ビル自体はだいぶ古いのだろう。漆喰《しっくい》の壁はあちこち禿げかけ、階段についている手すりも色あせていた。コンクリートの床には砂埃《すなぼこり》が舞い、各戸の郵便受けも鍵が壊れている。
 階段や玄関ホールの天井は低く、全体にじめじめしたイメージだ。
 郵便受けの横には管理人室かと思われる部屋もあったが、無人で、しかも窓ガラスが割れていた。
 建てられた当初は最新鋭だったのだろう全てが、時代遅れの安物としか見えなくなっているのは寂しい話だ。ここの住人だって、もう少しモダンに改装して欲しいと思ってるだろうなと、余計なことまで考えた。
 だがいつまでそうしていても、FOX事件の手がかりになりそうなものは見当たらない。やはりここも外れかなと首を振る。

「お、三浦じゃね? こんなとこでなにしてんだ?」

 そのとき、別の場所をあたろうと考え、帰りかけた三浦に背後から声がかかった。
 白いジャケットに赤いシャツ、傷んでぱさぱさになった金髪と、太い金鎖のネックレスが安っぽく見える。お馴染みの男だ。

「新貝《フォックス》……」
 お前こそここでなにをと聞き返すと、新貝はビジネスだよと笑った。
「また誰かに金を貸したのか? 強引な取立てはだめだぞ、暴力を振るえば法律違反だからな」
「あ? ふざけんな、これでも俺は社長だぞ」
 舐めてんのかコラと新貝は凄む。ますます安っぽい。年嵩の矢島には敬語も使うが、相手が自分より若い新米刑事となれば、気を使う必要はないということだろう。態度はまるでチンピラだ。
 三浦も半分呆れながら聞き返した。
「じゃあなにしに来たんだ?」
「なんだ、尋問かよ?」
「必要に応じた職務質問だよ、答えろ、ここになんの用だ?」
 FOX事件になにか関連があるはずの旭ビルに来て、新貝に会うなんて、こんな偶然はない。やはり彼はなにか知っている。もしくは、新貝がそのものなのかもしれない。
 珍しく勘を働かせた三浦が問い詰める。新貝もどうでも喋らないという気ではないようだ、やれやれと首を竦めて話し出した。
「別に、たいした話じゃない、今度ここを買おうと思っててな、その下見だ」
「ここ? って、このビルをか? お前んとこ、不動産の免許はないだろ」
「仲買いじゃねえよ、俺が、買うんだ」
「お前が? こんな古いビルを買い取ってどうする気だ、なんの役にもたたないだろ」
「社員どもの塒《ねぐら》に使おうかと思ってな」
 従業員のことを、社員ども、と呼ぶあたり、言わずもがなだ、表向きは商社として繕っても、本性は隠せないらしい。
「よくそんな金持ってるな、それほど儲けてるってわけか?」
「そこそこだよ」
「そこそこじゃ買えないだろ」
「買えんだよ、こんな曰くつきのビル、誰も住みたがらねえし、他も手出さねえからな、安く買い叩けるのさ」
「曰くつき?」
「……なんだ、それでここに来てたんじゃねえのか」
 三浦が聞き返すと、新貝は余計なことを言ったなとぼやき、口を閉じた。だが、そこまで聞いて引き下がれない。何の話だと詰め寄った。
 すると、最初躊躇っていた新貝も、言いかけてしまったことを取り消しもできないと悟ったのだろう、渋々答えた。
「五年前、ここで殺人事件があったんだよ、一家惨殺、犯人はまだ捕まってないって話だぜ」
「殺人事件? 本当か? いつだって?」
「五年前だって言ってんだろ」
 思わず聞き返すと、新貝は呆れ顔でバカかと呟きながら詳細を教えてくれた。

