらこっちへズドーン、無料の水上コースターを楽しんだ後、綺麗に洗ってもらってここへ流される、快適な旅だろ? 憧れねえか?」
「勘弁してください、助けてください、もう二度とやりません、本当です、命だけは……」
「なんだ、コースターは嫌いか?」
「お願いです、勘弁してください!」
 ひたいを擦りつけたまま、ひたすらに許しを請う大柄な男を、金髪男は面白くなさそうに見下ろす。周りには、金髪の手下どもが同じような顔で睨みを効かせ、うろうろしていた。
 金髪はその中の一人、二メートルはあろうかという背の高い男に顎をしゃくり、背後へ下がる。するとすかさず別の男が折り畳みの携帯椅子をどうぞと広げた。金髪がそこに座ると、もう一人が細身の葉巻煙草を仰々しく手渡し、また別の一人が金のライターで火を点ける。金髪がそれを一吸いすると、それを合図のように、最初の背の高い男が動いた。
 ひれ伏して土下座している大柄な男の右耳すれすれの位置に、ドスンと音を立て、短刀が突き立てられる。ビクリと大きく跳ねた大柄な男は、子ネズミのように震え、ひいひいと空気の漏れるような声を上げた。
「ミンチは嫌か?」
 背の高い男に訊ねられた大柄な男は、必死に頷く。背の高い男は暫くそれを見つめ、ゆっくり立ち上がった。コンクリートの上には、突き立てられた短刀が残る。
 それを拾って振り回せば、この場にいる何人かは殺れるかもしれない。しかし男は情けなく土下座したまま、顔を伏せ続けていた。そこに天の声が降る。
「オーケー、わかった、じゃあこうしよう、お前、塚原と決闘しろ」
「え?」
 ひれ伏していた男は、驚いて顔を上げる。その拍子に金髪と目が合い、慌てて逸らせた。
 男のこめかみには冷や汗が滲み、背中もびっしょりだ。生きるか死ぬか、その選択を迫られ、思考はめまぐるしく回転する。
 塚原とは、そいつの目の前に立つ、背の高い男のことらしい。
 細身で異様に背が高い塚原は、金髪から指名されても顔色一つ変えず、濁った硝子玉のような目で、ひれ伏した男を見ていた。
「俺は強いモノが好きでね、塚原はうちで一番強い、そいつを倒せたら、お前にも価値があると認めようじゃねえか、塚原も、いいな?」
「はい」
 塚原は落ち着いた声で頷き、ほんの半歩だけ前に出た。それだけで空間が歪んだように、風さえ生温くなった。
 塚原の足が進むたび、その場の重力が増す。その異常空間で、ひれ伏した男の精神は擦り切れ、限界を越えたのだろう。手元に落ちていた短刀を握り締め、雄叫びを上げて立ち上がった。
 男は、どうせ殺されるなら一人でも道連れにと思ったのか、それともただ自棄になっただけか、施された短刀を先頭に、塚原へと突進した。だがその切っ先が届くより早く、塚原は少しだけ身体を捻ってそれをかわす。突き立てられなかった短刀が空を切り、男は勢いで前のめりに倒れ掛かった。塚原はそれを見逃さず、背後から男を蹴りつける。
「うわっ……わっ!」
 倒れた男の背に塚原の手が乗せられる。起き上がれなった男は、ひいひいと息を乱し、手足をバタ付かせた。
 脅しの言葉も、前置きもなく、男の背を右手で押さえたまま、塚原は空いた左手で男の首を捻る。グキッと鈍く嫌な音がして、男は絶命した。塚原は男が死んだことを掌で確認し、ゆっくりとその場を離れる。

 すべてが一瞬で、静か過ぎた。驚く間も、慄く間もない。金髪男も、面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「なんだ、もう終わりか? 塚原、お前本当にサービス精神がねえな」
「申し訳ありません」
 もっと楽しませろよと金髪がぼやきながら立ち上がる。塚原はすみませんと頭を下げ、畏まった。金髪もそう怒っているわけではないのだろう、まあいいさと頭を掻き、他の連中に、死体の始末を言いつける。
 男たちは行儀の良い返事をして、死んだ男の身体を持ち上げ、横を流れる川へと運んで行った。金髪男は、それを確かめるでもなく腕組みをしながら、川の下流を眺めていた。
「ったく、使えねえな」
「すみません」
「お前のことじゃねえよ、あいつだ」
「はい」
 あいつとは、たった今、始末した男のことだ。塚原は、新人の教育も自分の仕事なので、きちんと仕込めなかった自分の責任です、申し訳ありませんと、三度、頭を下げる。律儀に謝る塚原に、金髪男は苦笑した。
「お前ほんと、真面目だな」
「すみません」
「いちいち謝んじゃねえよ、ナンバー2が、謝ってばかりじゃカッコつかんだろうが」
「はい、すみません」
「ちっ」
 きりがねえなと金髪はぼやき、再びすみませんと言いかけた塚原も苦笑する。そのときだった。
「ボス!」
 死体の始末をしようとしていた男たちが声を上げる。金髪の顔に緊張が走り、塚原は何事だと連中のほうへ駆け寄る。そして暫くしてから金髪の下へ戻って来た。
「どうした?」
「それが……」

