颯太と優姫が連絡先を交換してから、二週間が経った。最初の内は颯太もおそるおそる返信していたが、今では優姫からメッセージが届けばすぐに返事を送れるようになっていた。メッセージのやり取りを繰り返す内に、颯太は気がついたのだ。颯太がどんなに拙い文章を送っても、優姫はバカにして笑ったりしない、と。

 片想い歴、一年と数ヶ月。連絡先を交換してからは優姫とかなり親しくなれたように颯太は感じていた。
 バイトや講義の時間はメッセージが送れず、時間が空くこともある。それでも二人のメッセージが途切れることはなかった。
 ほとんどはとりとめのない話だったが、颯太にはそれも楽しく感じられる。ずっとメッセージで交流しているおかげで、大学で優姫を見つけると、颯太の方から声をかけることも出来るようになっていた。

 親友の光は、奥手な颯太の急成長ぶりに驚きつつも、その調子でデートに誘っちゃえよ、と背中を押してくれた。
 優姫と仲良くなるきっかけになったのは、颯太のドッペルゲンガーだ。話を聞いたときこそ恐怖を感じたが、あれ以来目撃情報は途絶えているので、颯太の中では解決したことになっている。
 もうすぐ二十年を迎える颯太の人生において、初めての追い風が吹いている。そんな気がしていた。

「ほー。じゃあデートの約束したんだ?」
「い、いや、デートっていうか……一緒に映画を観に行こうって話なんだけど」
「デートじゃん!」

 光がけらけらと笑いながら、現在上映中の映画について調べ始める。どれを観るの? と訊かれたので、颯太は数あるタイトルの中から優姫と一緒に観に行く予定のタイトルを指差した。

「知らないタイトルだな。邦画っぽいけど、これ颯太セレクトじゃないよな?」
「うん。倉橋さんが好きなミステリー作家の映像作品なんだって。僕も詳しくは知らないんだよね」

 優姫が嬉しそうに作品や作家について語ってくれたが、颯太は本を読まないので知らないことばかりだ。
 しかし、ちょうど映画化されている作品があると聞いたときは、颯太の方から一緒に観に行かない? と誘った。優姫の好きなものについて、颯太ももう少し知りたいと思ったからだ。

 光が急に黙り込んだので、颯太はどうしたの? と光の顔を覗き込む。どうやらスマートフォンで映画のあらすじについて調べているらしい。
 颯太はまっさらな気持ちで作品を楽しむため、あえて映画のあらすじを読んでいない。優姫も「この作品は絶対に前情報なしで観た方が楽しめると思うよ」と言って、ネタバレをしないよう配慮してくれていた。

「……これ、結構グロいシーンありそうだけど大丈夫か?」
「えっ。そうなの?」
「ん、俺も観たわけじゃないからどの程度かは分かんないけどさ。事前にホラーとグロいのは苦手だって、倉橋さんに言っといた方がいいぞ」

 親友の助言は尤もだ。
 颯太は怖いものが苦手だし、血が飛び散るようなグロテスクな映像はもっと苦手だ。ひどいときには映画の最中に意識が飛んでしまうこともある。
 自分でも情けないと思っているので、克服しようと努力はしているのだ。先日のホラー映画鑑賞会もその一環だった。ただ観るだけでは颯太がすぐに目を逸らしてしまうため、光とどちらが先に音を上げるか勝負していたくらいだ。

 でも、と颯太は心の中で呟く。
 少し苦手なシーンがあったとしても、優姫と一緒に映画を観に行きたい。優姫は優しいので、颯太がグロテスクなものは苦手なのだと知れば、他の映画にしようと言ってくれるかもしれない。しかし、それではせっかくの機会を台無しにしてしまう。
 優姫が楽しみにしている映画も、颯太がそれについて知る機会も、失うことになるのだ。

「言わずに頑張ってみようかな」
「マジ?」

 光が目を丸くする。当然の反応だろう。光は颯太が苦手なものを誰よりもよく知っているのだから。

「元々克服したいと思ってたわけだし。あまりにもグロかったらちょっと目を逸らすとか、他のことを考えて気を紛らわせてみようかなって」

 この場で思いついた手軽な方法で克服できるとは思っていない。しかし恐怖心を和らげることくらいはできるはずだ。颯太の情けない笑顔を見て、光は眉を寄せ、低い声で呟いた。

「まあ颯太の自由だけどさ。無理はするなよ」
「うん。ありがとう、光」

 少し大袈裟にも思える言い方だったが、光は気弱な颯太を本気で心配してくれているのだろう。颯太は素直にお礼の言葉を口にした。


 結論から言えば、デートは成功だったように思う。
 デートの翌日。自宅ベッドの上で、颯太は前日の記憶を思い返していた。狭いワンルームでにやにやしながら思い出に耽っている颯太は、きっとはたから見たら気持ちが悪いに違いない。
 しかし一人暮らしのこの部屋では、誰にも咎められることはない。それをいいことに、颯太はデートの思い出を噛み締めていた。

