その日は重田と遅くまで話し合った。あの写真は本当にゼノなのか、あそこに現れたのは本当にゼノなのか、だが、だどしたらあの子はナニモノなのだ。五年以上も歳をとらず、一瞬にして消え去る少年。それではまるでSFかオカルトだ、有り得ない。もっと現実的に考えろ。だがしかし……。 何度突き詰めても話はそこで止まり、堂々巡りにしかならない。それでも繰り返し議論し、気が付けば深夜になっていた。

「ただいま……」

 帰宅した草薙は、部屋にゼノがいないことを確認し、溜息をついた。
 テーブルの上に置いてある丸い目覚まし時計は午前零時を少し過ぎている。いつものことだが、こんな時間まで彼はどこで何をしているのだろう?
 追及をはじめると、思い浮かぶのは昼間あの貸家に現れた姿だ。形はたしかに子供なのに、まるで数十年も生きてきたような静寂の目をしていた。いつも見ている顔なのに、よく知っている子なのに、その異様に気圧され、声をかけるどころか、身動きすらできなかった。
 あの空気は子供の持てるものではない。
 あれは……まるで……。
 その先に思い及んだとき、草薙はゾッとした。

 あのとき、追いかけて飛び出した道にゼノの姿はなかった。いかに小柄な子供とはいえ、時間的にも、地形的にも、人ひとりが消えてしまうのは納得できない。まるで白昼夢だ。
 重田にも、あれは二人の先入観が見せた幻ではないかと話したぐらいだ。しかしまさかそれもあり得ないだろう。
 自分はこれまで普通の世界で真っ当に生きてきた。妙なドラッグもやったことがないので、幻覚をみるという経験もない。だからそれがどういうものなのかは想像することしか出来ないが、そもそも幻覚とは、あんなにはっきりと見えるモノなのか? 真昼間、あの姿はあまりに鮮明だった。
 あれは幻なんかじゃない。本物だ。だがそれでは消えたことはどう説明する?
 どうしてもそこで行き詰まり、結論はでない。

 ゼノは、なにか隠している。あの子には大きな秘密がある。それだけは事実だ。しかしわからないことを考えていても仕方がない。零時を回ったし、ゼノももうすぐ戻ってくるだろう。きっと腹を空かせている。食事の支度をしておこうと、草薙は腕まくりをした。
 遅い(遅すぎる)夕食のメニューはクリームシチューだ。子供に人気の品だし、誰でも作れる。
 だがやがて帰って来たゼノは、張り切って作ったシチューを見て、どうせならカレーが良かったと子供っぽく呟いた。せっかく作ったのにと力が抜けたが、なぜかちょっと嬉しかった。我儘《わがまま》を言うのは気を許しているからに違いないと思うからだ。

「そういうなら食うな」
「僕が食べなけりゃ誰が食べるんですか、やせ我慢しないで、早くよこしなさい」
「やせ我慢はどっちだよ、まったく……」
 ぶつぶつと文句を言いながらもテーブルに皿を並べ、二人で向かい合って食べた。ゼノは相変わらず無口で、余計なことはほとんど話さないが、初日よりはずっとしゃべるようになった。時々、ちょっと子供とは思えない鋭い意見を言うので、そのたびドキリとさせられるが、それも楽しい。