 今から五年前の冬、このビルの六階で若い夫婦が殺されるという事件がおきた。発見者は夫の同僚だ。何日も無断で仕事を休むので、様子を見に来て見つけたらしい。
 呼び鈴を押しても反応はない。物音もしない。留守なのかと思い、諦めて帰ろうとした夫の同僚は、玄関の鍵がかかっていなかったことを不審に思い、中へ入った。そしてリビングの中央で息絶えている夫を発見、一一〇番通報をする。
 通報を受け、到着した警察は、夫の遺体から少し離れた応接椅子の陰で妻の遺体を発見、夫婦ともに、死後十日ほど経過していた。
 凶器はアイスピックなどの錐状のもので、夫のほうは喉、胸、腹など三箇所、妻のほうは胸を一突きで殺されていた。
 部屋は荒らされておらず、物取りとも思えなかったことから、夫婦に恨みを持つ者の犯行とされたが、決定的事実は出てこなかった。
 妻の不倫相手杉田と、第一発見者でもある夫の職場の同僚下村(夫のほうへ金を貸していた)が疑われるも、証拠不十分で逮捕に到らず。事件は未解決のままとなっている。
「犯人も捕まってない殺人事件だ、そんな物騒で薄気味悪い部屋、誰も借りたくねえだろ? 別の部屋でもお断りだ、そうは思わねえか?」
「まあ、そうだろうな」
「だろ、だからここは売れないのさ、で、そこを俺が買ってやるっつってんだ、偉いだろ? 持ち主は泣くほど喜んでるぜ」
 どうせ人の弱みに付け込んで安く買い叩こうという腹だろうに、新貝はボランティア気取りだ。三浦も言葉通りには受け取らなかったが、これといって突っ込むところもない。仕方なく、そこには目を瞑り、ほどほどにしとけよとだけ話した。新貝の目が鋭くなる。
「あんたもな、余計なことに首突っ込んでると、早死にするぜ」
「どういう意味だ?」
「別に、言葉どおりさ、長生きしたい奴はそこそこに仕事しとけって話だよ」
「だから、それはどういう……っ!」
 思わず掴みかかろうとすると、新貝はその手を取り、軽々と捻りあげた。咄嗟のことで反応の遅れた三浦は漆喰の壁に押し付けられる。
「ガキはお家《うち》に帰れっつってんだよ、わかったか?」
 異様にギラギラした目で新貝は凄む。つい気後れした三浦は、すごすごとその場を離れた。

 ***

「まったく、なんだってんだ」
 新貝に脅され、逃げるように旭ビルを出た三浦は、いまだ背中に流れる汗を意識しながら、自らを鼓舞するように呟いた。
 せっかく手がかりを掴めそうだったのに、結局なにも得られず追い出された。報告を入れると、案の定、お前はバカかと矢島にどやされる。だって怖かったんですよとは言えず、すみませんと平謝りだ。とりあえず、もう一度、探りに行けと言われて頷いた。
 だが今すぐは不味い。新貝がいなくなるのを、待ったほうがいい。それまで一息つこうと考えた三浦は、近くの喫茶店へ入り、遅めの昼食をとる。気を取り直し、店を出たのは、夕闇が落ちはじめ、あたりがオレンジ色に変わる頃だった。

