あの日以降、倉橋優姫は大学から姿を消した。
いつ優姫が現れるかと、颯太はしばらくの間怯えながら過ごしていた。優姫が颯太の自宅に無断で入り込んできたあの出来事は、軽いトラウマになっているのだ。
唯一事情を知っている光は、颯太の怖がりな性格も分かってくれている。お互いのバイトの時間以外は、光はなるべく颯太のそばにいてくれた。
二週間ほど何事もなく過ごすことができると、今度は颯太の胸に別の不安が生まれた。もしかしたら優姫はこのまま大学を辞めるのではないか。そして、その理由に少なからず颯太の存在が関わっている。
光に自分の不安を打ち明けてみると「仮に倉橋さんが大学にこのまま来なかったとしても、颯太のせいじゃないぞ?」と眉を寄せた。
光の言う通りなのだろうか。優姫の本心は実際颯太には分からない。確かなことは一つだけ。
あれ以来、颯太は優姫の姿を一度も見ていない、ということだ。
交換した優姫の連絡先は、もう使えない状態になっている。メッセージアプリではブロック機能を使い、電話番号も着信拒否にしているのだ。わざわざ解除してまで優姫に連絡を取ろうとは颯太も思っていない。しかし気になる気持ちが抑えられず、颯太は光が別の講義を受けている間に、一人の女子学生に声をかけた。
暗めのブラウンの髪をポニーテールにする彼女、真野絵梨花は、優姫の友人の一人だ。いつも優姫と一緒に行動をしていたので、颯太の記憶にも残っている。直接会話をしたことはないが、優姫が颯太に声をかけてくれたとき、絵梨花が隣にいたことは何度もある。
「あの、真野さん……ちょっといいかな」
颯太が声をかけると、絵梨花は肩をびくりと揺らし、怯えたような表情で颯太を見上げた。
「……あ、えっと……佐久間くんの、友達の……」
「うん、笹木です。忙しい?」
颯太の問いかけに、絵梨花は慌てて首を横に振った。
優姫と話しているところを遠目に見ていたときには気づかなかったが、どうやら絵梨花はかなり臆病で人見知りな性格らしい。
颯太も似たような性格をしているので、気持ちが分からないわけではない。早めに話を切りあげよう、と考え、颯太は早速本題を切り出した。
「真野さんって倉橋さんと仲がいいよね? 最近、その……大学に来てないみたいだけど……何か聞いてる?」
優姫の名前を出した瞬間、絵梨花は再び顔を上げる。助けを乞うような、今にも泣き出しそうな表情にギョッとして、颯太は思わず後に紡ぐ言葉に詰まってしまった。
「ゆ、優姫ちゃん、連絡が取れないの……」
「えっ?」
「二週間前の、日曜日……。バイトに来なくて……無断欠勤なんて初めてで……。心配になって家に行ったの。でも、優姫ちゃん、いなくて……」
颯太の背中に冷たい汗が流れた。絵梨花は涙を浮かべた目で、じっと手元のスマートフォンを見つめる。その画面は、颯太も使っているメッセージアプリのトークページが表示されていた。見える範囲のメッセージは、全て絵梨花からの一方的なもので、相手からの返信もなければメッセージに既読の文字もついていない。
トーク相手はきっと倉橋優姫なのだろう。不安そうな表情を浮かべたまま、絵梨花がトークを少し遡る。
「これ……優姫ちゃんが最後に送ってきたの……」
画面に表示された文章に、今度こそ颯太の背筋が凍った。
『絵梨花ー! 昨日のデートで大好きだった人が彼氏になったの! 今から彼氏の家に行ってくるんだー! 今日のバイト帰りに話聞いてね!』
送信時刻は日曜日の朝。颯太の家を訪ねてくる少し前だった。ぞわりと悪寒が走り、颯太は言葉に詰まる。しかし絵梨花は颯太の様子の変化に気づくことなく、一生懸命言葉を紡いでいく。
「ま、前から好きな人がいるって言ってて……。でも、優姫ちゃん、相手が誰かは教えてくれなかったの……。デートが決まったときも、すごく張り切ってて……」
「……真野さん、以外で、その話を知ってる人っているの?」
「……いない、と思う……。優姫ちゃん、高校のとき、友達に好きな人をバラされて嫌な思いをしたって言ってたから……」
絵梨花の言葉が真実ならば、優姫が颯太のことを好きだと知っているのは、優姫本人だけだった可能性が高い。
なぜか嫌な予感がして、颯太はこの場から逃げ出したい気持ちに駆られていた。しかし声をかけたのは颯太の方なのだ。自分から話を振ったのだから、最後まで話を聞かなければ。
次の言葉を待っていると、「どうしよう」と絵梨花は泣き始めた。
慌ててハンカチを差し出すが、絵梨花の目からはぽろぽろと大粒の涙が溢れていく。
「だ、大丈夫……?」
「優姫ちゃんと連絡取れなくなって……家にもずっと帰ってないみたいなの……。私、どうしたらいいか分からなくて……」