「犯人はこの男だ、間違いないよ」
「え、なんで?」
 食べながら何気なくつけた深夜ニュースで、若い女性の殺人事件が報道されていた。
 被害者は二十八歳の女性、職業はホステスだ。ニュースの映像では知人が撮ったという女性の自宅が映し出され、映像は室内と玄関先、ドア口付近まで流された。一人暮らしの女性の部屋というには少し乱雑ではあったが、これといって目立つ不審点はない。
 近隣の住人の証言では、彼女はストーカー被害にあっていたらしいという話で、それを裏付けるように、ドアスコープには、目張りがしてあった。だがストーカーらしき男の姿を見た者はいない。
 女性は実家を遠く離れて暮らしており、交友関係も少ない。ストーカー被害届も出していなかったらしい。捜査はいきなり暗礁に乗り上げているとアナウンサーが淡々と原稿を読み上げた。
 一人暮らしの女性を狙うなんて卑劣極まりまない。いったいどこの誰がこんな酷いことをと草薙は憤った。
 だがそこで被害者の恋人という男のインタビューが流されたとき、それを見たゼノが、こいつが犯人だと言ったのだ。
「なんで……?」
「なんで? 犯人でなければ、なんでこんな早朝、彼女の家に行ったんです? 午前五時ですよ、早すぎます」
「いやでも、前の日にデートの約束をしてたのに、彼女が来なかったから、様子を見に行っただけだって……」
「それもそいつが言ってるだけでしょう? 二人が付き合ってるという証拠は? 裏は取ったんですか?」
「それは、わからないけど……」
「取ってないはずだ、もしくは取れてない、犯人はこの男ですよ、第一発見者を装う、よくある手だ」
「なんでそう思う?」
「簡単ですよ、この女に男なんかいません、それだけです」
「え……?」
 断言するゼノには、なにか確信があるようだった。しかし事件は今初めて報道されたばかりだ、なぜそう言い切れるのかわからない。だがなぜと問い返すと、一瞬だけ、顔を顰めたゼノは、ただの勘ですよと答えた。
「待てよ、そんなはずないだろ、なにか根拠があって言ってるんじゃないのか? 知ってるなら教えてくれ」
「知りません」
「ゼノ!」
 しつこく問い詰めると、ゼノは仕方なさそうに画面を指さした。
「さっき、彼女の部屋の写真が映ったでしょ、そのとき、机の上に雑誌が置いてあった、それと、カード」
「え、そうだっけ?」
「そうです、で、その雑誌がマイノリティものなんですよ」
「マイノリティ?」
 意味がわからず、草薙は首を傾げる。するとゼノは指先を輪っかになるように繋いでみせ、少し低い声で、「サッフィー」と言った。
「さ? なに、それ?」
「やだな、物書きのクセに、察してくださいよ」
「関係あんのかよ」
「ありますよ、もっと調べてください」
「ごめん、お手上げだ、教えてくれないか」
 自分で調べろと、ゼノは口を閉ざした。ここまで来てそれはないだろうと、草薙も突っ込んでいく。するとゼノはやれやれと首を竦め、ソファに寄りかかった。テーブルの上からカップをとって、コーヒーを飲む仕草など、大人びて憎らしいくらいだ。

「雑誌の名前です、サッフィー、レズビアン専用の出会い系雑誌だ」
「え?」
「それに、カードも置いてあった、あれ、レズビアンバーの会員証です」
「ウソだろ……」
「本当です、二丁目にある、ラレルって店だ、行ってみればいい、きっと常連ですよ、数あるレズビアンバーの中でもラレルはミックスがないことが売りでね、つまり彼女に男なんかいないってことです」
「ミックスがないって?」
「そこからですか?」
「すみません、そこからです」
 教えてくれと頼むと、ゼノは、なんでこんなことまで説明しなきゃならないんだと、大げさに首を振り、呆れ顔で説明した。
「スタッフはもちろん、客も従業員も全て女性、男性は入れないってことですよ」
「え、普通はそうじゃないのかい?」
「違いますよ、ゲイバーだって女性客を拒まないでしょ、ハッテン場だと普段は男性オンリーだけど、それでも女人禁制ってわけでもない、異性を完全にシャットアウトするってのは、客の半分を切ることになるんだし、店側としてはリスクもあるんです、だから普通はレズバーでも男性客を拒みはしないし、普段は入れなくても、特別な日を設けて入店出来るようにしてたりする……けど、ラレルにはそれがないんですよ、完全女性オンリー、それだけガチってことです」
「へえ、すごいな……なんでそんなこと知ってるんだ」
「ちょっと、知り合いがいるものでね」
「知り合いって……」
 どういう知り合いなのだと言いかけると、ゼノは、たちまち不機嫌になった。
「契約違反です、こちらのことは詮索しない、そういう約束でしたよね?」
「ぁ、まあ、それは……」
「ならあとは自分で確かめるか考えるかしてください、くれぐれも、店へ行って、僕から聞いたなんて言わないでくださいよ? 営業妨害だ」
 少し低くなった声でそう釘を刺し、ゼノはリビングから立ち去ろうとした。まさかこのまま出て行く気じゃないだろうなと焦り、草薙も立ち上がる。だが、どこへ行くんだと問いかける草薙に、ゼノは寝所《ねどこ》と答えた。
 寝所ということは、眠るということだろう。それならいいと、草薙は再び座り込む。

