目の前にはほとんど肉塊となりかけた男が転がっている。もう抵抗することも反論することも出来なくなったようだ。動かない得物は面白くない。とどめを刺して終わりにしよう。そう考え、最後の一撃を加えようとしたそのとき、自分の口から意図しない叫び声が放たれた。
「その人を殺さないで!」
 誰あろう、ゼノだ。完全に消えたと思っていたのに、まだ残っていたらしい。
「なんだ、死人が他人の命乞いか? ずいぶん優しいな、もう恨みは忘れたのか?」
「もともと恨みなんてなかった、僕は、ただ、お父さんに謝って欲しかっただけなんだ」
「おいおい、ここまで来て言うか? 今更いい子になるなよ」
「いい子になりたいわけじゃない、でもその人は殺させない」
「殺させない? 言うねえ、だがどうやって止める? 身体もないくせに」
「こうやってだよ」
 己の口からそう出た途端、右手がぶるぶると震えた。ナイフを持つ手の力が抜け、その代わりにゆるゆると自分のほうへと刃先を切り替えていく。分厚い金属の先が胴の中心に当たった。
「やめろ」
「じゃあ、あなたがやめてください」
 口では、死にたくなければその男をころすことをあきらめろと言いながら、右手には力が入ってくる。切っ先が食い込んできて、皮膚の表面に血の筋が入った。
 ヤバイな。
 咄嗟の判断で左が動いた。
「俺に命令すんなっての、三十年早えよ!」
 左手が風を切り、右手首めがけて手刀を落とす。ズシリと重い一撃で、右手と右手に握られていたナイフが胴から離れた。そのまま身体を低くして、力の抜けた右手からナイフを奪い取る。
 はた目にはただ一人で転がりまわっているように見えたろう。そのまま身を翻し、もう一度、今度こそはと男にとどめを刺しに走った。
 こいつがいるから計画が狂うんだ。
 こいつが現れなければ俺たちは上手くやってた。
 こいつさえ消えれば……。
 大きなナイフを振り上げ、きっちり心臓をめがけて振り下ろす。もう遊びはなしだ。
「死んじまえ、クソ野郎!」
 景気よく振り上げた左手は、本人のやる気に反してそこからまったく動かなくなった。いや、左手だけではない。全身が、コンクリート漬けにされたように身動きが出来ない。息さえ止まりそうだ。
「チッ」
 これは本格的にヤバイ。正直ゼノにここまでの力があるとは思わなかった。子供の言いなりになるというのも癪だが、このままでは不味い。
 イラつく頭の中をいったん整理し、僅かに肩を反らせた。
「わかった、もうやめろ、俺もやめる、それでいいんだろ?」
────ありがとう。
 やめると言うと、ゼノの声は急に消えた。ただ胸の内側に響いて来るのみだ。どうやら表面に居座り続けるほどの力はないようだ。かなり無茶をしたらしいと気づきながらも、それには触れなかった。身体の内側で蹲り、息を乱す小さな魂を感じながら、テーブルの上に置いてある携帯端末を取る。この部屋の住人、草薙のモノだ。それを繰り、見知ったナンバーを押した。
 わざと非表示でかけた。それを怪しんだのか、相手は十数回のコールでやっと出た。

────誰だ?
 誰でもいいではないか、通報者が誰であるかより、告げられる事実のほうが重大ではないのか? 頭の中で溜息をつく。
「ここに、血塗れの男がいます、全身数か所刺されて虫の息だ」
────え? 誰が倒れてるって? お前、誰だ?
「誰でもよろしい、ごちゃごちゃ言ってる暇ないですよ、早くしないと死んじゃいます」
────待て! そこはどこだ、住所を……っ。
 携帯端末の向こうではまだ怒鳴り声がしていたが、かまわず会話を終了させた。通話状態はそのままにしておくので、居場所は割れるだろう。間に合うかどうかはわからないが、とりあえず警察は来る。そのときこの男が死体になっているかまだ生きているかは運次第、そこまで面倒見られないし、そこまでお人よしでもない。
「やれやれだな」
 ふうと息を吐き、左手を左胸に当てた。
「ゼノ、聞こえてるな? 返事はしなくていい、それどこじゃねえだろ」
 彼は身体の奥深く、深淵といえる底辺から這い出してきたのだ。それだけでもかなり消耗しているはずなのに、そこからさらに他人《ひと》の行動の邪魔をした。その消耗は計り知れない。おそらく消え入る寸前だ。返事などまず出来まい。

 多人数で一つの身体を使っている場合、通常は表に出ている者に主導権がある……というより、絶対的君主だ。他の者にその行動を抑えることはまず出来ない。表現者(表に出ている人間)を止めるためにはそいつを張り倒して自分が表現者になるしかない。内側から働きかけることも可能だろうが、入れ替わらずに行動を止めたり身体の一部でも支配することは難しい。不可能のはずだ。
 とはいえ、こんな事例はそうそうないし、それを検証したものもいない。本当のところがどうなのかわかり様もないが、消耗するのは事実だろう。
「動けるようになったら河原に来い、少し話そうじゃねえか」
 蹲っている子供に一瞬だけ思いを馳せ、新貝幸人はそこから出て行った。

