「いい加減、喋ったらどうなんだ、三浦を殺したのは、お前なんだろ新貝?」
「違います」
「惚けても無駄だぞ、現場付近でお前を見たという目撃証言もあるんだ」
「付近にはいましたよ、けれど、やったのは私じゃない、ちゃんと調べてください」
「ふざけるな、お前がやったんだよ、三浦になにか嗅ぎ付けられて、不味いと思って殺したんだろ」
「違います……だいたい証拠はあるんですか? ないなら不当逮捕ですよ」 
 おとなしく取調室の椅子に座った新貝は、ピンと背筋を伸ばし、真っすぐ前を見て話した。証拠など出るわけがない。それはそう確信している顔だ。
 新貝の取り調べは宮田《みやた》という中堅刑事が当たっていた。宮田は所謂準キャリア組で、叩き上げの矢島と違い、出世も易いはずの男だ。しかし元来の不愛想と不器用が災いし、三十六歳の今も警部補どまり、今回取り調べが宮田に任されたのも、そんな彼にどうにかして手柄を立てさせ、出世させようという上からの計らいでもあった。もちろん宮田自身もそれを充分わかっている。だから取り調べには容赦がなかった。
 新貝の逮捕状が出たのは、事件当日、三浦刑事の遺体が発見される数分前、新貝が現場付近に佇んでいたという目撃証言があったからだ。
 そのとき新貝は、何をするでもなく、ただ三浦の遺体があった、まさにその場所をじっと見ていたという。それはそこで三浦を待ち伏せしていたからだというのが、捜査本部の見解だ。
 もちろん理由はそれだけではない。
 三浦の遺体は数か所を刺されていて、出血量も多かった。歩道のアスファルトは血に塗れ、べとべとだ。だがそのおかげで、犯人と思しき人物の靴型がとれた。
 靴型は限定品の輸入物で、このあたりでは、新貝以外に所有者がいない。念のため、彼の留守中に事務所に入り込んだ矢島が、彼の所有するその靴を押収してきた結果、血液反応が出た。それが三浦のものかどうかは、まだ検査結果が出ていないのでわからないが、FOX事件に行き詰まりを感じていた本部は、それを物的証拠として提出、そして、事件を早期解決したい上層部の思惑と相まって、逮捕状が出た……というのが、ここまでのあらましだ。
 矢島も最初は新貝が怪しいと思っていた。だから再三足を運んだし、靴型も調べた。だがこれまでFOXは、署名以外の手がかりを一切残していない。三浦殺しの犯人と、FOXが同一だと仮定した場合、なぜ靴型を残すなどというへまを、今更したのかがわからない。 
 同一犯ではないと仮定するなら、新貝が犯人というのもあり得るのだろうが、彼の性格を考えれば、それも怪しい。
 新貝は、「怪しまれたから殺した」そんな単純な理由で殺しをするような間抜けではない。彼はもっと狡猾で冷静だ。よほどのことがなければ、馬脚を現すことはないだろう。
 それが矢島の新貝犯人説を疑問視する理由だったが、本部には理解されなかった。

「三浦が殺された時刻、お前はそこにいた、現場にはお前の靴型も残ってる、言い逃れはできないぞ!」
「靴型で証拠とはお笑いだ、私を逮捕するなら、せめて凶器くらいは出してくださいよ」
「それはこれからじっくりこれから吐かせるんだよ、屁理屈で逃げられると思うなよ?」
「どちらが屁理屈でしょう? これは不当逮捕ですよ、弁護士を呼んでください」
「調子に乗るな!」
 新貝の態度に馬鹿にされたと感じたのだろう、宮田が掴みかかる。そしてそのまま殴りつけるかと思われたその時、取調室のドアが開いた。
「なんだ?」
 殴るのをやめ、入って来た部下に訊ねると、部下の刑事は小声で宮田に耳打ちをした。そこで宮田は己の勝ちを確信したように、にやりと笑う。
「新貝、お前の靴から検出された血液が、三浦刑事のものと一致したそうだ」
「……そうですか」
「もう言い逃れは出来ないぞ、さあ、その理由をじっくり喋ってもらおうか」
 宮田は、得意になってにじり寄る。だがそれを見返す新貝の目は、あくまでも冷たかった。