「途中まで上手くいってたのにな……」
 にこやかに食事をし、たいした意味のない会話を楽しく交わし、穏やかに過ごした。ニュースの話をするまでは機嫌も良かった。
 テレビなどつけなければよかったと思いながら、草薙は、眠りについたろうゼノの部屋の扉を見つめた。

 なぜゼノがそんな如何わしい店の中の話を知っているのか、なぜあんな大人のような口を利くのか、問い質し、言わなければ調べるべきだと思いつつ、それを躊躇った。
 その謎に迫れば、あの子は消える。そんな気がして、怖かったのかもしれない。

 ***

「こんな時間にどこ行くのよ」

「別に……ちょっと川を見に行こうかなって」

 前の晩、草薙と軽い言い争いをした。それが引っかかっていたのかもしれない。浅い眠りのあとの目覚めはだるく、意識がしゃんとしない。だから川を見ようと思って昼前に外に出た。天気は明るい花曇り、散歩するにはちょうどいい。

「また川? あんた川好きねえ」

 なにがいいのとフィーンは呟き、道端の小石を蹴る。オウガは先を行く二人の後ろから、黙ってついて来る。

 ゼノは、川を眺めるのが好きだった。水の流れを見ていると、自分の中の汚い部分まで流され、清められていくような気がする。
「なにそれ、アンタうんこなの? アタシは流されるなんてごめんだわ」
「酷いな、でも僕らが初めて会ったのも、川辺だったじゃない」
「まあね」
 フィーンと出会った地、そして、初めて「彼」と言葉を交わした地。それだけでも、「川」はゼノにとって、意味のある場所になっていた。
 人が水辺を好む理由など、だいたいそんなものだ。なにか面白くないことがあれば、だいたい川に向かう。
 だから今も、験直《げんなお》しに川へ行こうと考えた。だがそれを話すと、フィーンは件《くだん》の失言の上げ足をとる。

「そういえばあんた、なんであの間抜けにあんなこと言っちゃったわけ?」
「たしかにな、ただでさえ疑われてるんだ、余計なことを話して妙に勘繰られても困る」
 それまで黙って二人の後について来ていたオウガもしゃべり過ぎだと釘を刺す。
「あれくらい……どうせバレやしない」
 本当はゼノ自身も、余計なことを言ったと思っていた。しかしなぜか素直に頷けず、つい投げやりに答えた。すると二人は、かわるがわる、そういう問題ではないと文句を並べる。
「草薙がラレルへ行ったらどうなる、そこからこっちの正体がバレるぞ」
「まさか、行かないよ、もし行ったとしても、ラレルは男子禁制だ、入れてもらえないし、話は出来ないんだ」
「わかんないわよ、ああいうのに限って意外に大胆なんだから、なんか掴むかもしれないでしょ」
「万が一ということもある、店には釘を刺したほうがいい」
「そんなことしたらかえって怪しいよ」
「面倒くさいな、今のうちにブチ殺しとこうか」
「殺らないまでも、なにか対策が必要なんじゃないか?」
「そこまでしなくても……」
 フィーンとオウガは放ってはおけないと詰め寄る。話を大きくしたくないゼノは、返事に詰まった……と、そこで丁度よく、携帯が鳴る。
「待って、電話だ」
「そんなのほっときなさいよ、こっちの話のが大事だわ」
「わかってるよ、でもちょっと待って」
 ゼノは、フィーンを宥めながら、通話ボタンを押した。

────俺だ、今日のぶんは済んだか?

 かけてきたのは新貝だった。仕事は済んだのかと訊ねている。だがいつもは確認などしない。それに、時間的に言っても催促が早すぎる。
「ずいぶん早い催促ですね、まだ昼過ぎたばかりじゃないですか、これからですよ」
「なんだ、さっさとやれよ、それが済んだらちっと話したいことがあんだよ」
「話したいこと?」。
 新貝は何かあれば直接やって来る。それが電話予約するなど珍し過ぎる。今は塒《ねぐら》が他人の家なので、そこに易々と訪ねて行けないからかもしれないが、それにしても早すぎる。これはなにかあったとみるべきだろう。
「ちょっと! あんたひとの話、聞いてんの? (電話)切りなさいよ!」
 話の腰を折られたことで、フィーンはテンションを上げる。彼女の機嫌を損ねると手が付けられなくなる。ゼノは胸の内だけで溜息をついた。
「誰からだ?」
 イラつくフィーンを背後に押しやり、今度はオウガが出てきた。
 自分たちは闇の住人だ。連絡先を知っている人間は限られる。かけてくる者はさらに少ない。ゼノは新貝だと答えた。
「新貝? フォックスか? こんな時間に?」
「ああ」