 死体の始末をしようと男たちは川岸へ向かった。そこで見つけたらしい。
 新貝のやり方は一風変わっていて、死体は鉄製の重い椅子に座った形で括りつけられる。それをそのまま川底へと放り込むと、あとは魚が全て食い尽くしてくれるという寸法だ。骨は残るが、こんな川の底を、わざわざ浚いに来る奴もいない。だから格好のゴミ捨て場だった。
 男たちは大きな身体を折り畳み、紐で縛ろうと鼻歌交じりに作業を始めた。しかしそこで、すぐそばの草むらになにかが動く気配がするのに気付いた。なんだろうと覗きこむと、、それは血塗れの小さな子供だった。そこで慌ててボスに報告に来たということらしい。

「子供?」
「はい」
「死んでんのか?」
「いえ、それが……」
「なんだ、生きてんのかよ」
「そのようです」

 それまで無表情だった塚原が眉を顰める様子を見て、金髪男も現場へ歩く。大きな川の、雑草が生い茂る水際に、半分、川に落ちかけた形で、子供は倒れていた。
 一見しただけでは、少年か少女かわからない、ボサボサで伸び放題の髪に、小さな手、それはまだ幼児と言ったほうが正しいような小さな子供だ。
 薄い半袖のシャツは擦り切れ、その隙間から覗く肌は治りかけた傷や、出来たばかりの傷、鬱血痕などで埋め尽くされていた。ひと目で暴行を受けたとわかる子供を見て、金髪も眉を顰める。
「おい、そいつをこっちへ連れて来い」
「はい」
「そっとだぞ」
「わかりました」
 男たちは命令されるまま、子供を河川敷の端にある排水口横のコンクリートまで運び、そっと下ろす。金髪は子供の身体を跨いで屈み、その頬をパンパンと叩いた。子供はノロノロと瞼を開く。
「ガキ、お前、名前はなんてんだ?」
「……晴《はる》」
「晴か……で、晴、誰にやられた?」
「ぉとうさん」

 晴の返事に、金髪は口を固く結んだ。そして暫くの沈黙の後、傷だらけの晴を睨んで、立ち上がる。
「いいか、晴、世の中弱肉強食だ、やられたくないならやり返せ、殺されたくなけりゃ殺せ、それしかお前の生きる道はねえぞ」
「え……?」
 聞いたことのない言葉を聞いたと、血塗れの子供、晴は目を見張る。金髪男は不愉快そうに口を尖らせながら話した。
「お前の身体は傷だらけだ、だが、顔と胸には目立つほどの痕はねえ、見上げたもんだ」
 瞼は腫れてるけどなと、金髪は皮肉に口の端を上げる。その笑みは、子供に対するものではなく、晴を一人前の男として扱っているような、妙な温かさを感じさせる。
「僕……」
 金髪男は戸惑う晴に一瞥し、男たちに向き直った。そして早く死体の始末をしてしまえと命令し、自分も一緒に晴の傍を離れる。塚原もそれにつき従った。

 男たちが死体の始末をつけている間も、晴はずっと排水口横にいて、大人たちのすることを見ていた。その視線を背中に感じ、塚原が小声で訪ねる。
「始末、しなくても?」
「かまわねえよ」
「しかし……」
「いいから放っとけ、あいつは喋らねえさ」
「信用すると?」
 殺害現場と死体の始末を見られた。子供とはいえ、このまま放っておくのはあまりに危険だ。本当に喋らない保障はない。もし誰かに洩らされたら終わる。殺しておくべきではないかと進言した。だが金髪男は譲らない。
「信用とかじゃねえよ、あいつは話さねえ」
「しかし!」
 いくら言っても納得出来ないらしい、塚原は危険ですとにじり寄る。根負けした金髪は、晴に振り返り、手招きをした。
 手酷く痛めつけられ、起き上がる事も困難だろうに、晴は呼ばれるまま立ち上がり、金髪男の前まで歩いてきた。ここで行かなければ男が廃る。小さな瞳がそう言っているようだ。
 金髪は、晴と同じ目線になるようにしゃがみ込み、真正面からその目を見据える。
「晴、お前の覚悟を見せてみな」
「覚悟……」
「ああ、生きる気があるなら、こいつを引け」
 金髪男はそう言って、晴にロープを渡す。ロープは大男の死体に十字に絡みつき、椅子と身体を結び付けようとしていた。後はそれを引き絞るだけだ。
「こいつはな、ろくに仕事もしないでうちの金で遊び呆けてた、で、そいつがバレたら全部女のせいにして自分だけ助かろうとしやがった、せこくてズルイ、ふてえ奴だ、だから始末した」
 ロープで縛りあげ、鉄製の椅子に括りつけて、川に沈める。それで終いだ。金髪はそう話した。晴は口を硬く結び、死体になった男と、金髪男を交互に見つめる。
 晴がどうするのか、塚原と部下たちは固唾をのんで見守る。三月の河川敷に、夕暮れ時の冷たい風が吹き、川面が揺れた。
 そして、時間にしたらほんの数秒ののち、晴はそのロープを引いた。
 極太のロープはキッチリと死体を縛り上げる。金髪男は完成した芸術品を見守るようにそれを見つめ、ロープを返そうとする晴にニコリと笑った。
「いい子だ、これでお前も共犯だ、わかるな?」
「うん」
 晴と金髪男は、二人にしかわからない暗号を交わすようにニヤリと笑い合った。それを見守る塚原は、ほんの少し眉尻を上げ、金髪男の横に立つ。
「これで文句ねえだろ?」
「はい」
 晴の面構えに、なにを感じたのか、塚原も金髪男に倣って頷いた。
 やがて死体を始末した男たちは、金髪と塚原に仔細を報告し、一同は晴を残してその場を去ろうとした。それを晴が呼び止める。

