ゼノはなにか隠している。犯人でないとしても、なにか知っているはずだ。そう考えた重田は、その日、せせこましく建て込んだ古いビルに張り込んでいた。
 草薙にも話したが、彼はどうしても信じられないらしい。あの日、あの貸家で自分たちが見たゼノの姿も二人の思い込みが見せた幻だと主張した。後を追った時、どこにも姿が見えなかったのが、その理由だ。
 アレは幻、あくまでも、ゼノは普通の子供だという草薙を説得するのは諦めた。そして仕方なく、単独で調べを進め、そのビルに、ゼノらしき子供が出入りしていることを掴んだ。
 そこは所謂《いわゆる》雑居ビルで、一階と地下はスナックや喫茶店などの飲食店が入り、二階は小さな会社や怪しげな組合の事務所、三階、四階がアパートになっている。築五十五年だとかで、老朽化が進み、取り壊し寸前だ。
 だが、店子やアパート住民には、金に余裕がないモノが多く、ここを出たら行く当てがない。毎年のように持ち上がる改築計画は、そいつらの反対に合い、いつも頓挫する。ビル経営者に、強行するほど金がないというのも、理由の一つのようだが、いかんせん、ボロ過ぎる。消防法にも引っかかるし、なにより危険だ。そろそろ限界だろう。
 ここを追い出されたら行く当てのない住民や店子はどうなるのか、そんなところまで、行政は面倒を見ない。
「世の中無情だらけさ、お上なんぞ金持ちの役にしかたたねえ、そういうもんだ、哀しいね」
 誰に言うともなく呟き、暗くなっていく空を見上げた。ゼノは週初めの月曜か火曜、だいたい午後二時過ぎに現れ、三階に住む女のもとへ通っているらしい。
 女はそろそろ四十路《よそじ》にもかかろうという歳で、場末のキャバレーに勤めている。十二歳やそこらの子供が通う場所としてはかなり不自然だ。これが例えば母親かと考えれば納得もいくが、もしゼノがあの写真の子供だとしたら、それもあり得ない。