 新貝はいつもノーアポだ。時刻はだいたい夜中過ぎか明け方、こんな真昼間は珍しい。
「あいつが電話してくるなんて何事だ? おかしいじゃないか」
「なんか、会いたいんだって、どうする?」
「必要ないわ、用なんてないし」
「いや、会おう、なにか嫌な予感がする」
「必要ないって言ってんでしょ! あいつは何考えてるかわかんない男よ、話すことなんてないわ!」
「よせ、フォックスは敵じゃない」
「敵よ! 信用出来ないわ」
「俺たちが捕まれば奴だって困るんだ、裏切りはしない」
「は? 何言ってんの? アイツは大人よ、汚らしい男よ、信じたらバカを見るのはこっちなの!」
 話してみるべきだというオウガの言葉に、フィーンは嫌悪感剥き出しの顔で叫んだ。彼女にしてみれば、大人、まして男は、全員敵に思えるのだろう。ゼノはまだ子供に近いので免除だが、大人の男はとことん嫌う。
 オウガは十八だが、背が高く、体格がいいので、ぱっと見たところ、成人に見える。おかげで、彼の寡黙で断定的な性格とも相まってか、フィーンとの相性はあまり良くなかった。
 自分の容姿がフィーンのお気に召さないことは、オウガもわかっていたが、直せと言っても、無理だ。苛々としながら文句を返す。
「俺たちにはあの男が入用《いりよう》なんだ、少しくらい我慢したらどうだ」
「うるさいわね、あんたの意見なんか聞いてないわ! アタシが嫌だって言ってんのよ」
「フィーン、やめなよ」
「なにが! 冗談じゃないわ、なんでオウガに指図されなきなんないの? ああだこうだボス気取り、エラそうに!」
「悪かったな! そんなに嫌なら話さなきゃいいだろ!」
 ゼノが自分ではなく、オウガの味方をしたと思ったのだろう、フィーンはヒステリックに怒鳴る。それにつられ、オウガも怒鳴りかえした。これではめちゃくちゃだ。
「もういいよ、わかった、フォックスとは話さない、携帯も捨てる、僕らだけでやろう」
「何言ってんだ! よせ!」
 携帯を捨てると言うと、オウガは慌て、ゼノとフィーンを押しのけた。
「かせ、俺が出る、話したくないならお前たちは引っ込んでろ!」
 ゼノから取り上げた携帯を片手に、オウガは、暫く躊躇い、深呼吸してから、電話に出た。

「わかった、ではマンホールで会おう」

「懐かしいね、いいぜ、じゃ時間は今から二時間後だ、それまでに仕事は済ませて来いよ?」
「努力はしてみる、期待はしないでくれ」
「努力ってのは目に見えねえもんなんだよ、結果が全てさ、結果を持って来いよ?」
「後で会おう」
「ああ、期待してるぜ」

 二言三言、短い会話で要点だけ話し、電話を切った。
 待ち合わせ場所に例の川辺を指定したのは、ゼノの影響かもしれない。
 その川に、オウガ個人としての思い出はないが、そこはやはり意味のある地に思えた。彼と出会い、自分たちの運命が変わった場所だ。
「聞いた通りだ、二時間で済ませるぞ」
「無茶だ」
「なに勝手に請け負ってんの、バカなの?」
 オウガの宣言に二人は意義を唱える。しかしオウガも譲る気はなかった。携帯の向こうからは、ただならぬ空気を感じた。きちんと会って話すべきだ。
 ゼノもフィーンも子供過ぎる、大人に近いと言っていいのは自分だけだ。冷静に全体を把握できるのも自分だけだろう。だからここは非情でも横暴でもいい、二人を護るためにも、自分がその責を負わなければならない。

