颯太は必死に走った。足の裏が燃えるように熱い。痛みか恐怖か、目には涙が滲んでいたけれど、颯太は足を止めることなく走り続けた。
 日頃からスポーツをしているわけではないので、すぐに息は上がってしまい、肺が痛みを訴える。それでも颯太は走るしかなかった。
 身体は至るところから悲鳴をあげていたが、足を止めることはできない。恐ろしかったのだ。振り返れば優姫が追いかけてきているような気がして、振り向いて確認することすらできなかった。

 がむしゃらに走って颯太が辿り着いたのは、光が一人暮らしをしているマンションだ。オートロック完備の玄関ホールに入って、ようやく颯太は背後を確認する。少なくとも颯太の視界に優姫の姿は見当たらなかった。
 光の部屋番号を押して、呼び出しボタンを押す。何度も光の部屋を訪れたことはあるが、こんなにも切羽詰まった気持ちだったことはない。
 頼む、光。家にいてくれ。
 颯太は祈るような気持ちで光の応答を待った。

『あれ、颯太? どうした?』

 玄関ホールに親友の声が響いたとき、思わず颯太の目には安堵の涙が浮かんだ。

『えっ泣いてんの!? どうした? とりあえず上がってこいって!』
「ありがとう…………」

 呼びかけながらオートロックを解除してくれたようで、玄関ホールの扉が開く。颯太は何度も後ろを振り返りながら中に入り、無事に扉が閉まるのを見届けてから、エレベーターへ向かった。
 七階に上がっていく箱の中でも、颯太はずっと怯えていた。エレベーターの扉が開いたとき、その場に倉橋優姫が立っているような気がしてならなかったのだ。
 しかし、さすがにセキュリティが厳重なマンションなだけあり、颯太が想像した最悪な事態には至らなかった。エレベーターの扉前にいたのは優姫ではなく、心配そうな表情の光だ。颯太を見た瞬間に光は青ざめていく。

「……いろいろ聞きたいけど、とりあえず部屋に入ってからな」
「うん、そうしてくれると助かる…………」

 光の顔を見て、颯太は全身から力が抜けていく。倒れ込みそうになった颯太を慌てて光が支え、大丈夫かよ、と呟きながら家まで肩を貸してくれた。
 家に入ると、光は颯太を玄関マットの上に座らせる。鍵をかける光の後ろ姿に、颯太は思わず声をかけた。

「ごめん。鍵、全部かけてくれない……?」
「…………ん、分かった」

 何も訊かずに光は颯太の願いを聞いてくれた。メインの鍵と補助錠に加え、ドアが開きすぎないようにするドアロックまでかけ、これでいい? と颯太に訊ねる。颯太は三回ほど確認して、力なく頷いた。
 そして全身を襲う疲労感とようやく得られた安堵の気持ちに、再び涙が浮かぶ。慌てて涙を拭う颯太を、光は黙って見つめていた。

「急に来てごめん。頼れる人、他に思い浮かばなくて」

 ようやく口にできた謝罪の言葉は、声が掠れている上にひどく震えていた。事情を説明しなければ、と思うのに、颯太の頭はまだ混乱していて、うまく言葉にならない。
 光は洗面所から濡れタオルを持ってきて、颯太に渡す。全力疾走をして汗まみれだから拭けということだろうか。颯太がタオルを受け取ると、光は眉をひそめて呟いた。

「足。一回拭いて、そしたら痛いだろうけどしっかり洗う。消毒はそれからな」

 友人の言葉に颯太は自分の足元を見る。裸足だった。
 あの家から逃げることに必死で、颯太は自分が靴を履いていないことにも気づかなかった。それから少しだけ落ち着いてきた頭で、「やばい、全部置いてきちゃった……」と呟く。

「何を?」
「財布も鍵も通帳もスマホも、文字通り全部…………」
「マジで何があったんだよ……」

 光が心配そうな顔で、颯太を見つめる。颯太も「僕にもよく分かってないんだけど……」と前置きをして、事のあらましを話し始めた。

 昨日は優姫と二人で出かける日だったこと。
 苦手なジャンルの映画で、みっともない姿を見せてしまうかもしれないと心配していたが、つつがなくデートは終えられたこと。
 むしろ颯太にとっては限りなく成功に近いと思えるくらい、会話も弾んだこと。

 真っ白なタオルが、血や汚れで赤黒く染まっていく。使わないやつだしいいよ、と光は言ってくれたが、足の裏から足首にかけて拭き終える頃には、タオルは見る影もなくなっていた。