「バイト先の店長とか、大学の学生課は?」
「店長は、真面目そうに見える子でも最近はバックレなんて珍しくないからって……。大学も、学生の自主性を尊重するって……」
颯太が思いつくようなことは、すでに試しているようだった。大人しそうな絵梨花は、きっとかなり勇気を出して相談したに違いない。それをどちらも軽くあしらわれてしまい、途方に暮れているようだった。
大学に来ていないことは颯太も知っていたが、まさかバイトにも行かず、家にも帰っていないとは。優姫はひとりぼっちでどこに行ってしまったのだろう。失恋で傷心旅行をするとしても、バイト先や親友の絵梨花へ連絡をしないなんてことがあり得るのか。
絵梨花は颯太が渡したハンカチでそっと涙を拭い、鼻声で呟いた。
「デートしたのが危ない人で……何か、事件に巻き込まれちゃったのかな……」
「っ、そ、そんなこと……」
「だって優姫ちゃん、日曜日の朝の時点ではメッセージ送ってきてたんだよ……。バイト帰りに話を聞いてねって……。バイトを休むつもりもなかったはずなのに……」
絵梨花の言うことは尤もだった。
日曜日の朝、颯太の家を訪れる前。その時点では優姫は幸せいっぱいだったのだろう。恋人との関係が全て勘違いで、失恋するなんて思ってもみなかったはずだ。
絵梨花の話を聞きながら、颯太の頭に一つの嫌な考えが浮かんだ。
倉橋優姫は、失恋のショックで衝動的に自殺をしたのではないか。
そう考えれば、ずっと既読がつかないメッセージも、友人やバイト先に連絡しないことも、家に帰っていないことも説明できてしまうのだ。
颯太は思い付いてしまった最悪の考えを口にするのが怖くて、唇を噛んだまま俯いた。
「優姫ちゃんに何かあったらどうしよう……。私、優姫ちゃんの実家も、実家の連絡先も知らないし……これ以上どうしていいか分からなくて……」
「…………あ、のさ……」
「う、うん……」
「たとえば、警察に行くとか、どうかな」
颯太の提案に、絵梨花は目を丸くした。潤んだ目をぱちくりさせると、涙が頰を伝っていく。
「警察……? でも、店長も、学校も相手にしてくれないのに警察なんて……」
「事情を説明して、実家に連絡を取ってもらうだけでもいいと思う。もし家出をしているだけだったら倉橋さんは後で怒られちゃうかもしれないけど、見つからないより絶対にいいし」
例えば優姫の実家に連絡が届き、捜索願が出されたとしても、簡単に見つかるわけではないだろう。
それでも優姫が家出をしているなら、慌てて連絡をしてくるかもしれない。
自殺をしようと迷っているなら、思いとどまってくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、颯太は絵梨花の返事を待った。
「そっか、そうだよね……。警察の人にお願いして、優姫ちゃんの実家に連絡してもらえばいいんだ……。ありがとう、笹木くん」
「ううん、僕も倉橋さんが大学に来ないの、気になってたから」
颯太の言葉に、絵梨花は初めて笑顔を見せた。
「優姫ちゃん、モテるもんね」
「えっ、いや、違うよ!?」
どうやら絵梨花は、颯太が優姫に片想いをしていると思ったらしい。確かに少し前までは恋心を抱いていたが、今は違う。慌てて否定する颯太に、絵梨花は少しだけ申し訳なさそうに訊ねた。
「笹木くんはその…………優姫ちゃんのデートの相手、心当たりがある……?」
ドクン、と大きく心臓が鳴った。
好きな人の好きな人、というのは嫌でも分かってしまうものだ。目で追っているうちに、好きな人の視線の先にいる相手にも気づいてしまうのだろう。
きっと絵梨花は、颯太が優姫のことを好きだったなら、優姫の想い人にも気づいているかも、と考えたのだ。
颯太のことを疑っているわけではない。分かっていても心臓がうるさく鳴り止まないのは、先ほどの絵梨花の言葉が頭にこびりついて離れないせいだ。
『デートしたのが危ない人で……何か、事件に巻き込まれちゃったのかな……』
唾を飲み込むと、不自然なほど大きな音が鳴った気がした。颯太は無理矢理笑顔を作り、答えた。
「デートの相手は……分かんないな。ごめんね、役に立てなくて」
「ううん、相談に乗ってもらえてよかった……。ありがとう、笹木くん」
「うん、じゃあまた」
そう言って颯太は足早に立ち去った。学生食堂の吹き抜け側、端の方のいつもの席に座り、颯太は一人頭を抱える。
優姫が土曜日にデートをした相手は誰か分からない。颯太は嘘を吐いてしまった。
果たしてこの嘘は正しかったのだろうか。未だにうるさく主張する心臓の音を聞きながら、颯太は深いため息をこぼした。