「ちっ」
 色あせてきた太陽を睨み、重田は大きく舌打ちをした。既に夕刻近いというのに、ゼノはまだ来ない。これは空振りだったかなと息を吐く……と、そのとき、傾き、沈みかけた夕日を背に、ゼノは現れた。
 着古したシャツに擦り切れた長上着、小さな身体に不釣合いな太いズボンと、鈍く光るキーチェーンが彼の目印だ。
 茶色の手持ちバッグ片手に現れたゼノは、さすがあの歳で大人と渡り合うだけあって、かなり用心深いらしい。目的のビルの数メートル手前から、歩みを緩めた。周りを窺うように一歩一歩、静かに進む。
 顔はさして動かしていないが、微妙な変化も見逃すまいとしているのがわかる。そうとう場数を踏んでいるなと感心しながら、重田は目的のビルに入っていこうとするゼノに声をかけた。
「よう、久しぶり」
「あんた……」
 ゼノは、いきなり現れた重田に、顔を顰めた。虚をついてやれたらしいと、少し胸がすく。
「そんな顔するなよゼノ、知らない仲じゃないだろ、どうだ、元気にやってるか?」
「元気ですよ、重田さんこそ、お元気ですか?」
「ああ、俺はいつも元気さ」
「そうですか、それはよかった、では僕は急ぎますので……」
 失礼しますとゼノは踵を返す。重田はその行く先へ回り込み、とうせんぼするように行く手を阻んだ。
「どこへ行く? お前の目的地はここだろ? 俺にかまわなくていい、用事を済ませろよ」
 逃げようとするゼノの細い手首を握り、引き止めると、彼は小さく舌打ちをし、動揺を取り繕うように視線を下げた。
「何の話です? 通りがかっただけですよ」
 素っ気無く返される声も、少し震えている。どうやら痛いところを突けたらしい。だとすればこれは当たりだと、重田も勢いづく。
「逃げる気か? 逃げられると思うのか?」
「別に逃げてません、帰るだけです、子供は家に帰る時間なんでね」
「都合のいいときだけ子供になるなよ、え?」
「最初から子供ですよ、そう見えませんか?」
「見えねえな」
 掴んだ手首を、後ろ手に捻り上げながら脅すと、ゼノは大げさに悲鳴をあげ、痛がって見せた。おそらく騒いで人を集め、混乱に乗じて逃げる気だ。
 脅すだけの理由があるのだが、実情はともかく、傍から見れば、相手は子供、児童虐待だ。騒ぎになっては不味い。重田は暴れようとするゼノの口を塞ぎ、ビル影へと引き摺り込んだ。
「今更殊勝ぶるなよ、女のところに行くんだろ? 目的はなんだ? そこでなにをしてる?」
「離せ……」
 細い腕が折れるのではないかと思えるほど捻り上げ、問い詰めると、ゼノは苦しそうに顔を歪めて呻いた。だがまだ話そうとしない。そこで重田は、懐から例の写真を取り出し、ゼノの目前に掲げた。
「これはお前だろ? これも、これも、こいつもお前だよな?」
 足元へ写真を投げ捨て怒鳴ると、ゼノは急におとなしくなった。いや、おとなしくなったのではない、怒りに声が出なくなったのだ。
 ぶるぶると身震いし、歯軋りしながら呻くゼノの声は、とても子供のそれとは思えないほど低く深くなった。まるで野生の熊か虎だ。
 見る間に冷たくなっていく彼の身体は、鋼のように硬く、その緊張と昂ぶりが知れる。さすがに驚いて見入っていると、彼は、癲癇発作のように手足を震わせ、押さえつける重田の力を跳ね返す勢いで背筋を硬直させた。
「ゼノ?」
 事実がどうあれ、見かけは子供だ、異常な緊張状態を見て、重田もつい手の力を抜いた。その途端、ゼノは重田の拘束を逃れ、身を翻す。羽織っていた長上着の裾が翻り、それがまるで大きな蝙蝠の羽根のように見えた。
「おい……大丈夫か?」
 思わず声をかけると、肩で息をしていたゼノは、自分の状態を把握する為か、辺りを見回し、それから自分の手や身体をしげしげと見つめた。そして深呼吸するように深く息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。
「あんた……ウザイね」
「ゼノ……?」
 痙攣の後のゼノはさっきまでとは別人のように見えた。両腕はだらりと下げられ、薬物中毒者ように瞳孔が拡大している。白目部分は赤く血走り、全体に滲んで見えた。
 身を翻したときに取り出したのか右手には太いナイフが握られている。身体全体をゆらゆらと揺らし立つ姿は伝説の中から這い出したモンスターのようだ。
 殺される。
 なんの疑いもなく、そう感じた重田は、逃げなくてはと心で感じながらも、動けずにいた。逃げようにも、足が地面に縫い止められたかのように固く、持ち上がらない。それどころか頭が痺れ、意識さえ遠のく。視界もぼやけ、近づいてくるゼノの姿が霞む。万事休すだ。
「く……っ」
 今ようやくわかった。事件の被害者たちは、傷が浅いにも関わらず、なぜ逃げ遂せなかったのか……。
 逃げたくとも、逃げられなかったのだ。
 足が動かず、声も出せない。気を抜くと息さえ詰まりそうな緊張を強いられ、ただ静かに歩いてくる死を待つしかなくなる。
 そうか、そうなのかと頷き、重田は瞼を閉じる。あとは落ちるだけだ。

──やめろ! ……っ!

 そのとき、鋭い声で、何者かが叫んだ……ような気がした。
 しかし、意識はすぐに閉じ、その声が誰なのか、確かめることは出来なかった。

 次に重田が意識を取り戻したのは、それから数時間後、時計の針は二十一時を回っていた。
 ゼノが現れたのが十七時過ぎだったので、あれから四時間近く倒れていたことになる。
 薄暗い裏路地に倒れていたため、誰にも気付かれなかったらしい。さすがに肌寒い。重田はぶるぶると震えながら起き上がり、あたりを見回した。ゼノがいた気配はどこにもない。
 あれは夢だったのかとさえ思うが、それはない。だとしたら自分はなんでこんなところに倒れているのだ。それに……。
 重田は懐に手をやり、それからあたりの地面を探った。そのどちらにも、ゼノと思しき少年の映った写真はなかった。