「別にお前にやれとは言ってない、仕事は俺がやる、お前たちは休んでろ、特にフィーン」
「なによ!」
「お前は出てくるな、話が拗れる」
「ふざけんな! あんたの指図なんか受けないって言ってんでしょ!」
「やめなって、フィーン」
「ゼノ、お前もだ、少し休んでろ」
 引っ込めと言うと、ゼノは当惑した顔をした。言い方が悪かったかなとは思ったが、そこで訂正してもわざとらしい。だいいち、何といえば二人を傷つけずに済むのかが思いつかない。仕方なく黙った。ゼノも、フィーンも口を閉ざす。
 二人は無言で闇に消え、残されたオウガも、同じく無言で歩き出した。

 オウガが、その日予定していた三件の取り立てを済ませ、待ち合わせの川辺へ向かったのは、十七時過ぎだった。一時間半ほどの遅刻だ。
 それでも新貝はいるだろうと軽く考えながら、河原へと降りていく。
 川は水深がかなり深く、流れも速い。噂では肉食の外来魚もいるとかで、遊泳禁止、釣りも禁止だ。嘗《かつ》てフィーンが住んでいた排水溝も、最近ではすっかり汚れ、水質も悪化した。行政はあたりを危険区域として立ち入り禁止の看板を立てている。
 だが世の中、何事も建前だけだ。看板はあれど、管理者はいない。金の入ったクラッチバッグを抱え、オウガは看板の横をすり抜けた。

 暫く天気が続いたので堤防土手の土は乾いていて、歩くたび土埃が舞う。あたりは茶色く霞み、景色が見づらい。だが、音はよく聞こえた。
 下のほうで、誰か複数人が、怒鳴り合っている。いや、争っている。
 大勢で一人を嬲っているようだ。
 嫌な予感に足を速める。背の高い雑草が邪魔でよく見えないが、土手を降り切ったところではっきりと視認できた。数名の強面に捕らわれ、嬲られているのは新貝だ。

 散々に殴られ、顔中血だらけになった新貝を、数名の男が取り押さえ、さらに痛めつけようと、腹に蹴りを入れている。立膝をつくように抱えられた新貝は、まだかろうじて意識があるのか、自分を殴る男たちを、ぼんやり見ていた。口元には僅かな笑みが湛えられ、不気味さが漂う。得体の知れない恐怖にかられたように、男たちはムキになって新貝を攻めていた。
 経緯はわからないが、新貝は一応身内側だ。フィーンに言わせれば、信用出来ない男だが、無視も出来ない。ここは恩を売る意味でも、助けておくべきだろうと考え、オウガは懐《ふところ》から縁引き針を取り出した。

 足音もなく走りながら針を固く握り直し、一番手前にいる男の背に突き立てる。咄嗟のことで避けきれなかった男は、ほとんど一撃で倒れた。オウガの針は男の心臓を掠めて肺を貫き、男が血反吐を吐く。
「テメッ何もんだ!」
 驚いた男の仲間たちが口々に叫び、何人かがやっちまえと飛び掛かって来る。そいつらを殴り、一人、また一人と針を刺しながら、オウガは舌打ちをした。
 人数が多過ぎる。
 自分の武器は、一対一の不意打ちを想定した小さなものだ。こうした大きな立ち回りには向いていない。フィーンのナイフを使えばいくらかマシだろうが、彼女は出したくない。それに、フィーンなら連中を倒したあと、新貝のことも殺しそうだ。それも困る。仕方なく、孤軍奮闘した。

 長い時間をかけ、そこにいた男たち、総勢六名を倒したオウガは、自らも傷つき、ふらふらになりながら、排水溝横のコンクリートに座り込んでいる新貝の元へと歩いた。
 力を使い果たしたのだろう、足が縺れて上手く歩けない。そのまま倒れこむと、新貝は傷だらけの顔でくすりと笑った。
「どうした、へろへろじゃないか」
「新貝さんだってへろへろでしょうに」
「俺か? 俺は休んでただけさ、こんなの別に、痛くも痒くもねえな」
「ずいぶんな強がりだ」
「ははっ」
 自分が助けに来なければ、今頃殺されてたかもしれない。なぜこんなことになったのだ、奴らは何者だと訊ねると、新貝は血だらけの指で懐を探り、煙草を掴みながら答えた。
「筒井組の連中だろ、ガキのくせにやくざの縄張りに手、出すなとさ」
「新貝さんをガキ呼ばわりですか」
「奴らから見れば、俺もお前も同じさ、目障りな余所者、生意気なガキなんだろ」
「新貝さん、いくつでしたっけ?」
「歳なんか聞くな、気が滅入るだろ、だいたいお前、来んのが遅えんだよ、お前が来ると思って、奴らをここに誘い込んだっつうのに、いっこうに来やしねえ……死んだらどうすんだよ」
「結果、間に合ったんだから良しとしましょうよ」
「間に合ってねえよ、色男が台無しだ、慰謝料取んぞ、こら」
「勘弁してくださいよ」
 コンクリートに寝転んだまま、軽口を叩いていたオウガは、そこですっと半身を起こした。呼び出しの真意が聞きたい。