 *

 新貝の靴を押収し、そこから血液反応が出たことで彼を逮捕することができた。だがその功労者である矢島は、FOX事件の捜査から外された。新貝逮捕の直接理由が、矢島の相棒、三浦正也殺害事件だったことだ。相棒を殺した男の取り調べとなれば、精神的にも辛いだろうというのが表向きの理由だ。
 そして、FOX事件から離れることを命じられた矢島は、夜の路上で女性を刺し、傷害の現行犯で逮捕された男の取り調べを担当することになった。それは配慮というより、実質、左遷だ。
 矢島は捜査本部にも知らせず、ほとんど独断で捜査をしていた。三浦刑事が殺されたのも、言い換えれば矢島のせいだ。本来なら懲罰ものだが、三浦殺しの容疑者、新貝逮捕のための証拠を揃えたのも矢島だ。その功労者を懲罰とすれば、新貝の逮捕にもケチがつく。そこで苦肉の策として。別件の取り調べをさせることにしたというのが真相だ。

 そんな成り行きから矢島が取り調べることになった傷害事件発覚の理由は、善意の第三者からの密告という胡散臭いものだった。その電話を受けたのは矢島ではないが、女の声で密告があったから、お前、数人連れて行って来いと上司から命じられ、仕方なく出向いたのだ。
 現場に急行してみて驚いた。血塗れのナイフを握った犯人の来ている服が、カーキ色のフード付きロングコートだったからだ。

──赤い髪の女子高生とフードの男。

 それはウサ子が言い残したFOX事件の犯人像と一致する。
 捜査本部としては、FOX事件の犯人は新貝ということで決まっているが、そうでない場合もあり得なくはない。
 矢島は興味深く、その男を見つめた。
「お前は佐藤順子さんを刺し、重傷を負わせた件で現行犯逮捕されている、現行犯の意味はわかるか? やったのはお前と確定してるってことだ、言い逃れることは出来ないぞ」
 そう告げると、フードの男は僅かに視線を上げた。男の顔、左半面には、変色し、引き攣れた火傷の痕があった。その目は灰色にくすみ、生気がない。
 歳はいくつなのだろう? 若くも見えるし、三十過ぎにも見える。想像もつかなかった。
「まず、名前を言いなさい」
 話しかけても男は答えようとしない。その濁った目はどこも見ていないように見える。
「黙秘権か? 名前くらいいいだろう? なんなら通り名でもいいぞ、名前がないと不自由じゃないか」
 なにも話さない男に、矢島は熱心に話しかけた。これが保身からくる黙秘なのだとすれば、むっとするところだが、男から、そういう雰囲気は感じられない。だがなにか隠してる。なにを隠しているのか、そもそも、善意の通報者とは何者だ? そいつが真犯人でないという保証はない。
 逮捕したとき、この男は、通報者は女かと聞いた。男には、その心当たりがあるのだ。もしかしたら、それが犯人なのではないのか? ウサ子の言った、赤い髪の女子高生、それがそいつなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、腕時計を見ると、昼を回っていた。その途端、腹が鳴り、空腹を思い出す。
「お前、なにが好きだ?」
「え?」
 なにを聞かれたのかわからず、男が目線を上げる。それは思いがけず子供っぽい表情だった。もしかしたら思ったよりずっと若いのかもしれないと考えながら、矢島はニコリと笑いかけた。
「昼飯だよ、俺がおごる、なんでも好きなもんを言ってみな」
 おごると言うと、男は目を丸くし、いいのかと聞いてきた。意外に礼儀正しそうだ。いいから好きなものを言えと話した。男はあなたと同じでいいと答える。そこで近くのファーストフード店から、牛丼の並盛をデリバリーして出した。

