この世界には同じ顔をした人が三人いる。自分と同じ顔をした人に会うと、その人は死んでしまう。それはドッペルゲンガーと呼ばれ、死をイメージさせる存在となっている。
 生き霊や怪異として語られる一方、脳の機能障害や精神障害によって生じる幻覚だと主張する声もある。後者の場合は、自分自身の姿を見る幻覚だという。
 さらにドッペルゲンガーは、周囲の人間と会話をしない、という特徴を持つ。

「…………俺が知ってるのはこんなとこかな」

 光が語ったドッペルゲンガーの知識に、颯太と優姫は目を丸くした。光は昔から博識だったが、まさかドッペルゲンガーにまで詳しいなんて。ドッペルゲンガーについて名前しか聞いたことのなかった颯太は、思わず感心してしまった。
 優姫も似たようなことを考えていたようで、興味津々に光に問いかける。

「すごいね、佐久間くん。どこで調べたの?」
「オカ研の先輩に聞いてきた」
「オカ研って、オカルト研究サークル? 知り合いだったの?」
「いや、将棋の方で仲良い先輩が紹介してくれたんだよ」

 将棋サークルは光が所属するサークルの内の一つだ。他にも合気道と学園祭実行委員も掛け持ちしている。そして広い交友関係をうまく使い、欲しい情報をすんなりと手に入れてしまうのだから光はすごい。
 感心する二人をよそに、光は話を進めた。

「問題はその颯太らしき人を目撃したのが本人じゃなくて倉橋さんだ、ってことだよな」

 颯太はなかなか理解できなかったが、優姫は数秒考えて光の言いたいことを理解したようだ。

「あ、そっか。笹木くん本人が見たなら幻覚の可能性があるけど、私が見たから笹木くんと同じ顔の別の誰かが確実に存在する、ってこと?」
「そうそう。ドッペルゲンガーを医学的に解釈する場合、あくまで見えるのは『自分自身』の幻覚らしいから」

 二人の会話を聞き、ようやく颯太も理解が追いついた。
 ドッペルゲンガーについては諸説あるが、結局『分からない』のだ。そしていくつかある説のうち、目撃者が優姫であることから医学的な説は否定される。もしも優姫に何かしらの脳機能障害や精神障害があったとして、ドッペルゲンガーという『幻覚』を見るならば、それは優姫の姿でなくてはおかしいからだ。

「それにドッペルゲンガーは喋らないっていうのも、私は初めて知ったから……。やっぱり、本物なのかな……?」

 不安そうな表情で優姫が颯太を見つめる。
 この世界には同じ顔の人間が三人存在する。同じ顔の者と会ってしまうと、その人は死ぬ。
 馬鹿げた話だ、と思う一方で、颯太は寒くもないのに鳥肌が立っていた。颯太の目の前には、不安で表情を曇らせている優姫がいる。優姫のことが好きだ、という贔屓目を抜きにしても、嘘をついているようには見えなかった。

 自分と同じ顔の、優姫からの声かけを無視した男。もしかしたら人間ですらないかもしれない、何か。得体の知れない何かが、身近に迫っている。
 そのことにじわりとした恐怖を覚えながら、颯太は情報を整理するため優姫に問いかけた。

「僕と同じ顔のその人は、確かキャンパス内にいたんだよね?」
「うん。土曜日の夕方、サークルが終わった後だから……六時くらい。学食のところ、一部吹き抜けになってるでしょ? 吹き抜けの下から、学食の端の方の席を見上げてたよ」

 優姫の言葉を聞いて、颯太は全身にぞわりと鳥肌が立った。
 学食の吹き抜け側、端の方。下を行き交う学生を眺めることのできるその席は、颯太がいつも利用している席だったからだ。

 青くなった颯太に気がついたのだろう。光が気遣わしげな表情で颯太を見やり、「やっぱり倉橋さんが見たのは颯太じゃないな」と呟く。

「土曜の夕方、俺と颯太、ちょうど会ってたもん」
「…………え?」

 今度は優姫の血の気が引いたのが分かった。

「颯太が久しぶりにバイト休みだったから、俺んちでホラー映画鑑賞会やったんだよ」
「…………うん。光の家に泊まって、日曜日はそのままバイトに行ったから……」

 颯太は土曜日、大学には行っていない。光の家でホラー映画を観ながら、どっちの方が先にビビるか、というしょうもない対決をしていたのだ。この対決は颯太の全敗だったがこの際そんなことはどうでもいい。
 自分によく似た何かが、颯太のすぐ近くまで迫ってきている。ホラー映画よりよほど気味の悪い事実に、颯太は青い顔で呟いた。

