光が自首してから三ヶ月が経った。
 しばらくの間は光の起こした事件について報道番組を中心に賑わっていたが、最近ようやく落ち着きつつある。

 病院にも通い続けているが、ニセくんが消える日はまだ遠そうだ。とはいえ、相変わらず颯太には入れ替わっている自覚はないままなので、もしかしたら頻繁に交代しているのかもしれない。そもそも寛解するのかも分からない。
 しかし、少しずつ向き合っていくしかないのだ。過去にも、未来にも。


 颯太は何度か光と面会をした。会いに行くたびに光はとても嬉しそうな顔を見せ、二人でどうでもいい日常の話をする。やつれきっていたらどうしようと心配していたが、光は意外にも元気だった。

「ここまできたらなるようにしかならないじゃん? それに、いつかは罰を受けなきゃいけないんだよ」

 光は語る。自分の罪を受け入れ、罰を覚悟しているようだった。

「そういえばおじさんの面会、断り続けてるんだって?」
「…………今さら会っても仕方ないし」
「うーん。謝りたいって言ってたよ?」
「は? 会ったの? 颯太と?」

 いや、当たり前か? でもそんな親みたいなこと……、と光はひどく動揺する。
 長年放置され続けてきたのだから、光としては当然の反応だろう。佐久間徹が面会を拒絶されるのも、自業自得なのだ。
 それでも颯太はその伝言を口にした。それは佐久間徹のためではなく、光に救われてほしいからだ。

「光に伝えてほしいって。『今年のインフルエンザは咳が止まらなくなるらしいから気をつけろ』って」
「……ははっ、なにそれ。もっと他に言うことあるだろ」
「下手したら僕よりコミュニケーション下手くそかもよ。……でも、光を心配してるのは本当みたいだった」

 颯太の思ったことをそのまま伝えると、光はしばらく黙った後、そっか、と呟いた。

 ちなみに光と父親が初めて面会したのは、その二週間後。直後に佐久間徹はインフルエンザを発症。数日遅れて光もインフルエンザに罹患し、治った後もしばらくの間、光は咳が止まらなかった。
 あのクソ親父、二度と面会するか! と光は怒っていたけれど、少しだけ表情はやわらかい気がした。

 そんなことを言いながらも、光はその後何度か父親と面会をしている。和解したと言えるのかは分からない。しかし、佐久間親子は少しだけ、過去の遅れを取り戻したのだろう。本来ならば幼い頃から積み重ねてきたはずの、親子の大事な対話の時間。これからも少しずつ取り戻していけばいい。
 そうすればきっと、颯太に依存し、全てを捧げようとしていた光の心も、形を変えていくに違いないのだから。



 冬が過ぎ、春が来て。長くて暑い夏を乗り越えると、秋はあっという間に過ぎ去り、また冬が来る。
 そうして一年、また一年と繰り返していくうちに、あっという間に月日は経っていく。


 颯太は大学卒業後、某有名商社へ入社した。数年間社会の荒波に揉まれ、お金は貯まるけれど使う時間がないという社畜期間を過ごした。身体を壊す前に、颯太は思い切って退職を決めた。
 そして少しの休養と準備期間を挟み、小さなカフェを始めた。

 以前からコーヒーに興味があったわけでもない。祖母に教えてもらったため料理は得意だが、洋食よりは和食派だ。
 カフェのメニューはコーヒー関連各種。他のドリンクは、アールグレイの紅茶とココア、メロンソーダ、オレンジジュースだけ。
 フードメニューもいたってシンプル。メインはサンドイッチで、いろんな具材を試しているところだ。デザートにコーヒーゼリーとホットケーキも用意しているが、もっとメニューを増やしてほしいと言われてしまっている。

 光が隣にいなくなってから、颯太は一人でも生きていけるように、お腹が空いていなくても食事をする習慣を身につけた。相変わらず胃袋は小さいままなのか、残してしまうこともあるが、昔よりは食べられるようになったと思っている。
 フードメニューが増えない理由も、颯太の食への関心が薄いことと、関係があるのかもしれない。
 小さな店を一人で切り盛りしているので、レシピ考案や試食も全部颯太が担当だ。好きで始めたことなので苦痛に感じることはない。ただ、メニューを増やそうにも一度の試食には限界があるので、なかなか成功に繋がらないのが現状である。