 ***

 慈雨川の上流に大きな下水の開口部がある。その近く、開口部から六メーター程度のどこか、そこを調べてくれ。それが矢島からの第一の指示だった。無茶な話だ。
 下水の開口部、所謂排水溝は、幅二メートル、高さも一メートルはあろうという大きなもので、子供ならわりと楽に出入りできる。普段は水もちょろちょろと流れ出る程度でそれほど邪魔にはならない。だからここを根城にするというのは考えられなくはない。しかし、矢島が言ったのはそこではなく、そこから六メーターほど離れたどこか、だ。単純に考えても半径六メーターの円内で、やみくもに何かを探さなければならないことになる。
 何か、とは、文字通り「なにか」であり、それが何なのかはわからない。目的のない探し物など不毛、見つかるわけがない。だが矢島は大真面目だった。そこには必ず何かがあるはずだ。重田は半分眉唾だと思いながらも排水溝の周りを這いつくばるようにして、その何かを探した。
 それに、まったく当てがないわけでもない。探し物は「ゼノ」もしくはその痕跡だ。
 痕跡とはなにか、それを考えると気が塞ぐが私情はあと、自分はそれを見つけなければならない。
 慈雨川の河川敷は長い間手入れをする者もなく、荒れ放題だった。大人の背の高さほどもある雑草が生い茂り、地面すら見えない。その下には空き缶空き瓶はもとより、犬猫か人のモノか、熟した糞が散らばり蠅が飛び回る。紙屑、金屑、硝子屑に茶色く薄汚れた布切れ、それに、腐ったなにか……生き物の死体か捨てられた食べ物が腐ったモノか、異臭を放ちぐずぐずになったモノ。それらを一つ一つ丁寧に拾い上げつまみ出し目を凝らした。文字通り這いつくばって進む。
 一日目はなにも出なかった。二日目も収穫ゼロ。三日目ともなるとさすがに全面探しつくした感がある。疲れ果て気力も削がれ、ふと地面に転がった。
 泥塗れ、糞塗れになって這いずり続けているうち、何をしているのかわからなくなった。少し頭痛がして頭の中に霞がかかる。視界は濁り、ちょうど擦り硝子ごしに見る景色のようだ。
 疲れたな。
 これだけ探してなにも出てこないんだ、なにもないのかもしれない。
 もともと根拠もない話なのだし、無駄骨だったかもしれない。
 いや、無駄ではないな、少なくとも、ここには何もないということがわかったんだ。それだけでも収穫だ。となればいつまで拘っていても仕方がない。ここらで踏ん切りつけて他を当たろう。のんびりすればするだけ真相が遠退く。
 とにかく抜け出そう。
 なにかを忘れている。そんな後ろ髪引かれる河原の捜索を諦めようと決め、転がった姿勢のままごろりと寝返りをうった。そうして何気なく伸ばした手の先に、細く干からびた何かが当たる。
 なんだろう?
 枯れた木の枝か、それともプラスティックごみか……沁みついた刑事魂か、探求心か、手に触れた細い何かを掴み、目の前までもっていく。
「…………」
 最初は視界と意識がはっきりしなくてよくわからなかった。ぼんやり見続けるうちにまず意識がはっきりしてくる。視界はまだ悪い。疲れのせいかピントがぶれてしまい、よく見えない。だが覚醒してきた意識が、それを見ろ、はっきり見て判別しろと訴える。首の付け根辺りに脂汗が流れ、手が震えた。緊張が奔る。
 手にしているモノがなんなのか確かめようと何度も瞬きをし、数分後か、ようやくピントが合ってくる。細く脆く干乾びたそれは、薄汚れてはいるが、元は白っぽいかったのだろうとなんとなくわかる。表面は素が立ちスカスカで軽い。だがどこかズシリとした重みを感じた。