 目的地までは、路線バスで向かった。
 バスは空いていたが、三浦は立ったままでいた。それは公務員として、公共の乗り物では座るなと矢島に躾けられていたからだ。しかし、昼間新貝と対峙し、気疲れしたのかもしれない。だんだん立っているのが辛くなってきた。
 別に誰も見ていない。車内も空いている。少しくらい座ってもばちは当たらないだろうと考え、運転手のすぐ後ろの席に腰かけた。
 小気味いい振動に身を任せていると、眠くなるのが人間の常だ。ついウトウトとし、アッと気づいたときは、すでに目的地の数メートル前だった。慌てて停車ボタンを押す。
「次、停まります」
 小さなアナウンスが入り、バスがスピードを落とす。そろそろ降りる準備をしようと、三浦は席を立つ。バスはゆっくりと停車し、降車ドアが開いた。
 そのとき、運賃を支払い、降りようとした三浦は、バス停に佇む子供に気づいた。
 なんということはない、ただの子供だ。だがなぜか、妙な予感が奔った。
 伸び放題の長い髪をした小学生くらいの子供が、バス停にいる。別にそれ自体はおかしな話ではない。時刻は午後五時を回り、子供はうちに帰る時間だろうが、最近の子供は塾だ習い事だと忙しい。夕方子供一人でバス停にいてもなんら不思議はない。
 それなのに奇妙に思えたのは、その子が身の丈に合わないロングコートを着ていたせいかもしれない。
 料金を支払い、バスのステップを降りながらも、バス停に立つ子供を見つめる。
 歳の頃は十歳か、いってても十二、小学生だろう。伸び放題の髪はぼさぼさで、着ているコートもやけに古びて薄汚く見える。色はモスグリーン、フードのついた防寒着仕様のものだが、この季節では暑いだろう。だがそれを着た子供は、暑いどころか、寒そうなそぶりで、コートの襟を立てていた。
 髪形のせいか、一見しただけでは、男の子なのか女の子なのかわかりにくい。だがどちらにしても、可愛らしい顔をしている。
 巷で横行する幼い子供の誘拐事件。金銭目的の場合が多いが、そうでない場合も多々ある。
 ただ可愛かったから、その子が欲しかったから、そんな信じられない理由で誘拐され、犯人のもとで育った子供もいることを、三浦は職業柄知っていた。
 バス停に佇むその子供は、まさしくそんな対象にされるのではないかと思えるほど。可愛らしい。ぼさぼさの髪でも、薄汚れたコートでも隠せない、異常な美貌。そんなものを感じさせ、三浦の目は、その子に釘付けになっていた。
 いつ自分の足が地面についたのか、それすら記憶に残らない。ただフワフワした気持ちで足を動かす。背後でバスの扉が閉まる音がした。
「あ……」
 バス停にいたのだから、この子はバスに乗るつもりだったのではないのか? 他人事ながら、つい慌て、振り返る。バスは無情に発進していた。
 待ってくれと言い損ねた三浦は、申しわけない思いで子供へと視線を戻す。だが、そこに子供はいなかった。
 どこからか、冷たく投げやりな少女の声がする。
 
「ねえ、楽しかった?」

「え……?」

 声はするのに姿が見えない。三浦は慌ててあたりを見回す。その途端、目の前が薄暗くなり、足に力が入らなくなった。がくんと膝が抜け、その場にしゃがみ込む形で倒れる。
 なにが起きたのかわからずに、戸惑いながら地面に掌をついた。
 そこで三浦は初めて、足元がどろりとした粘液で濡れているのに気付いた。
 
 濡れてる……水? いや、水じゃない、赤い……血、だ。
 
 気づくと同時に、膝裏にひりひりした痛みが奔る。恐る恐る視線を向けると、地面をしたたか濡らしている血は、自分の足から流れ出しているものだとわかった。
「ねえ、楽しかった?」
 自分の血に慄く三浦のすぐ後ろで、再び少女の声が囁く。声につられ、そちらへ振り返ると、カーキ色のロングコートをマントのように羽織った少女が、そこにいた。
 少女は手に血だらけの大きなナイフを持っていた。上向きにされた刃先から、まだ新しい血が滴って落ちる。落ちた血は、地面に赤黒いシミを作り、少女はそれを踏みつけながら三浦の正面へと回ってきた。
「口、きけないの? 返事も出来ないなら、舌を落とすわよ?」

 驚き過ぎて声にならない。少女の長い髪が風に舞い上がっていく。最初黒と見えた彼女の髪は、沈みゆく夕日に照らされ、赤く燃えた。
「お……」
 突然、FOX事件の数少ない目撃証言を思い出した。