 取調室の中で、男と向かい合って牛丼を食べる。男は物珍しそうにスチロールの容器を眺め、おずおずと箸をとった。それでもなかなか蓋を開けようとしない。食べていいんだぞと話すと、男は顔をあげ、矢島の目を見た。そこで初めてちゃんと顔を合わせて思った。こいつは意外に若い、ことによると未成年かもしれない。
 薄汚い風体と、異様な火傷のせいで、恐ろし気に見えるが、よく見れば、まだ幼さを残している。
「美味いか?」
 食べながら尋ねると、男は素直に頷いた。いい感じだ。
「そうか、よかった」
 そのまま、ほとんど顔も上げずに牛丼を食べ、容器がからになったところで、事務方に言って、お茶も持ってこさせる。そしてそれを啜りながらもう一度訊ねた。
「名前は?」
「オウガ」
 今度は驚くほど素直に答えた。食い物で懐柔出来るとは、安い男だ、やはり若いのかと首を捻る。
「おうが? 字は?」
「好きに書いてくれ、考えたことはない」
「それじゃ困る」
「じゃあカタカナで」
「カタカナね……」
 それが本名でないことは明らかだが、たぶんよく使っている通り名なのだろう。調書には供述どおり、カタカナで記入した。
「年齢は? 職業は、あるのかな?」
 態度から、男がまだ若いと想像した矢島は、補導してきた学生に聞くように訊ねた。するとオウガは急に態度を軟化させ、淡々と答え始める。
「昔は、新聞配達をしていた、今は無職だ」
「歳は?」
「……十五」
「えっ?」
「ぁ? え、ああ、すまない、えっと……二十だ」
 さすがに十五には見えないぞと突っ込もうとすると、オウガは慌てて顔を上げ、忘れていたと訂正をした。自分の年齢を忘れるなどありえないだろうと思うが、嘘を言っているわけでもなさそうだ。その顔を見れば、わかる。彼は本当に、実年齢の実感がないのだ。
「あそこでなにをしてた?」
「彼女の、あとをつけてた」
「つけてた、そして刺した? なぜだ、佐藤さんに恨みでもあったのか?」
「恨みはない、あれは手違いだ」
「手違い?」
「ああ、つけていたのはあの女性ではない、あの店にいた別の女だ」
「なんだって? 誰だ?」
「三ツ橋、杏奈」
「三ツ橋杏奈……?」
 オウガの供述に、矢島は驚愕した。三ツ橋杏奈は、ウサ子が独自に調べ上げ、FOXが次に狙うかもしれない人間としてリストアップしていた者の一人だった。

 *

「そこに私がいたからでしょうね」

 三浦正也の遺体近くに新貝のものと同じ靴の靴跡があり、新貝の靴から三浦の血液痕が採取された。それはなぜだと訊ねると、新貝はまるで他人事のようにそう答えた。その余裕はどこからくるのだと宮田は不機嫌になる。
「じゃあなぜそこにいた? そこには三浦の死体があったはずだ、犯人じゃないなら通報するだろ、だがお前は逃げてる、それはお前が犯人だからだ、そうだろ」
「なぜ……そうですね、月が、見れるかと思ったんですよ」
「月?」
「ええ、赤い、大きな月がね、見られそうだと思ったんです、知ってます? 赤い月は不吉の象徴なんですよ、そこから悪魔が飛び出してくるなんて言われてます、まあ、迷信でしょうけどね」
「ふざけるな! お前は三浦を殺したんだ、だからそこにお前の靴型があった、そうだろうが!」
 のらくらと話す新貝の言い草にむっとした宮田は、机を叩いて身を乗り出す。それでも新貝は、椅子に座ったまま、真正面を見据え、微動だにしなかった。
「私はやってません、どうしても私を犯人にしたいなら、証拠を持って来てください、言っときますが、靴型だけでは弱いですよ、そんなもので起訴は出来ないはずだ」
 白々と話す新貝に挑発され、ついカッとした宮田がその胸倉を掴む。それでも新貝は、表情を変えなかった。
「殴りますか? 殴ったら暴力行為があったと訴えますよ」
「くっ……」
 平然と自分を見返す新貝の顔を睨み、宮田は歯軋りをした。だがさすがに手は出せない。ぶるぶると震えるほど力の入った手でシャツが破れるほど握りしめるのが限度だった。放り投げるように胸倉を離し、再び席に着く。
「犯人はお前だ、新貝《フォックス》」
「違います」
「そうやって惚けてれば逃げられると思うのか? そうはさせないからな、必ず吐かせてやる!」
「あなた、言葉遣いに気を付けたほうがいいですね、取り調べ中、刑事に脅迫を受けたと訴えられますよ?」
「なんだと!」
「ほらほら、また、ダメですね、もう少し落ち着きましょうよ」
「ふざけんな!」
 再三の挑発に堪えきれなくなった宮田は、発作的に立ち上がり、新貝の胸元を押した。勢いで新貝は椅子ごと倒れ、床に転がる。そして、頭でも打ったのか、そのまま動かなくなった。
「おい……」
 宮田もさすがに慌て、大丈夫かと声をかけようとした。と、新貝はパッと目を開ける。その目が異様に光って見えた。