 ***

「あ、おかえりゼノ、今日は早いな」
 その日、ゼノが戻って来たのは十九時前だった。いつも遅いゼノにしては、かなり早い。この家に馴染んできた証拠かなと嬉しくなった草薙は、軽い調子で声をかける。
「予定が狂ったんで、少し早仕舞いにしたんですよ」
 ゼノもごく軽く、返事を返してきた。同居初日に垣間見せた子供らしい言動ではないが、気を許しているのがわかり、草薙もますます調子に乗った。
「へえ、なにを……って、これも聞いちゃ不味いのかな?」
「別に、ただの仕事です」
「仕事ねえ……」
 何気なく相槌を打ちながら、ゼノの様子を観察する。身元は調べられなくとも、日々の観察くらいはしておきたい。ゼノもそれはわかっているのだろう、ジロジロ見つめられても文句は言わなかった。

「気は済みましたか?」
 上から下まで嘗め回すように眺める草薙に、ゼノは呆れ声だ。だがそれも気を許している証拠だと思えば、いっそ楽しい。
 注意深く観察していると、手首に薄い痣があるのを見つけた。昨夜はなかった傷だ。思わず手を取る。
「これは? どうしたんだ、また新しい傷じゃないか」
「重田さんですよ、ちょっと外で会って、トラブったんです、あの人、馬鹿力ですね」
「重田さん? なんだ、まさか殴られたとかしたのか?」
「まさか、彼だっていい大人だ、理由もなく子供を殴るようなリスキーなことはしませんよ」
「そりゃ……けど」
 重田はFOX事件とゼノに拘り過ぎだ。
 だいたい自分たちは警察ではない。調べ直してみましょうと突いた自分も悪いが、五年も前の事件をいまさら素人が調べてもなにがわかるというのだ。しかも証拠は写りの悪い写真だけ、それも証拠とは言い難い。
 最初の夫婦に、実は子供がいたとしても、事件に関係あると断言は出来ない。
 それなのに重田は、本気でゼノがFOX事件に絡んでいると思っている。今日だって、言えば止められると思って、一人で調べていたのだろう。そしてゼノを追ったに違いない。最初から企んでいたのだ。
 そう思うと腹も立つし、標的にされたゼノが心配になる。
 だがゼノは気にならないらしい。もしくは面倒なだけか、肩を竦めて話題を変えた。

「もういいでしょう、それより腹が減った、夕食はまだですか?」
「え、ああ、出来てる、すぐ食えるそ、今日はハンバーグだ」
「それは豪勢だ、どうせ出来合いでしょうけど」
「煩いな、そういうお前はなんか作れんのかよ?」
「子供は料理なんかしないものです」
「またそうやって都合のいいときだけ子供になる」
「皆さんそう言いますね」
 子供っぽい憎まれ口に軽いジャブを返し、それにつられてゼノが笑う。まだまだぎこちないが、久々に見た笑顔だ。それに気をよくし、草薙も笑った。

 その日、ゼノはよく喋った。
 普段は無口で、気が向かなければ一言も喋らない。だが時々こうして冗舌になる。
 なにか良いことがあったのか、それとも反対に、なにか嫌なことがあったのか、そこはわからないが、そういうときの彼は、支離滅裂で面白い。
 草薙は、子供らしくテレビアニメに興じるゼノを見つめ、全て重田の思い込みだと思おうとした。

 *

 その翌日も、家に帰るとゼノは家にいた。いつも腰掛けている長椅子に横になり、どうやら眠っているようだ。肌身離さず持ち歩いているクラッチバッグも投げ出されたまま、床に落ちている。
「こんなところで寝て……風邪ひくぞ」
 やれやれと肩を竦めながら、寝息をたてる幼い顔を見つめた。
 彼の顔や身体には、擦り傷や、痣になりかけた傷があちこちにある。着ている服も薄汚れていた。
 汚れた服は着替えさせ、洗濯だって二日おきにはしている。それなのにゼノの服はいつも埃だらけ、泥だらけだ。自分の知らぬ昼の間、彼はどこで何をしているのだろう?