 FOX事件は、派手な殺し方のわりに、目撃者がほとんどいない。いても抽象的で曖昧な話しか聞けず、捜査本部もあてにはしていなかった。だがたしか、数少ない目撃証言の中に、髪の長い女子高校生がいたというのがあったはずだ。
 そして、先日殺されたウサ子も、赤い髪の女子高生とフードの男が犯人だと言った。その片方、赤い髪の女子高生と思われる少女が目の前にいる。手には血塗られたナイフ。間違いない、この子が犯人だと、三浦は確信した。
 最初話だけで聞いたときは、赤い髪と言っても、少々赤く見えるだけの茶髪くらいに思っていた。しかし今、目の前にいる少女の髪は、本当に真っ赤だ。
 風に舞い上がる赤い髪の少女が、血塗れのナイフ片手に倒れている男に迫る。それだけ異様な光景なのに、なぜだろう? 誰も騒がない。それもそのはずで、まだ夕刻の五時だというのに、あたりには人っ子一人いなかった。大きな幹線道路にも、車一台通らない。
 日差しのせいだけでなく、空気自体が赤く濁っているようだ。まるで金魚鉢の中の世界のように、三浦と少女のいる空間だけが、日常から切り離されていると感じた。
「ああ、でも先に目ね、まるで役に立ってないし、いらないでしょ」
「ま、待て……」
 膝裏の腱を切られて立てない。逃げられない。自分はここで死ぬ。本能がそれを察し、三浦は瞬時に逃げることを諦めた。だがただでは死にたくない。せめて答えを知りたいと、なけなしの意地を掻き集め、少女に訊ねる。
「待ってくれ、なぜだ、なぜ俺を殺す? 教えてくれ、キミは誰なんだ」
「彼女が誰か、それをお前が知る必要はない」
 三浦が叫ぶと同時に、少女の姿はビルの陰に消え、その代わりのように、フードを目深に被った男が現れた。最初からそこにいたのか、それとも少女と入れ替わりに現れたのかはわからない。
「お前は……お前たちは、何者だ? なにがしたい?」
「いまさらそれを聞くのか? なぜもっと早く聞かなかった?」
「なぜって……今初めて会っただろ」
 地面に這いつくばったまま聞き返す三浦に、フードの男は、お前たちは知ってたはずだと答えた。男の顔半面には、青黒く変色し、引き攣れた火傷の痕がある。
 根拠などないが、こいつがウサ子の言ったフードの男で間違いないだろう。
「知ってたってなにを?」
 震える声で訊ね返しても、男はすぐには答えなかった。やがて夕暮れ時の薄闇が、景色を滲ませ始める。ビルの影が濃さを増し、男の姿は影に溶けた。
「とぼけんじゃねえよ! わかってるからここへ来たんだろ!」
 男の姿が見えなくなったと同時に、また別の方向から少女の叫び声がした。
「あんたらはいつもそうなんだ、自分には関係ありません、興味ありませんってか? ふざけんな! なんのための警察だ? 市民を守るのが仕事じゃねえのかよ? なんで見過ごしてんだ!」
 少女はその美しい顔からは想像も出来ないような、汚らしく乱暴な言葉で、三浦を罵った。しかし何度聞かれても、それがなんの話なのかがわからない。なんの話だと聞き返す。
「もういい、死ねよ!」
 それに対する彼女の答えは、刃《やいば》だった。
 三浦の正面に回ってきた少女は大きく振り上げた刃を左肩へと突き立てる。肩口から脳天まで突き抜けるような激痛が奔った。
「ぅわぁああぁっ!」
「痛い? 痛いでしょ? でもまだまだよ、もっと、感じさせてあげる」
 三浦の悲鳴に気を良くしたのか、少女は少し歪んだ笑顔で、肩に刺したナイフを、傷を抉るように揺らす。夥しい血が流れ、三浦はさらに大きく悲鳴を上げた。
 少女はナイフを突き立て続け、三浦は這いつくばったまま逃げ惑う。飛び散った血は地面に点々と赤黒い染みを作った。
 時刻は夕方で、最後の夕日もまだ落ちきってはいない。都会のど真ん中、本当ならもっと人通りがあっていいはずだ。だがこれだけの騒ぎなのに、あたりには惨劇に驚く人々の悲鳴一つ聞こえない。死ぬほどの静寂の中、少女の怒鳴り声と笑い声、そして金属性の刃が肉に突き刺さる湿った音だけが聞こえる。

「何故だ?」
 どんより曇った世界に、自分と少女とナイフだけが存在している。そんな奇妙な感覚に、三浦は恍惚としていた。時間がやけにゆっくりと進み、彼女の動きさえ、スローモーションに見えた。身体の痛みも最初ほどの鋭さはなく、もはや快感に近い。
 赤い髪の少女は、つい見惚れるほど美しい顔を醜く歪ませ、笑っていた。その頬には、涙の筋がある。
「なぜだ……?」
 誰が彼女をここまで追い詰めたのだろう?
 キミを虐めたの誰なんだ?
 もしそいつが今も実在しているのなら、俺が代わりにそいつを殺してやりたい。
 三浦は半ば本気でそう思った。
 切なさで涙が滲む。
 少女の凶行は、鏡合わせのようなものかもしれない。彼女は、自分の受けた傷を、痛みを、憎しみの対象に転写している。それで自分の傷も痛みも消えるわけではないのに、やめられない。
 ただ憎い憎いと。ただ痛い痛いと叫び、助けを求めている。

──なんで助けてくれなかったの?