「デートはうまくいったんだ」
「うん、たぶん。でも、なんかその後がおかしくて」

 颯太の言葉を聞いて、光の表情が曇る。しかし、光は続きを促す前に颯太の手を引き、服を着たまま浴室に颯太を押し込んだ。

「気になるけど続きは後。シャワー浴びてこい。早く消毒しないといけないんだから」
「でも着替えも持ってないよ」
「しょうがねえから光くんが貸してやるよ」

 少しふざけた口調でそう言って、光が笑う。その笑顔を見て、颯太は少しだけ日常が戻ってきたような気がした。
 たくさんの意味を込めて呟いたありがとうの言葉に、光は照れ臭そうに頭をかいて、リビングの方へ去っていった。

 シャワーを浴びながら、颯太は何度も悲鳴を堪えなければならなかった。
 先ほどまでは黒く汚れてよく分からなかったが、水で洗い流してみると足の裏の怪我はひどく痛々しい。
 皮はべろんと剥け、かろうじて一部残っている程度。剥き出しの肉は水で洗うだけでも痛かったが、ボディーソープで洗うと激痛だった。裸足でコンクリートの上を長距離走ったせいで、傷ついた肉の間に小さな石が入り込んでいるのを見たときは卒倒しそうになった。
 そのまま放置すれば、化膿してしまうことは間違いない。唇を噛み、必死に悲鳴を堪えながら、颯太は小石を爪先で摘み出した。

 風呂場から出ると、先ほどまではなかったはずの椅子が置いてあった。そこには袋に入ったまま手付かずの新品の下着と、光がたまに着ているスウェットが置かれている。

「光、これ借りていいの?」

 この家のどこかにいるであろう光に呼びかけると、「パンツは返さなくていいからな」と笑いながら返される。いくら親友といえど、新品の下着を借りて、洗って返しますというのはさすがに颯太も抵抗がある。

「代わりにかっこいいやつ買ってくるよ。今財布ないから後でだけど」
「かっこいいパンツって、勝負パンツ?」
「違うから! ダサくないやつって意味!」

 颯太が慌てて言い返すと、光は声を上げて笑った。いつもの調子で話ができている。きっと暗くなり過ぎないよう光が気を遣ってくれているからだ。
 ようやく自分が少し冷静さを取り戻したことに気づき、颯太は安堵のため息をこぼした。

「服着た?」
「まだ。痛過ぎて片足で立てない」
「パンツもまだ?」
「いや、パンツは履いたけど」
「じゃあいっか。お邪魔しまーす」

 そう言って光は脱衣所に足を踏み入れる。その手には大きめなケースを持っていた。

「いや、入ってくんのかい! 確かに光の家だけども! 僕まだ服着てないのに!」
「はい、颯太くんうるさいでーす。座って、まず右足から。消毒始めるぞ」
「パンイチで消毒される恥ずかしさ…………」

 颯太は恥ずかしさに頭を抱えながらも、光に指示された通り用意されていた椅子に座る。確かにせっかく洗ったのだから、すぐに消毒してガーゼなどで保護しなければ意味がない。
 せめてもの抵抗として、颯太は借り物のスウェットを頭から被る。光の方が颯太よりも身体は大きいので、上を着ただけでも下着のあたりまで隠すことができた。
 乙女か! と光につっこまれたが、着ないよりマシでしょ、と颯太は熱い頰を押さえて言葉を返す。

 相変わらず器用な手先で、光は迷いなく消毒から後処置までしてくれた。ガーゼに消毒液を染み込ませ、悲鳴を上げる颯太に構わずしっかり傷口を消毒した後、新しいガーゼと包帯を取り出す。
 包帯は大袈裟じゃない? と颯太は言ったのだが、「デカい絆創膏もあるけど多分痛いぞ?」と光に言われ、包帯にしてもらった。

 両足の処置を終え、立ち上がってみると、先ほどまでのじんじんする痛みは少し和らいでいる気がした。ガーゼと包帯でしっかり保護してもらったからかもしれない。
 颯太はようやく下のスウェットも身につけ、光にお礼を言った。

「ありがとね、光。相変わらず何でもできるね」
「何でもはできないって。必要なことだけだよ」

 謙遜の言葉を口にしながら、光がリビングへと戻っていく。颯太もその後についていくと、テーブルには冷えた麦茶が二人分用意されている。
 さすが光、手回しがいい。颯太が感心していると、光はソファーに腰掛け、隣をぽんぽんと手で叩く。いいから座れ、ということらしい。
 颯太が隣に座ると、光は少し前のめりになって話の続きを促した。