 大人しく優しい、人畜無害の人間が、実は一番始末が悪い。

 突然、会ったばかりの頃、ゼノが言った言葉を思い出した。
 なにかがあるとわかっていて何もしないのは、逆に罪なのかもしれない。ふとそんな気がした。
 知るべきだ。その思いに押され、草薙は眠るゼノの横に落ちているクラッチバッグを拾い上げる。彼がいつも手放さないので、それを手に取るのは初めてだ。意外に重い。
 バッグは薄茶色の革製で、クロコダイルの押型が入っている。バッグというよりは、大きな長財布といった感じだった。
 いったいなにが入ってるんだろうかと、なぜかドキドキしながら、L字のファスナーに手をかける。
……と、すぐ隣のやや上から、酷く冷静な声がした。
「おい、なにをしてる?」
「え、あ?」
 それは寝てるとばかり思っていたゼノだった。ひどく不愉快そうに顔を顰め、草薙の手元を見ている。慌てて開きかけたファスナーを閉じようとしたが、慌て過ぎていたのか、これが上手くいかない。何度かつっかえ、挙句に中身を床にぶちまけてしまった。

「あ、ごめん……っ?」
 ぶちまけた中身を急いで拾おうとして、また驚いた。ぶちまけられたバッグの中身は、使い古された一万円札だった。
「これ……」
 よく見れば札は万札だけでなく、五千円札や千円札も多く混じっている、それに小銭も少々……何れにしても子供の持ち歩く金額ではない。
 草薙は、中の一枚を拾い上げ、これはなんだと問おうとした。だが振り向いた先にゼノはいない。
 消えた?
 一瞬、本気でそう疑ったが、そうではなく、彼は草薙が振り向く前に長椅子から下りていただけだ。
 ゼノは草薙のすぐ前に屈み、散らばった札束や、なにか書き付けたメモ書きのような紙切れを拾いだした。慌てるでもなく、取り繕うでもなく、淡々と札束を拾い、クラッチバッグに仕舞っていく様子に、草薙は言い尽くせない恐怖を感じた。
「人の物を勝手に見るのはプライバシーの侵害です、その札も、一枚でも取ったら窃盗罪ですよ」
「とってない! ……じゃなくて、なんだよこれは!」
 わかっていてわざと言ってるなと思いながらも、つい突っ込んだ。するとゼノもそれに乗るように、ニコリと笑う。
「一万円札ですよ……見たことないですか?」
「諭吉くらい見たことあるよ! そうじゃなくて、この金はどうしたんだって聞いてるんだ」
「別に疚しい金じゃない、正しい労働の対価です」
「なにが労働、子供がそんな大金稼げるわけないだろ、お前、いったいなにしてるんだ?」
 札束は、床に落ちた分だけでも二十万以上はあった、とても子供が持ち歩く金額ではない。違法な事でもしなければ、こんな大金を得られるわけがない。
 ゼノはなにか法を犯す行為をしている。
 そう結論を出した草薙は、いつになく厳しく追求した。するとゼノは、札束をバッグに仕舞い、追求から逃れるように立ち上がる。
「だから、労働ですよ」
「だから! どんな仕事なんだと聞いてるんだ!」
 のらくらと話を逸らそうとするゼノにカッと来て、つい怒鳴った。するとゼノは潮が引く様にすっと真顔になり、知らないほうがいいですよと答えた。
 そういう言い方をされれば余計に気になる。それはつまり、なにか人に言えないことをしているということではないか。
 ゼノは子供だ、周りの大人に影響され、唆されれば、簡単に悪い道へ走るだろう。中学生以上にもなれば、ある程度自己責任だろうが、この年齢の子供では責められない。環境が悪いのだとしか言い様がない。
 ゼノ自身もそれはわかっているはずだ。だからこんな言い回しになる。誰だって、悪いと知ってやっていることを、そう簡単に話しはしない。
 しかしこのままでいいわけがない。彼は重田に疑われているし、そうでなくとも、子供はもっと子供らしくあるべきだ。
 彼が子供らしく生きられなかったこれまでの時間は、不憫だとしか言い様がないが、これからは自分がいる。自分は彼を信じ、護ると約束した。それは守りたいし、信じて欲しい。
 草薙は、自分を信じて話してくれと説得しようと考えた。しかしゼノはその言葉が前に出る前に、踵を返す。