「で、今日はなんの用です? 話とは?」
 勢いきって訊ねると、新貝は右手を差し出した。まずは上りが先、ということらしい。渋々と金を渡す。
 先を聞きたがるオウガをからかうように、新貝はゆっくり札を数えた。オウガはじりじりしながら待ち続ける。彼は札を三度も数えてから良し、と小さく呟き、そこから三枚、オウガへ渡す。
「ネコババはしてねえな、感心、感心」
「そんなことしませんよ」
「そうだな、子供は素直が一番だ」
「で?」
 彼とは、子供の頃に出会っているせいか、いつまで経っても子供扱いだなと息を吐きながら、オウガは再び訊ねる。新貝は咥えた煙草に火を点け、深く吸い込んでから、煙りと一緒に芝居じみた科白《せりふ》を吐き出した。
「気をつけろ、警察が動いてる」
「え……?」
「今日、うちに探りに来た、連中はそれほど間抜けじゃねえ、今みたいなやり方を続けてたら、何れ捕まるぞ」
「なにか聞かれたんですか?」
「連中、俺か俺の部下が連続殺人犯だと思ってるらしい、アリバイを聞かれた」
「それは……」
 不味いですねと言いかけるオウガを新貝は睨む。機嫌が悪そうだ。
「最近派手過ぎんだよ、なに気取ってんだ、署名なんか残すな、闇から闇、それが続ける秘訣だぞ」
 しかしそれではフィーンが納得しない。
 彼女はすべての人間を憎んでいる。今は署名を残し、自分たちの存在を主張することで、かろうじて押さえている状態だ。それをやめたら見境をなくすだろう。それは困る。
 答えを躊躇っていると、新貝はオウガの後頭部をぺシンと叩いた。そしてよろめく肩を抱き寄せながら、耳元に唇を寄せる。
「お前の護りたいもんはなんだ? よく考えろ、このままじゃ破滅だぞ」
「え?」
 小声で囁かれる言葉に思わず顔を上げる。新貝は真剣な顔をしていた。
「お前、オウガだろ? 話せてよかったよ」
「なんで?」
「見くびんなよ、何年付き合ってると思う」
 長い付き合いにはなるが、新貝と直接話したのは実は初めてだった。いつも電話越しか会うときはゼノを介して話す。話せて良かったと言われ、オウガは言葉を失くした。すると新貝は一瞬ニヤリと笑いかけ、すぐ真顔に戻った。彼の視線はすでに遥か彼方だ。
「銃、渡したろ、必要ならそれも使え、足は付かねえ、さっきも、もう少しでやられるとこだったじゃねえか、もっと考えて動くんだよ、いいな?」
 そういう新貝さんはと聞き返すと、俺は考えてると不愛想に返された。しかしあのリンチシーンを見る限り、それもあまり信用は出来ない。彼も見境のない子供だ。
 だが、それもいらぬ心配なのだろう、新貝はもう帰れと言いながら、探りを入れてきている刑事の名前の書かれた紙と写真を、オウガに渡した。
「何度も言わせるな、しばらく自重するんだ」
「しかし……」
「捕まれば全てが終わりだぞ、自重しろ、いいな?」
 独断でわかったと返事は出来ない。だが、新貝の言っていることは正しいと、オウガは理解した。
「考えておきます」
「おう、考えろ、よくよく考えて動け」
「はい、そうしますよ」
 すみませんでしたと頭を下げ、帰りかけたとき、ふと気になってオウガは振り向く。

「新貝さんは? 大丈夫なんですか?」
「別に、敵だらけなのはいつものことだ、子供は早く帰んな、後始末はしとく」

 燃え尽きた煙草を排水溝に投げ込んだ新貝の横顔は、沈みかけた夕日に紛れ、よく見えなかった。