「あんた、ウザイね……」
 小声で囁かれる言葉に、再びカッときた。どうしても許せない。見逃せない。宮田は感情の赴くまま、新貝を蹴りつけ、踏みつける。その嫌悪と憎悪は、ゴキブリを叩き潰すときに感じるそれに似ていた。

「なにやってるんですか! やめてください!」
 取り調べに立ち会っていた警察官が慌てて止めに入る。それでもやめようとしない宮田に必死に食い下がりながら、警官は内線でほかの刑事を呼んだ。
「なんだ、どうした?」
「おい、やめろ!」
 狭い取調室に、ばらばらと刑事たちが集まってくる。
「離せ! 離せっ」
「やめろ!」
 同僚たちに押さえつけられ、宮田はようやく我に返った。だが時すでに遅しだ。このままでは冷静な取り調べが出来ないと判断され、部屋から連れ出されてしまった。

「大丈夫か、新貝?」
 止めに来た刑事の一人が心配そうに手を差し伸べる。だが新貝は、その手を払い除け、激しく首を振った。
「邪魔するな!」
「え……?」
「おとなしくしとけ! 殺すゾ!」
 新貝は、口の中でなにかブツブツと唱えながら、時折声を荒げて怒鳴った。細身の体はビクビクと震え、大きく跳ねる。剥き出しになった腕やこめかみには、太く青黒い血管が浮き出し、人間の皮を被った怪物が、その皮をぶち破り、飛び出だそうとしているかのようだ。
 刑事たちは、これがFOXの本性か? まさか自分らはここで殺されるのかと、臆して後ずさる。新貝はまるで縫い留められてでもいるように、床に座り込んだまま、一人、喚き続けた。
「新貝! おい……どうした」
 やがて勇気ある一人が、俯いたまま怒鳴り散らす新貝に近づいていく。そしてその顔を覗き込もうとした瞬間だ、新貝はすっと立ち上がった。
「お……」
 いきなり動き出した新貝に恐れをなし、刑事たちは再び、蜘蛛の子を散らすように跳ね退く。すると新貝は、慄く刑事たちを一瞥し、何事もなかったかのように、椅子へ腰かけた。倒れた時に切れたのか、額と頬から血が滲んでいる。

「失礼、どうぞ、続きを」
「血が……」
 我に返った刑事が、思わず手を伸ばす。新貝はそれを断り、自分のハンカチで滲んでいた血を拭った。
「たいしたことないですよ、それより取り調べを続けましょう」
「え、いやしかし」
「かまいませんよ、掠り傷だ、続きをどうぞ」
 ニコリと笑う新貝に、刑事は言葉を失う。異様に捻じ曲がった空気が漂い、部屋の中が薄暗くなったような気さえした。