 泣き叫び、血の海に沈む少女の幻が見える気がした。
 彼女は叫び、助けを呼んだ。だが誰も助けになど来なかったのだ。
 警察は何をしていた?
 大人たちは何をしていた?
 なぜたった一人の少女さえ、護ってやれなかったのだ?
 わかっている。警察は事件が起こらなければ動かない。なにか起きる前に、助けてと叫んでも、知らん顔だ。まだ犯罪を犯していない者を罰することは出来ないと顔を背ける。
 だがそれは加害者の側に立った一方的な人権擁護で、被害者への配慮はない。被害者は、傷つけられ、殺されるのを待つしかないのだ。
 それに気づいた三浦は地面に両手をついて項垂れた。なぜ自分が殺されなければならないのかなど、どうでもよくなった。どうせ、この傷では助からない。それならせめて、彼女の思うままに、少しでも気の晴れるようにしてやりたい。

「閉じ続ける目は、機能してないと同じだ、いらないだろ?」

 俯く三浦の背後で、男の低い声がした。いつの間に現れたのか、男は左腕で三浦の頭を抱えこみ、囁く。
「残念だな、天国がどんなところか見られなくて」
「待っ……!」
 思わず目を開け、三浦は叫ぶ。だが時すでに遅く、右目に太い金属棒が突き刺さった。
「ぐわっ……ぁ、ああ!」
 痛みに転げまわろうにも、頭を押さえつけられているのでそれも出来ない。三浦はただ悲鳴だけをあげ、血の涙を流した。それを無情に見つめ、男は金属棒を右目から引き抜く。そして滑らかな動作で残された左目に狙いをつけた。
 あれが突き立てられれば、光を失う。自分はもうなにも見ることが出来なくなる。その恐怖に背筋が凍った。全身が一気に緊張し、瞬時に弛緩する。
 ちょろちょろと太腿を流れるアンモニア臭い液体を意識しながら、三浦はヨダレ交じりに叫んだ。
「待て、待ってくれ! せめて……っ」
「せめて? なんだ?」
 三浦の必死さに打たれたのか、男が手を止める。刺すのをやめたわけではない。金属棒は左目のすぐ目前に示されたままだ。ちょいと力を入れればすぐにでも突き刺さり、自分は永遠に光を失うだろう。だが今はまだ見える。
「最後に、さっきの子の顔が見たい、彼女の顔を見て、謝りたい、死ぬ前に、光を失う前に、せめて……」
 頼むと、残された左目で訴えた。男はそれをどう見たのか、数十秒もの沈黙のあと、三浦を開放する。
 いきなり離された三浦は、ばたりと地面に倒れた。力尽き、起き上がれない三浦の目の前に、小さなの靴先が見える。彼女だ。
 残された力を振り絞り、三浦は顔を上げた。そこに少女はいた。
 先ほどまで赤かった髪は黒く和《な》ぎ、瞳も顔も、静かに和《やわ》らいでいる。
 白い肌に長い黒髪、決意を秘めた赤い唇。艶やかで神秘的な琥珀色の瞳。それは信じられないほど美しい、聖少女だった。

「ごめん、助けてやれなくて……キミが、キミたちがどれだけ苦しんだのか、俺は全然知らなかった、見てなかった、ごめんよ」
 三浦は、きれぎれの声で絞り出すように話した。少女はその言葉を最後まで、黙って聞いていた。彼女の動かない瞳が、傷の深さを示すようで、三浦は泣いた。
「いまさら遅いだろうけど、もし生まれ変われたら、今度は聞き逃さない、見逃したりしない、必ず、助けるよ、きっとそうする……ごめ────」