 客のいない自由時間、新メニューの案を颯太がひたすら書き出していると、ちりんちりんと店のドアの風鈴が音を立てる。
 いらっしゃいませ、と顔を上げると、店内を見回す客と目が合った。数回店に訪れた客ならば、自ら好きな席に座ってくれる。
 しかし初めて来たその男性客は、座ってもいいですか、と控えめに訊ねた。

「もちろんです、お好きなお席へどうぞ」
「じゃあソファーの席にします。ブレンドと……アイスコーヒーを一つずつ」

 注文を受けて颯太がドリンクの準備を始めると、再び風鈴の音が響く。いつもより心なしか軽やかな音がした。もう来客が誰なのか、颯太には分かっていた。
 顔を上げた颯太は、久しぶり、と笑う。

「そこはいらっしゃいませ、じゃねえの?」
「おじさんにはちゃんといらっしゃいませ、って言ったよ」
「言われたね」
「ええ? 俺だけお客さんじゃない感じ?」

 昔とあまり変わらないふざけた口調で、整った顔立ちの男がカウンター席に座る。

「お連れ様はソファー席にいらっしゃいますよ」
「急に店員口調じゃん。やだよ、なんで親父とコーヒー飲まなきゃいけないのさ」

 変わったところと言えば、親子の関係だろうか。相変わらず突き放すように父のことを嫌う素振りを見せてはいるが、本当に拒絶したりはしない。

「お待たせいたしました。ブレンドとアイスコーヒーです」

 颯太がドリンクをソファー席の方へ持って行くと、先に来店していた男がブレンドコーヒーを受け取る。そしてアイスコーヒーは光にお願いします、と優しい口調で頼まれたので、颯太も眉を下げて笑った。

「お連れのお客様から、アイスコーヒーを頼まれましたのでお持ちしました」
「他人行儀なの、寂しいんですけど」
「お客様から丁重に扱っていただきたいとのご要望がありましたので」
「颯太くん、なんか意地悪になってない?」
「なってないよ、失礼だな」

 二人の視線が交わり、数秒見つめ合った後、同時に吹き出した。

 こんなやりとりを、昔からよくしていた。訳あって会えずにいた親友との久しぶりの再会に、颯太は「いつ戻ってきたの? 教えておいてよ」と思わず膨れてしまう。

「さて、いつでしょう。一、先月。二、先週。三、昨日。どれだと思うー?」
「そうだなぁ、四の今日」
「うっわ、なんで分かったの!? もしかして本当は親父から聞いてた!?」
「違うよ、光は嘘吐くときに癖が出るから、選択肢の中に答えがないって分かっただけ」

 颯太と光のやりとりを聞いて、佐久間徹がくすくすと笑う。光は恥ずかしそうに目を逸らし、アイスコーヒーを口に含んだ。

「光が一番にここに来たいって言い張るものですから……。そのくせオープンしても私には先に店に行くなよ、ずるいだろ! と言うんですよ」
「子どもみたいですね」

 颯太が笑うと、佐久間徹は目を細めて優しく微笑んだ。

「ええ、かわいい子どもですよ」

 その言葉は、子どもへの愛情に気付いた親心ゆえのものだ。しかし光本人は揶揄われたと思ったらしく、「しょうがないじゃん、オープン当日には来られなかったんだから」と膨れている。
 どうやら颯太がカフェを始めたことは、父親から聞いていたらしい。カフェのオープン準備や、慣れない仕事に追われていたせいで、颯太はしばらく光とは会えていなかった。