 *

「なぜ、三ツ橋杏奈さんをつけてたんだ? 殺すつもりだったのか?」
 そこまで素直に答えていたので、矢島もつい油断して、ストレートに訊ねた。しかしことが核心に触れてくると、オウガも喋らなくなった。口を固く結び、俯くだけだ。もう少し遠回しに聞けば話したかもしれないなと考えながら、少しだけ話を逸らす。
「あのナイフは、お前のか?」
「あのないふ……」
 ナイフの話をすると、オウガは再び顔を上げた。しかし、そうだとも、違うとも言わない。もしかしたら違うのかもしれないと感じ、矢島はカマをかけてみることにした。
「お前が持ってたやつだ、あれはお前のか?」
「いや……違う」
「では誰のだ?」
 凶器はあのナイフでいい、被害者の傷と形状が一致している。凶器からオウガの指紋もでた。しかしその位置がおかしい。指紋のついている箇所通りに持ったとすると、刃先は本人のほうに向いており、彼は人を刺すことができない。厳密には、そういう持ち方で人を刺すことも不可能ではないが、やり難い。それにもう一つ、角度と深さが合わない。
 佐藤順子はかなりの至近距離から刺されているが、そのわりに傷は浅い。専門家に言わせれば犯人は小柄で非力な女性……というのが監察医からの報告だ。
 それに、被害者、佐藤順子は刺されるとき、犯人の声を聞いている。

──あら残念、人違いだわ。

 それは完全に、女の声だったという。そのあとも、傷つき苦しむ自分を嘲笑う女の笑い声を聞いている。それが犯人だとすると、オウガは冤罪、その女に陥れられたとみるのが正解だろう。
 しかし、オウガは凶器を持っていたし、指紋も出ている。そこがわからない点だ。

 指紋とは、一人ひとり違うものだ。同じ指紋を持つモノはいない。だから犯罪捜査での決定的証拠となるわけだが、科学的、医学的に言って、絶対に同一の指紋がない、とは言い切れないというのが、実は定説だった。
 確率的に言えば、世界人口より分母が大きくなるので、あり得ないとされてはいるが、それは数字の上だけの話であり、実際、百万分の一であろうと、千億分の一であろうと、ゼロではない。そのありえないほど小さな確率で、ぶち当たることだってあるかもしれない。
 それに、科学捜査に関してだけ言えば、別人の指紋が同一と判断される確率は十万分の一だそうだ。
 日本の人口は一億二千万、単純に考えれば、千二百人に一人の確率で、誤判定が出る計算になる。そうなると、だいぶ違ってくる。あり得ない話ではないと思えてくる。
 それに、やはりどう考えても、監察医の見解と犯人像が合わない。佐藤順子を刺した犯人の背丈は、百四十センチからせいぜい百五十と言われた。しかしオウガの身長は、百七十五ほどもある。体力測定をしたわけではないので、正確とは言えないが、オウガは成人男性だ、それほど非力でもないだろう。この体格であの傷をつけるには、そうとう力を抜き、加減していたことになる。そうなると、殺意があったとは認定し難い。
 オウガは犯人ではない。
 では誰だ?
 そう考えるとき、パッと頭に浮かぶのは、やはりウサ子の言い残したあの言葉だ。
 
──赤い髪の女子高生。

 つまり、やったのは赤い髪の女。そして女はオウガに罪を被せ、自分だけ逃げた。そういうことだ。
 たぶんオウガは彼女に義理でもあるか、もしくは惚れているのかもしれない。それで庇っているのだ。
 矢島はそう判断した。