 当日はずっと舞い上がっていたため、記憶に朧気なところがある。前日の夜から緊張していたので、それも仕方のない話だろう。
 しかし、思い出せる限りでは颯太の言動にまずいところはなかったはずだ。映画以外の時間も、優姫との会話は弾み、ときおり訪れる沈黙も不快なものではなかった。
 少なくとも颯太にとって、優姫と過ごした時間は楽しいものだった。
 一緒にいた優姫も同じように思っていてくれたなら、昨日のデートは成功だった、とはっきり言えるのに。
 確認する勇気はないくせにそんなことを考えながら颯太は枕を抱き抱え、ベッドの上を何度もごろごろと転がった。

 時計の針はもうすぐ十時を示そうとしていた。
 颯太はバイトを二つ掛け持ちしていて、夜は居酒屋、平日の夕方と土日の昼間は本屋のシフトを入れていることが多い。大学生活に支障がないよう適度に休みを入れているが、ほとんど毎日働いているのが現状だ。
 日曜日である今日は、本屋のシフトは休みになっているが、居酒屋のアルバイトには行かなければならない。
 夜までどう過ごそうか、と颯太が考えていたそのときだった。

 玄関の方で、カチャカチャ、と高い音が響く。 隣の家の人が帰ってきたのかもしれない。颯太は最初そう思った。家賃の安いボロアパートなので、壁も薄く、隣家の物音が聞こえてくるのは日常茶飯事だ。
 しかし颯太はすぐに思い違いに気づくことになる。いくら壁が薄くても、隣の家からは決して拾えない音が聞こえてきたのだ。

 ひたひた。ひたひた。
 まるで靴下を履いた誰かが廊下を歩くような。そんな音が、颯太のいる部屋に近づいて来ている。

 全身が強張る。かすかな音も聞き逃さないよう、颯太は全神経を耳に集中させていた。
 玄関のドアは、颯太のベッドからは視認出来ない。玄関を入ってすぐ、左右にトイレと風呂がある。廊下の部屋側に小さなキッチン、向かいにこれまた小さな収納スペース。それらを通り抜けて、颯太がいつも過ごしている部屋に辿り着く。歩数にして、十数歩だろうか。
 緊張する身体とは反対に、やけに冴えた頭で颯太はそんなことを考える。

 ひたひた。ひたひた。
 もはや疑いようがなかった。近づいてくるのは、足音だ。

 ひたひた。ひたひた。
 ぴたり、と足音が止まり、颯太は息を止める。
 部屋と廊下を仕切るためにかけている間仕切りのカーテン。その下に、足が見えていた。ブラウンの靴下を履いた足は、カーテンの前で数秒止まっていた。

 永遠のように長い時間に感じられた。颯太は呼吸もまばたきも忘れ、カーテンの下に見える足を凝視する。
 身体の外にまで響きそうな大きな音で、心臓が鼓動している。颯太が恐怖に支配され、意識を手放しそうになったとき、カーテンの向こうから聞き知った声が響いた。

「颯太くん」
「…………っ」
「颯太くん、いるよね? 起きてる? 入っていい?」

 声の主が誰かを理解した瞬間、数秒前まで感じていた恐怖とは別の種類の恐怖が、颯太の頭を支配した。

 それは、優姫の声だった。
 カーテンの向こう側。鍵がかかっていたはずの玄関から侵入し、優姫はいつもと何ら変わらないやわらかい声で颯太に呼びかけてくる。

「颯太くん。入っちゃうよ?」

 無断で家の中に侵入してきたはずなのに、カーテンより先に進むのは躊躇っているような。アンバランスな気遣いが、余計に颯太の背筋を凍らせた。
 カーテンの隙間からひょこ、と顔を出したのは、赤いワンピース姿の優姫だった。いつもの颯太なら相変わらず倉橋さんはかわいいな、などと考えていたかもしれないが、さすがにそんな余裕は持ち合わせていない。
 颯太は掠れる声で必死に言葉を紡ぐ。

「く、らはし、さん……? なんで、ここに……」

 恐怖のあまり、優姫から目を離すことができなかった。視界の端で何かが震えていた。それが自分の身体だと気づくことも出来ないまま、颯太はパニックになっている。
 対する優姫は、きょとんと不思議そうな顔をしてみせる。颯太の質問の意味が、本当に分かっていないような、そんな表情だった。

「なんで、って……。だって颯太くんが合鍵をくれたでしょ。彼女になれたし、入ってもいいかなって」
「…………え、?」
「あっ、でも寝起きは颯太くんだって恥ずかしいよね。今度からは来る前に連絡するね」

 にこり、とやわらかく微笑む優姫のことが、分からない。
 颯太は優姫の持つ見覚えのある形の鍵に、今度こそ意識を失いそうになった。
 必死で記憶を辿ってみても、颯太と優姫が付き合うことになった、などという事実は存在しなかった。合鍵なんて、もちろん渡していない。仮に付き合い始めたとしても、交際初日に合鍵を渡すほど颯太は女性慣れしていない。

「颯太くん、顔を洗ってきたら? ふふ。寝癖もついてるよ」

 優姫が笑いながらベッドに近づいてくる。ひたひた、とまたあの音がして、颯太は反射的にベッドから飛び降りた。
 そしてパニックを起こしたまま、「そうだね顔を洗ってくる!」と適当な言葉を吐き、部屋から逃げるように飛び出した。