「それにしてもすごいな。颯太がカフェの店長か……しかもコーヒー美味いし」
「ありがとう。店長って言っても、僕一人の店だけどね」

 試食で作ったシフォンケーキに生クリームを添えて、佐久間徹と光にサービスする。よかったら味見をしてアドバイスをください、とお願いすると、二人はそれぞれコメントをくれた。
 もらったコメントをメモしながら、颯太は「助かります」と二人に伝える。最近こそカフェの仕事のために食についていろいろ調べているが、もともと食事なんて倒れないための栄養が摂れればいいと思っていたのだ。知識は当然付け焼き刃。そしてカフェの店主としても経験の浅い颯太では、メニューの試作にも難航してしまうのも当然だろう。

「本当はアルバイトを雇いたいんだよね。でも個人店だから募集してもなかなか人が来なそうだし、トラブルは避けたいから僕としても雇う人は厳選したいし、って迷ってたところなんだ」

 頭の回転が速い光は、颯太の話の途中で意図を察したのだろう。だんだんと眉尻が下がっていく。困ったような表情を浮かべ、「雇うなら経歴とかもちゃんと調べた方がいいぞ?」と光は遠回しに断ろうとした。

「経歴ねぇ。それ、そんなに大事かな?」
「大事でしょ。昔、取り返しのつかないことをしたことがある人かもしれないじゃん?」

 光はアイスコーヒーをストローでくるくると混ぜる。氷がからん、と音を立てた。
 何に怯えているのか、光はアイスコーヒーに視線を落としたまま、颯太の方を見ようとしない。颯太は小さくため息を吐き、それからわざとらしく肩をすくめてみせた。

「光が僕と一緒に店をやるのは嫌だって言うなら無理には誘わないけど」
「……やっぱり意地悪になってない?」

 ゆっくり視線を上げた光の目には、不安と期待、寂しさと甘えが入り混じっているようだった。

「うーん、意地悪って言われるなら言い方を変えようかな。僕は、また光と一緒にいたいんだけど……光はやだ? もううんざりしてる?」

 きっとそんなことはない。
 服役している間に、光は少し変わった。これからの人生を生きるために、変わらなければならなかった。

「……嫌なわけ、ねえじゃん……。なに、颯太、俺といて大丈夫なの」
「当たり前でしょ。最近はニセくんも出てこなくて僕もひとりぼっちだし……やっぱり隣にいるなら、光がいいかなって」

 カウンセリングのおかげか、ニセくんは随分長い期間顔を出していない。もう存在が消えてしまったのか。それともまだ颯太の中で見守りながら、ゆっくり休んでいるのかは分からない。
 しかしニセくんと交代しないということは、颯太が少しだけ強くなれた証なのだ。
 その事実を伝えて、光を安心させたかった。颯太の心は、昔ほど弱くない。もし今後何かあったとしても、光一人に押し付けて逃げたりしない。ニセくんに入れ替わるつもりもない。
 だからどうか、また隣で笑っていてほしい、と。

 颯太の願いは、今度こそ光に届いたようだ。一瞬だけ泣きそうに顔を歪ませて、それから光は笑顔を見せる。

「じゃあ、手伝わせてもらうかな」
「お、じゃあ早速接客の練習する? おじさんに協力してもらって」
「親父相手に接客するのは恥ずかしいって!」

 二人が顔を見合わせて笑うと、佐久間徹もコーヒーを飲みながら嬉しそうに笑みをこぼした。

「ああ、そうだ。光、言い忘れてた。……おかえり」

 アイスコーヒーを飲んでいる親友に、颯太は大切な一言を呼びかける。それはずっと光に対して言いたかった言葉だった。
 光は飲みかけのアイスコーヒーを置き、口元に笑みを浮かべる。そしてやわらかく目を細め、颯太の目を見つめ返すと、欲しかったその言葉を口にした。

「ん、ただいま、颯太!」

 二人の再会を祝福するように、グラスの氷がからんころんと爽やかな音を立てる。
 店内に流しているBGMもちょうど切り替わり、しっとりしていたメロディーから、明るく華やかなものへと変わった。
 颯太の心が弾んでいるから、受け取り方がポジティブになっているだけで、きっと日常の何気ない音の変化なのだろう。
 しかし当たり前の音すらも、そばに光がいるだけで優しい音に変わっていく。

 そんな、幸せな予感がした。