「お前は佐藤順子を刺してない、そうだな?」
 思い切ってそう切り出すと、オウガは暫し瞠目し、やがて静かに頷いた。
「やったのは、俺じゃない」

 *

「三浦刑事の死はたいへん痛ましい出来事だと思います、まだお若いのに可哀想だ、しかしやったのは私ではない、彼の無念を晴らす意味でも、こんな無意味な取り調べはすぐやめて、真犯人を探すべきだと思いますよ」
 涼しい顔で、何の感情も込めず、新貝はそう言った。
 数時間に及ぶ取り調べでも、新貝は髪の毛ひとすじ乱さない。最初にこの取調室に入って来た時と同じく、姿勢よく、礼儀正しく、椅子に腰かけたまま、真正面を見据えて話した。どういう精神構造をもってすれば、そんなことが可能なのか、見当もつかない。
「犯人はお前だ、新貝」 
「いいえ、違います」
「お前だ!」
「違います」
 表情線が麻痺したような動かない面は、見ているほうが不安になってくる。じっとりと水気を含んだ空気に息苦しさを覚えた刑事は、薄黒い塊が胸を塞いでいくのを意識しながら聞き返した。
「じゃあ聞くが、お前はあそこでなにをしてたんだ?」
「さっきも言いましたよ、月を見ていたんです」
「殺人現場でか? 足元で人が死んでいるってのに、お前はそこで月を見てたと言う気か?」
「さあ、どうでしょう、月に見惚れてて、そこに死体があるのに気づかなかったのかもしれませんね」
「ふざけるな!」
 怒鳴ったら負けだと思いながらも、つい声が大きくなる。無性に苛々して、新貝の顔が歪んで見えた。
「いい加減にしろよ? 素直に話せないなら、話せるようにしてやってもいいんだからな!」
 相手は残虐非道の殺人鬼だ。多少手荒にしても許されるはずだ。殴れ、少し痛い目にあわせてやれば素直になるに決まっている。頭の中でそう囁く声がする。その声を聞くまいと、首を振りながら、刑事は捜査資料を広げた。
「一連の事件現場には、Fiend Ogre Xeno-と署名が残されている、頭文字をとると、F、O、X、フォックスだ、 お前の通り名もフォックスだったよな? 新貝」
「そうですね」
「そしてだ、最近の被害者のほとんどが、サウス商会の顧客か関係者だということが判明してる、これはなぜだ?」
「さあ、私にはわかりませんね」
「惚けるな! お前がやってるからに決まってるだろ!」
「被害者がうちの顧客だからですか? そんな短絡的な、それでは自分がやったと言いふらしているようなものだ」
「言いふらしたかったんじゃないのか? やったのは俺だぞと、世間に認められたかったんだ、そうだろ?」
「バカバカしい、それほど子供ではないですよ」
「子供?」
「ええ……小さな子供がよくやるじゃないですか、昆虫の羽や足を毟って、地面に並べてみたり、動けなくなった昆虫がジタバタもがくのを眺めながらその上に水を垂らしたり、最後は踏みつぶしたりね、そんな残酷な遊びです、似てませんか? あなた方の追うFOXとやらと」
 犯人は意外に子供っぽい奴かもしれませんよと新貝は笑う。まさかと思いながらも、刑事はその言葉を反復した。
 犯人がもし、子供か、子供っぽい人物だとすると、矢島の仕入れてきたネタである犯人像とダブってくる。
 
──犯人は二人、女子高生とフードの男。

 フードの男と言っても、服装だけでは、年齢まで特定できない。もしも本当に犯人が二人いて、その片方が女子高生だとしたら、もう片方のフードの男も、意外に若い、学生かもしれない。
 そこまで考えて、刑事はふと気づいた。
 昨夜、新貝とは別に傷害罪で逮捕した男。今、矢島に調べさせているが、たしかその男、フード付きコートを着ていなかったか?
 まさか、そいつがフードの男……? 

 *

「宮田、お前、根を詰め過ぎなんだよ、あんなとこでFOXと居続けじゃ神経もどうかしちまうさ」
 取調室から宮田を連れ出した刑事は、人の好さそうな顔で、疲れてたんだよ、少し休めと話した。宮田はそうだなと小さく呟き、俯いていた。