「倉橋さんも、気をつけてね」
「えっ?」
「僕のドッペルゲンガーなら、会っても死ぬのは僕だけだろうけど、気味が悪いでしょ? だからもう僕のドッペルゲンガーに会わないように……って難しい話かもしれないけど」

 せめて話しかけない方がいい。
 そう思ったのにすぐには口に出せなかった。優姫が颯太のドッペルゲンガーを避けるためには、颯太自身に話しかけないようにするのが一番確実な方法である。でもそれは、優姫に想いを寄せている颯太からすれば、ひどく切ない話だ。
 それでもやはり優姫の安全には代えられない。颯太が意を決して「僕に声をかけないようにした方が安全かもしれない」と言うと、優姫は少し首を傾げて笑った。

「嫌だよ。私、笹木くんと話す時間、好きなんだよ?」
「く、倉橋さん……! でも、」
「うん。ドッペルゲンガーの対策はしないとだよね。だから笹木くん、私に連絡先を教えてよ」

 気味の悪い話に怯え、気分が落ち込んでいた颯太だが、優姫のたった一言で気持ちを持ち直したのだった。


 学食に戻ると、颯太のお気に入りの席はすでに他の学生に使われていた。しかし先ほどの話を聞いた後では、空いていたとしても他の席を選んだに違いない。
 広い食堂も昼になったため席はほとんど埋まっていた。空いている席が少なかったので、颯太と光は横並びに席を取ることにした。

「よかったな。倉橋さんの連絡先聞けて」
「それは本当に。ありがとう、光。後で何か奢るよ」
「ラッキー。じゃあアイスな! 半分こできるやつ」

 大盛りの唐揚げ定食を食べながら、光はこの後売店に買いに行こうぜ、と笑う。相変わらずよく食べるなぁ、と感心してしまうが、一般的な大学生男子と比べて変わっているのは颯太の方だろう。
 食に関心がなく、倒れない程度に食べればいいと思っている。食費の節約にもなるし、颯太はそれでいいと思っているのだが、親友の光はどうやら心配してくれているらしい。何かと理由をつけて食事に誘われたり、ちょうど今のアイスの話のように、颯太が一緒に食べられるものを選んでくれる。
 友人の優しさはくすぐったいようで、でも颯太にはとても心地よかった。

「倉橋さんも考えたよな。話しかける前に必ずメッセージを送る、って」
「僕からの返信を待って声をかけるっていうのも安心だよね。それなら倉橋さんが間違って、……同じ顔の人に話しかけるのを防げるし」

 人の多い学生食堂で、ドッペルゲンガーという単語を口にするのは憚られた。光が報告してきたときは颯太も冗談だと思っていたが、今はその存在を信じてしまっている。真面目な口調でドッペルゲンガーについて語っていたら、どんな噂が広まるか分からない。
 ふと、光が真面目な表情で、颯太をまっすぐに見つめた。

「……倉橋さんだけじゃなくて、颯太も気をつけろよ?」

 どう考えても一番危ないのは颯太なんだから、と付け足された言葉に、颯太は頷く。しかし颯太にできることは少ないように思えた。
 大学とバイトは休めない。颯太が気をつけようと思っていても、向こうが会いに来てしまったら顔を合わせることになってしまうのだ。
 光は少し眉を寄せ、「死因って分からないじゃん」と物騒なことを呟いた。

「ほら、『そいつ』にばったり会ったとしても、その後については分からないじゃん?」
「ああ、なるほど。会った瞬間に突然死するのか。もしくは少し後に不幸に見舞われるか、ってことね」

 颯太の言葉に、唐揚げを頬張りながら光は頷く。大きな唐揚げが六つほど乗っていた皿は、いつの間にか空になっている。
 光はしっかり咀嚼して口の中のものを飲み込むと、颯太に笑いかけた。

「まあしばらくは俺がボディーガードしてやるよ!」
「ん? なんで?」
「だって連れ去り系とか巻き込まれ系なら、俺が一緒にいれば防げるかもだろ? それにもし突然死したら、俺がAEDを使って救急車も呼んでやるから安心しとけ!」
「パワーワードにもほどがあるでしょ…………!」

 まさか親友の口からもしも突然死したら、なんて言葉が出てくるとは想像していなくて、颯太は思わず笑ってしまった。
 颯太の笑顔を見て、光も安心したように笑みをこぼす。その反応を見て、自分がずっと険しい顔をしていたのかもしれないと颯太は気がついた。
 一風変わった励まし方も、まっすぐな優しさも、光らしい。
 颯太は頼もしい親友にアイスを奢り、二人で半分こすることにした。