「待て! どこ行く気だ?」
「出て行くんですよ、面倒なことになりそうなんでね」
 そう答えるゼノは、草薙に背をむけたまま、振り向こうともしなかった。札束の入ったクラッチバッグを片手に、すたすたと玄関口へ歩いて行く。
 このまま行かせたら、もう彼を止められない。
 背中に冷や汗が流れる。
「面倒じゃない! そうじゃなくて、いいから、行くな、ゼノ!」
「さよならお兄さん、お元気で」
「待てって言ってんだろっ!」
 ここでさよならなんて、考えもしなかった。完全に自分の失敗だ。慌てた草薙は、出て行ったゼノを追いかける。
 だが勢いよく開けた扉の向こうに、ゼノはもういなかった。

 ***

 三川合流地点と呼ばれる大きな河の河川敷に、小さなテントがあった。あたりには雑草が生い茂り、地面には大きな石がごろごろと転がっていて、キャンプをするには適さない場所だ。
 もちろん、そのテントは観光客やアウトドア好きな学生が張ったモノではない。住んでいるのは住所不定無職の中年男性だった。

 男は二十代半ばで交際二年の恋人と結婚、その後、二人の子供にも恵まれ、裕福とは言えないが、それなりに幸せな人生を送っていた。だがある日突然、会社が倒産し、男の運命は狂った。
 買ったばかりのマイホームはローンが滞って人手に渡り、家も車も贅沢品はみな失った。妻は貧乏暮らしに嫌気が差したのか、幼い子供を残し、失踪。子供を抱え、就職活動も出来ずに最後の金も使い果たし、食料も尽きたとき、男は子供を道連れにと死を選んだ。
 だが、いざ首を絞めようとしたとき、安らかで無邪気な寝顔を見て決心が揺らいだ。男はそのまま逃走し、その後、一度も家には帰っていない。

 男が逃げたとき、子供はまだ三歳と五歳だった。一人では生きられない、死んでしまうだろうと、意識の裏でわかっていた。
 自分はあの子らを一思いに殺さず、ジワジワと死せる、餓死という道に追い込んだのだ。ただ自分の手を汚したくないという身勝手な思いだけで、幼子に何より残酷な最後を見せた。人でなしだと自分を責めて彷徨っていた。

 男が家を出てから二ヶ月も過ぎた頃、ただ漠然と生きていた男の元へ、一人の少年が現れた。
 少年は男に子供の写真を見せ、ボイスレコーダーに吹き込んだ肉声を聞かせた。子供たちは、無邪気に笑い、話し、仕事に出かけた父親を待っていると話していた。
 ただ、涙が出た。
 自分は子供を置き去りにして逃げたのに、死んでもいいとさえ思っていたのに、子供らは父親である自分の帰りを待っている。仕事に出かけたのだと信じ、おとなしくいい子で待っている。
 上の子はまだ小さな下の子の面倒をみ、下の子も上の子の指示を信じて懸命に頷いていた。
 この健気な子らを、自分は殺そうとしたのかと後悔で一杯になり、涙だけがダラダラと流れた。それを見つめ、少年は言った。

──お前はこいつらが嫌いか?
──邪魔だと思うか?
──死んで欲しいのか?

 その問いに、男はただただ首を振り、泣いた。
 生きていて欲しい。幸せになって欲しい。出来るなら、自分の手で幸せにしてやりたかった。それが無理なら、どこか遠くででもいい、幸せに、普通に生きて、人生を真っ当して欲しいと心から願った。
 幸せに生きて欲しい。そう呟いた男に、少年は、それなら自分に協力しろと言った。
「幸せなんて、自分で掴むもんだ、そこまでは面倒みきれない、だが普通に見える程度に生きるだけなら、なんとでも出来る、あんたが本気で願うなら叶えてやろう、その代わり、あんたの全てを俺によこせ」
「わたしの、全て……ですか?」
「ああ、全てだ」

 ***

「おかえりなさいゼノさん、今回は長かったですね」
 テントの幕を捲り上げ、中へ入ってきた子供に、男は腰を低くして頭を下げる。深夜の河川敷には他に人影もなく、男は親子ほども歳の離れた子供に、敬語まで使っての最敬礼だ。子供はそれを忌々しそうに睨んだ。
「誰がゼノよ、余計な口叩いてないで消えな!」
「あ、これはフィーンさんでしたか、どうもすみません、はいはい消えます」
 子供の機嫌の悪さに男も慌てて腰を上げる。そして、今にも殴りかかってきそうな拳を気にしながら、そそくさと外へ出て行った。あとには、子供が一人、残される。