 新貝の取り調べは、警察内部でも極秘扱いの地下室で行われていた。そこはもはや取り調べ室ではなく、独房と同じだ。
 なぜそんな場所で取り調べが行われたのかといえば、それがそれだけ大事件だったからだ。
 目玉を切り裂き、あるいは刳り貫き、全身滅多刺しにして殺す。時には内臓まで引きずり出し、それを踏み躙る行為に及んでいる。そんな残虐な犯行を数十件も行い、今も平然と生きている殺人鬼、FOX。そんな化け物を取り調べるのに、普通の施設では無理だ。何かあったとき、部下たちを護れない。それが上層部の見解だった。
 だがその取り調べは、被疑者新貝より、取り調べる刑事ほうの、体力と精神力を奪った。
 陰気でカビ臭い地下室での取り調べ、しかも相手は得体の知れない猟奇殺人犯だ。神経だって磨り減る。

「ヤツ《フォックス》を殴ったのはちょっと不味かったが、今回は仕方がないさ、上もきっとわかってくれる、とにかく今はここから離れて、休んどけよ」
「……ああ、すまない、そうするよ」
 同僚に励まされた宮田は、どうでも良さそうな生返事のあと、ふと思い出したように足を止め、振り返った。

「昨日、夜中に逮捕された若い男、今、どこにいるんだったかな?」
「どこって……渋谷署だろ」
 なんでそんなことを聞くんだというニュアンスで、答える同僚に視線も送らず、宮田は歩き出した。俯いた横顔の口角がわずかに歪み、上がる。
「……そうだったな」

 *

「お前じゃない……じゃあ誰だ?」
 改めて訊ねると、オウガはまた黙り込んだ。だがその顔は、黙秘しているというよりは、迷っているように見える。あと一押し、なにか切っ掛けさえあれば、口を割るかもしれないと思えた。
 どんな餌を吊るせば、話したくなるのか、思案しながら、矢島は席を立つ。
「少し、休もうか」
「え……?」
 オウガが不思議そうに顔を上げる。そんな表情を見ていると、彼が最初に言った、十五歳というのも、あながち嘘ではないような気がしてくる。どこか物慣れない、子供のような顔だと思った。
「一服してくる、そこで待っててくれ」
 矢島は立ち合いの警察官に、見張っててくれと言い残し、部屋から出た。
 真夜中の逮捕劇から一夜明け、取り調べを始めてから数時間、オウガはずいぶん喋るようになった。まだ肝心の話は聞けていないが、惚けているわけでも、言い逃れようとしているわけでもなさそうだ。たぶん、自分でもどうしていいのかわからないのだろう。彼も、自分のしていることが正しいと思えなくなってきたのかもしれない。
 あと一押し、なにか切っ掛けさえあれば、彼は落ちる。なにか、彼を動かす鍵が必要だ。
 思い巡らせながら喫煙室へ入り、まずは一服と、煙草に火を点ける。だが、それをゆっくり味わう前に、ポケットの中で携帯が鳴った。

 誰だ?
 反射的に視線を落とすと、液晶には昔なじみの名が浮かんでいた。
 
「俺だ、どうした? 久しぶりじゃないか、重田……」

──ああ、悪い、ちょっとお前に聞きたいことがあってな。

「聞きたいこと?」

 重田は、矢島の元相棒だった男だ。数年前、後輩警官が殺されたとき、再三の警告も無視して違法捜査を繰り返し、ほとんどクビ同然で辞職したのだが、いまだその件を諦めていないらしく、時々こうして情報を求めてくる。矢島も多少思うところがあったので、教えられる範囲のことは教えてやっていた。