 これは、骨だ。
 それも子供の……。

 そう気づいた重田は小さな骨を握ったまま跳ね起きた。根拠などない、刑事の勘というには退職してから間も開き過ぎている。だが直感した。これは骨だ、まだ小さな子供の骨だ。
 小骨のあったあたりを用心深く探ると、擦り切れて半分土に埋もれた布切れが見つかった。だいぶ痛んでいる。ほとんどボロ屑だ。辛うじて、シャツの襟部分だろうと思われる切れ端で、ようやくそれが衣服だとわかる。そこから慎重に掌を這わせると、襟部分の少し先に、細かい骨らしきものが散らばっている。注意して見なければそれが骨だとはわからないほど粉々に砕けた魂の欠片だ。
 痛ましい思いを胸に、重田はあたりを探り続けた。きっと野犬や野ネズミが食い荒らしたのだろう。長い年月に肉片は食べつくされ、或いは腐りはて、骨は砕けている。もう少し時間が経てば、そこに人がいたという痕跡さえ。消え失せていた。
 いやすでに消え失せている。気付けたのは奇跡。そうとしか言えないくらい。それはもう人の形を残してはいなかった。
 なんでこんなところに……いや、そうではない、これはここにあったのだ。矢島はこれを探していた。排水溝から半径六メーターあたりにあるなにか。そのなにかとは、この骨、この遺体のことだったのだ。誰の骨なのか、それは考えるまでもなく重田の頭の中に浮かんでいた。
 これはゼノ……石崎晴だ。
 石崎晴は虐待児童だったと聞く。存在していることさえ隠された闇の子供だ。当然食べ物も満足に与えられなかったろう。だから身体も小さく、骨も細くて脆い。
 僅か数年で朽ち果て消え失せるほどにひ弱な少年。こんなところでたった一人で死を迎えたとき、彼はなにを考えたのだろう。生まれて生きて僅か数年、生きる意味も幸せも何も知らず、ただ一人……世を儚み恨んでも仕方がないのかもしれない。
 ついそんなことを考えたが、途中で慌てて否定した。そう言っては犯罪を認めることになる。同情すべき点はあるが人殺しは人殺し。彼らは何の関係もない人々を多く手にかけてきた。矢島の後輩刑事三浦や、親切にした草薙にまで牙を向けた。不憫だとは思うが許せるものではない。
 やりきれなさに首を振りながら、重田は立ち上がった。細かい骨や遺留品を集めるために、なにか入れ物がいる。それとピンセット。
 急げ。


 ***


「幸人さん! いないんですか? 幸人さん!」

 遠くで塚原の声がする。新貝は羅梵《らぼん》川の河川敷で背の高い野草に埋もれるように屈み気配を消していた。普段は寡黙で口を利くことさえ稀な塚原の切羽詰まった声が胸に迫る。
 心配されているのはわかっている。塚原が自分に対し、主従というだけでない、特別な思いを持っていることも知っていた。だから余計に早く消えろと祈った。

 警察と取引し釈放された新貝だが、それですべてが上手く治まったわけではない。シャバに出て待っていたのは、ただ追い立てられられるだけの日々だった。
 もともと敵の多かったサウス商会は新貝の逮捕後、急激に風向きが変わった。ボスの留守中に組織を乗っ取ろうとする者、潰そうとする者が闊歩し、会社は早々に破綻した。仕入れが滞り、支払いが滞り、潰れたのだ。
 社員、所謂手下どもも散り散りに消え、残ったのは新貝が会社を興す前から付き合いのある数名のみだった。その数名も今はいない。サウス商会と縄張りを共にする筒井組のせいだ。
 常日頃、どうにかして新貝率いるサウス商会を排除したいと目論んでいた筒井組は、新貝逮捕を好機と決め、一気に攻めてきた。チンピラ下っ端を使い、新貝を慕い残っていた面々を襲撃させたのだ。その執念深さは凄まじく、新貝が釈放されたころには事務所には誰も残っていなかった。
 そんな中、新貝の帰還を待ち続ていたのが塚原だ。自身も銃刀法違反と公務執行妨害でで逮捕されていたが、肝心の銃が精巧なモデルガンだったため、罪状は公務執行妨害のみとなり、ほどなく釈放されていた。
 逮捕直前まで塚原の持っていた銃は間違いなく本物だった。新貝がすり替えたらしい。おそらく刑事たちの前で引き倒したときだ。それを悟った塚原は、釈放後、身を潜め、隠れ、ひたすらに新貝の帰りを待っていた。
 昔も今も、自分は新貝に助けられて護られてばかりいる。子供のころならいざ知らず、こんな大人になってまで助けられるなんて情けない。今度こそは、自分があの人を護らなければとただひたすら待った。
 新貝が戻ればこんな事態は覆せる。今はとにかく生き延び、新貝の帰りを待つ。そして戻ったあかつきには二人で筒井組を叩き潰すのだ。筒井組が潰されれば、消えて行った仲間たちも戻るだろう。もし戻らなくても大きな問題ではない。もう一度始めれば済むだけの話だ。新貝ならそれが出来る。そして自分は全力でそのサポートをする。
 その思いだけを胸に彼は新貝を待ち続け、今も追っている。
 それを知った新貝は事務所にも戻らず、行方をくらませた。今は特に情勢が厳しいときだ。自分について来ても一分の利もない。誰も来てほしくない。
 それに、自分はこれから大事な決着をつけなければならない。人に見られているとやり難い。これまでなら挨拶なしに抜けることは許さなかったが、今回はすべて免除してやる。だから早く遠くへ行っちまえと願った。
 塚原の捜索は思ったより長く続いたが、それもやがて遠退いて行く。自分を呼ぶ声が聞こえなくなり、人の気配が消え去ると、新貝はようやくほっと息をついた。やれやれだ。
「……ったく、しつけえんだよ」
 隠れるのも欺くのも嫌いではないが、さすがにこれだけ続くと飽きる。そろそろ派手に暴れたい。だがその前にまずはひと眠りだ。
 誰もいなくなった河原で、新貝は暫しの眠りについた。