「待って、おじさん!」
「ぁあ?」
 呼び止められた金髪は、いかにも嫌そうに振り向き、晴をやぶ睨みする。
「誰がオジサンだ? てめえ」
「え、ぁ、じゃあ……」
「じゃあじゃねえよ! お前俺をいくつだと思ってんだ? 二十七だぞ、どう見てもお兄さんだろうが!」
「ごめんなさい……じゃあ、お兄さん」
「んだよ!」
「名前、なんていうの?」
 子供らしく首を傾げ、晴は名を訊ねた。その問いに、金髪男は意表を突かれたような顔で沈黙する。
 名乗るのか、名乗らないのか……だが、まさか名乗る筈がない、そんな周りの思惑とは裏腹に、金髪男は口を開いた。
「新貝だ、新貝幸人」
「新貝さん? 僕は晴、石崎晴《いしざき はる》」
「苗字なんざどうでもいいさ、晴、それがお前の名だ、そうだろ?」
「うん」
「うんじゃねえ、ハイだ」
「はい!」
「よし、いい子だな、俺のことはフォックスとでも呼んでくれ」
「フォックス?」
「ああ、FOX、狐って意味さ」
「狐……」

 小さく呟く晴に、新貝は一枚のカードを渡した。白い紙に赤、黄、緑の鮮やかな縁取りがあり、左下には、手のひらのような形の葉っぱの絵が描いてある。南国の香り漂う名刺だ。
 「サウス商会 代表取締役社長 新貝幸人」そう書かれてある。
 漢字が難しく、晴にはまだ読めないだろう。しかし、読めるか読めないかが問題なのではない。その名刺《カード》を渡したということが重要なのだ。それは、新貝が晴を認めたということになる。配下の男たちも、それには驚きを隠せなかった。
 だが新貝は連中の戸惑いに構わず、不敵に口の端を上げる。
「金が欲しくなったら来な、話は通しとく」
「え……?」
「這い上がれるか、上がれないか、そいつはてめえ次第だ、その気があるなら来い」
 戸惑う晴の頭を軽く撫で、新貝は立ち上がった。

 歩き出す新貝に、塚原がなにやら小声で囁く。それに頷き、少し笑いながら、金髪男、新貝は消えた。
 取り残された晴は、置いてけぼりをくらったような空虚な瞳で、呆然と空を見上げる。いつの間にか日は沈み、たった今までオレンジ色だった世界は、薄墨色に変わっていた。

 ***

「あなた、誰?」

 暫く呆然としていた晴は、突然聞えて来た声に慌てて顔を上げる。どこから現れたのか、そこには初めて見る、美しい少女がいた。
 すっかり闇に包まれた河川敷には冷たい風が吹き、少女の長い髪を弄る。彼女の後ろには、大き過ぎる満月が見えた。
 大きな月は薄赤く光り、今にも地上へ落ちて来そうだ。その光に照らしだされた少女は、とてもこの世の生き物とは思えなかった。
「そこでなにしてるの?」
 少女は、その美貌に似合わない薄汚れたボロボロのマントを纏い、用心深く、一定の距離を保って話しかけてきた。素っ気無い言い草が、逆に彼女の美しさを際立たせる。人知れず、生唾を飲み込みたくなるような異常な美貌だ。十二歳の晴は、その感情がなんなのかわからずに、ただ慄いた。
「怪我、してるの?」
 少女は、慄き、縮こまる晴のほうへ手を伸ばした。そして傷の一つ一つを確認し、立ち上がる。
「いらっしゃい、なにもないけど、手当くらい出来るわ」
 凛とした瞳に見惚れた晴は、すぐには動くことが出来なかった。それを彼女は、警戒しているからと思ったのか、少し和らいだ表情でぎこちなく笑い、手を差し伸べる。
「私の名は琥珀《こはく》、心配しないで、少なくとも、あなたの敵じゃないから」
 琥珀と名乗った少女は、後ろにある排水口へと歩いた。暫く雨もなかったので、流れ出す水は少ない。彼女はその中へ入って行く。
 河川敷に設置されたその排水口は、幅二メートル、高さ一メートルほどで、常闇へ四角い口を開けている。冥府への入り口だ。
 ついて行ったら何かが変わる。二度と戻れなくなる。咄嗟にそう思ったが、手の中にある新貝の名刺が背中を押した。

――行け、行ってそいつを手に入れろ。