「以前話してくれた、FOXの署名、Fiend Ogre Xeno-の意味だが、わかったか? 」
「……いや、まだ」
 ちょうど昨夜、FOX事件の最有力容疑者新貝が逮捕され、別室で取り調べを受けているというこの時に、その質問は驚くべきタイムリーな話だなと内心驚きながら、矢島はまだだと答えた。すると重田は、これは俺の推察だがと前置きをし、話し出す。
「俺は人の名前なんじゃないかと思う」
「名前……」
「俺の知り合いに物書きがいるんだが、そいつが書いてる小説の悪役にな、羅刹という鬼が出てくる、で、そいつが作中では鬼と書いてオウガと仮名を振ってあるんだそうだ」
「オウガだと?」
 重田の注釈に、矢島は火の点いた煙草を取り落としそうになるほど驚いた。それはまさに、今、自分が取り調べている男の名ではないか。
 矢島の驚きを知らず、重田は熱心に持論を話し続けた。
「ああ、O、G、R、Eと書いてオウガ、人食いの鬼という意味だそうだ、でな、実は最近、その知り合いのところに、ゼノってガキが転がり込んでて、そいつが怪しいんだよ、見かけは子供だが、絶対裏がある、しかも、ゼノだぞ、署名の最後の単語、X、E、N、Oのゼノだ、お前、これをどう思う? 偶然か? そうじゃねえだろ、そう思わねえか?」
 重田の言葉に、矢島はそうかと頷いた。ようやく合点がいった。そのとおり、これは偶然じゃない、オウガはFOXだ。もしくは、FOXの仲間だ。彼が庇っているのが捜査本部が躍起になって追っているFOXに違いない。
 新貝じゃない。彼らこそがFOXなんだ。
 そう結論した矢島は、重田に、今、オウガを取り調べてると話した。今度は重田が驚く番だ。
「取り調べてる? 捕まえたのか? どんな奴だった? 子供か?」
「いや、本人は二十だと言ってる、見た目も、まあ、一応成人だな」
「そうか……」
「ゼノってのは、女か?」
「いや、まだほんのガキだが、男だ」
「じゃあもう一人いるわけだ」
「ああ、そうなる、そいつがフィーンドだ、F、I、E、N、D、悪魔とか、悪鬼とかそういう意味らしいぞ」
「悪魔、か……」
 おそらく、そのフィーンというのが赤い髪の女子高生だろう。もう一人のゼノというのが子供だというなら、殺人の実行犯はオウガと考えるのが普通だ。だが、このケースの場合はたぶん違う。
 実行犯はフィーンで、オウガはその補佐役かなにかだ。で、今回、なにか不味いことがあって、フィーンは仲間であるオウガを陥れた。彼を逮捕させ、自分だけ悠々と逃げ果せる気でいるに違いない。
 彼女は、自分が裏切って逃げても、オウガは真相を喋らないと確信してるのだ。実際、彼は口を噤んでいる。
 どうにか喋らせる手立てはないのか……? 矢島は悩んだ。
「おい、聞いてるのか?」
 真剣に考えすぎて、重田がなにか言っているのを聞き逃したらしい。矢島も慌てて問い返す。
「すまん、聞いてなかった、なんだって?」
「しょうがねえな、五年前の捜査資料だよ、あの時の夫婦に、子供は本当にいなかったのか、その痕跡はなかったか、調べて欲しい」
「なんで今頃そんなこと……」
「ただの勘だ、だが間違っちゃないと思うぜ、あの時の夫婦には子供がいたんだ、そして、そいつがこの件に咬んでる」
「この件……」
「ああ、FOX事件、そいつが咬んでる、間違いない」
 そんな馬鹿な話、とは言い返せなかった。それは重田があまりに熱心だから、というのもあるが、それだけではない。自分は今、オウガを取り調べてる。重田はゼノの尻尾を掴んだ。これが偶然であるはずがない。
 だがさすがに、警察関係者でもない者に、捜査資料は見せられない。だいいち、あれは未解決のまま、迷宮入りとされた事件だ。今更ほじくり返すとなれば、それなりの理由がいる。
 矢島が迷っていることを察したのだろう、そこで重田は声を落とした。
「部外者には教えられないというならそれでもいい、お前が調べろ、絶対損はしない」
「なにかネタがあるのか?」
「ある」
「なら話せ」
 調べるかどうかは、お前の話を聞いてからだと答えると、重田は一拍おいてから、重い口を開いた。
「俺自身が証人だ、俺はお前らの探してるFOXに殺されかけた、だからわかるんだよ、あいつは人間じゃないぞ」
「人間じゃなかったらなんだ? まさか本当に鬼だとでも言う気か? そんな与太話で俺が動くと思うのか?」
「そうじゃない、だがそうとしか言いようがない、いいか、よく聞け、あいつはな……」