 一人になった子供は、テントの中央にどっかりと腰を下ろし、静かに目を閉じた。
 男の足音は遠のき、辺りは無音になる。聞こえるのは自分の呼吸音と心臓の音、そして遠くに流れる川の水音だけだ。

「ゼノ、アンタどういう了見よ! なんで殺さないわけ?」
「必要ないよ、あの人はラウじゃない」
「あの間抜けじゃないわよ、重田のほう! アイツは知り過ぎだわ、突っ込まれたらどうするの!」
「たしかに、面倒は早めに片付けたほうがいいな、なぜ止めた、ゼノ?」
「ほら! オウガも同じ意見よ、あんな奴ぶっ殺すべきだわ!」
「賛成はしてない、関係ない人間を殺すのは流儀に反する」
「関係あんでしょ! アイツはこっちを疑ってんのよ、殺るか殺られるかだわ!」

 重田の疑いはほとんど正解だ、疑われるのは仕方がない。
 彼は最初からこちらを疑っていた。根拠はあの写真だろう。だがその写真はもう始末した。
 警察でもない彼に、自分たちを逮捕する権限はない。少々邪魔臭いが、生かしておいても害はないはずだとゼノは思っていた。しかしオウガたちはそう思えなかったようだ。なにか手を打つべきだと主張する。
「今回ばかりは俺もフィーンに賛成だ、奴は放っておくと、俺たちに突き当たる」
「でしょ」
「ああ、どこから綻ぶかわからないんだ、消しておくべきだと思う」
 二人がかりの説得にも、ゼノは頷かなかった。反論もしない代わりに、押し黙る。
 身体は小さいが、ゼノは意外に頑固なところがある。気に喰わないことはとことん気に喰わない。なにがあろうと、自分の根本を変える気はないのだ。
 今も、ゼノは拘《こだわ》っている。重田を殺すことをではない。おそらく、重田と繋がる草薙を、気にしているのだ。

 温かい家庭というものを経験したことのないゼノは、家族に焦がれていた。いや、自ら知らず、飢えていると言ってもいい。彼が草薙との絆を切りたくないと考えるのは、ごく当たり前だと納得できた。
 しかし、それは相容れない願いだ。彼らを切らなければ、足元が狂う。
 切るべきだとオウガは思い、だが同時にゼノの思いも叶えてやりたいと願ってしまった。
「反対か? ゼノ?」
「二人が本気で思うなら反対はしないよ」
「では評決だ、まず、草薙はどうする? やるか?」
「アタシは殺るべきだと思うわよ、オウガはどうなのよ」
「彼まで殺す必要はないと思う、害はなさそうだ」
「僕も反対」
「反対二票、オーケー、草薙は殺さない」
「ふん」
「では次ぎ、重田はどうする?」
「殺すに決まってんでしょ! 、厭らしく嗅ぎまわって、ウザいのよ、いろいろと!」
「俺もそう思う、流儀には反するが、あいつは殺っておくべきだ」
「当然よ、アタシが殺るからね!」
「……ということだ、ゼノ、二対一だが、反論はあるか?」
 俯くゼノを気遣うように、オウガは静かに訊ねる。だがゼノは、俯いたままだ。
 答えの返ってこない問いが宙に浮き、フィーンは髪を逆立てて怒鳴った。
「なに黙ってんの、なんとか言いなよ!」
 怒鳴っても脅しても、ゼノは答えない。フィーンはますます苛立ち、テンションを上げる。
「ちょっと! 往生際悪いわよ!」
「フィーン、少し黙ってろ、ゼノは今考えてるんだ」
「考える? は、なにを考えるって? 殺るのよ、決まってるでしょ!」
「いいから黙ってろ、最終判断はゼノだ」
「はいはい」

 叫ぶフィーンを制し、オウガはゼノにしゃべらせようとした。しかしゼノは答えない。
 フィーンは結論をと迫り、オウガもそれは賛同していた。ただ問題は、ゼノに、無理矢理うんと言わせることは出来ないということだ。
 そして彼がうんと言わなければ、自分らは動けない。
「ゼノ、あとはお前次第だ、俺たちはお前の判断に委ねる」
「オウガ……」
「アタシは殺るべきだと思うわよ、でも結局、本当に決めるのはアンタよ、ゼノ」
「フィーン……」

「さあ、どうするの《どうする?》」