同窓会の帰り際、花梨が光と颯太の二人に対してまたね、と言ったこと。そして颯太もまたね、と返したことが、光の不安を煽ったらしい。
このままでは花梨が颯太に接触し、ニセくんについて話してしまうかもしれない。そう考えた光は、颯太が寝込んでいて動けない間に、花梨を説得しようとした。
「それにしてもよく覚えてたな。俺が水曜日の夜になかなか帰ってこなかった、なんて」
「ごめん。光の家のリビングに…………カメラ、仕掛けてたんだ」
その告白は、光に嫌われる可能性のある、とてもリスクの高いものだ。本当は言いたくなかった。隠しておけるなら、いつまでも秘密にしておきたかった。
自分の意思で実行したこととはいえ、颯太は怖かったのだ。ずっと自分を守り、支えてくれた一番の親友、光の信頼を失うことが。光に嫌われてしまうことが怖くてたまらなかった。
もしかしたら光は、ずっとこんな不安を抱えていたのだろうか。颯太の両親を殺した後、颯太がショックで真実を忘れてしまったから。
もしも颯太に本当のことを話したら、軽蔑されて、嫌われてしまうかもしれない、と。そう考えていたのかもしれない。
颯太の不安は杞憂に終わった。光は「カメラ?」と首を傾げた後、数度目をまたたかせ、あーなるほど、と納得したように呟いた。
「花梨にヒントをもらったって言ってたけど、そういうことか。その方法なら花梨は俺との約束を破らずに済むし、颯太にニセくんの存在を教えることもできる。しかも口で説明するよりよっぽど分かりやすい」
あいつ、ズルいこと考えるなぁ。と光がため息をこぼしたので、颯太はおそるおそる訊ねた。
「本当にごめん……。怒ってる……?」
「花梨に? そりゃあ怒ってるけど」
「いや、西野さんじゃなくて、僕に」
「颯太に? なんで俺が颯太に怒るんだよ」
心底不思議そうな顔で光が首を傾げる。颯太が抱いた不安はあっさり否定されたが、代わりに光は花梨への怒りを抱いてしまったようだった。
花梨は悪気があったわけではなく、光を心配して行動しただけだ。そのことを説明しても、光は眉をひそめるだけだった。
しかしどんなに光が怒っても、どんなに颯太が庇っても、失われた命は戻らない。花梨は還ってこないのだから。そんな問答には意味がない。
颯太は最後に確認として、光に訊ねた。
「光、水曜日の夜、西野さんと会ってたって言ったけど、事故の場所にはいなかったんだよね……?」
「うーん、いた、かな。俺が先に店を出て、花梨が追いかけてきてたから」
「それ、どういうこと……?」
おそるおそる颯太が訊くと、光は淡々と説明をしてくれた。
事故の夜、光は花梨にアポイントなしで会いにいった。相手が他の誰かだったなら、花梨は理由をつけて断ったかもしれない。しかし相手は花梨にとって長年の想い人である光だ。きっと花梨は喜んで応じたに違いない。
光は個人経営の居酒屋に花梨を連れて行き、二人で話をしたという。話の内容はもちろん颯太に関する秘密について。
花梨が颯太に接触しようとしているのを察知し、光は改めて釘を刺そうとした。
「俺が一人で抱えるべきじゃないとか、私も一緒に支えるから、とか。花梨の言い分もそこまでは分かるよ。でも颯太にも真実を知る権利があるって言い張ってさ。颯太が本当のことを知ったときに、心が耐えられる保障がどこにあるんだよって、ケンカになった感じかな」
「…………そう、なんだ……」
どうしたっていつも光の優先順位の一番は、颯太だった。そのことは颯太にとっては嬉しくて、ありがたいと思う。生きる希望や勇気を、光からたくさんもらってきたのも事実だ。
でも颯太のことを優先するあまり、花梨や優姫を、精神的にも物理的にも傷つけてしまったことも、揺るがない事実なのだ。
どんな言葉をかけるのが正解なのか分からず、颯太は相槌を打つことしかできなかった。光は気にした様子もなく、話の続きを語る。
「俺が怒って先に店を出たんだよ。さすがに花梨に払わせる気はなかったし金は置いてきたんだけど。……花梨はなんでか俺のことを追いかけてきて」
光の声がかすかに震えた気がした。それでも光は口をつぐむことなく、話し続ける。
「俺は大通りを渡って、タクシーに乗り込んだんだよ。まさかそこまで追いかけてくるなんて思わないじゃん。そしたら聞いたことのないようなデカい音がして……」
暗闇の中で目を凝らしたら、トラックの下に花梨が倒れていた、と光は言った。ぼんやりとした目には、不思議と感情の色が見えなかった。
ふと、嫌な考えが颯太の頭をよぎる。
もしかしたら光の心は、すでに壊れかけているのかもしれない、と。
花梨は秘密について情報をくれたとき、光のことを心配していた。光が抱えている秘密は、一人で抱えるには重すぎる。光はいつか耐えきれなくなって、狂ってしまうのではないか、と。
しかし花梨が知ったのは、あくまで光の抱える秘密の一つだった。本当は颯太の別人格の存在だけではなく、颯太の虐待のことや殺人を犯したこと、自分のせいでニセくんが生まれたかもしれないと光は自分を苛み続けてきた。
逃げてしまえば楽になれたはずなのに、光は逃げなかった。それはなぜか。簡単な話だ。
大事なことを全て忘れ、身体の中にニセくんという人格を抱えたまま生きる颯太を、守るため。
颯太の身の回りに起きる、ありとあらゆる危険から颯太を守り、平凡で、でも幸せな生活が送れるように。
何も知らずに守られて、平和な日常に笑う颯太の横で、光はずっと罪を背負い苦しみ続けていたのだーーー。
ぽつり、と涙がこぼれた。一粒こぼれれば、その後は堰を切ったように涙は止まらなくなる。
颯太? 大丈夫か? と心配する光の声に、颯太は何度も頷く。
「……っ光、今度はもう、忘れたりしない…………っ」
「颯太…………?」
「もう一人で抱え込まなくていいからっ、僕もちゃんと、強くなるからっ……!」
泣きながら訴えかけるけれど、涙で滲んでしまい、光の表情は確認できない。颯太はぼろぼろと溢れる涙はそのままに、必死に言葉を紡いだ。
「もう二度と! 光一人に押し付けたりしない! 僕が背負うよ、今まで光が背負ってくれていた分、全部……!」
篠塚家強盗殺人事件。倉橋優姫の殺人。そして西野花梨の事故。
全て颯太がしたことにしてくれていい。花梨は本当に不幸な事故だったが、他の二件は違う。颯太には両親を殺す動機がある。虐待をされていた証拠は残っているので、動機の証明にもなるだろう。
優姫のことも、痴情のもつれで殺してしまった、と言えばいい。前日にデートをしていた相手が颯太であるということも、防犯カメラや店員からの証言が得られるはずだ。
光のしたことは全て、颯太のためだった。だからその罪は颯太が償う。
今まで颯太のために生きてきた時間を、光に返してあげることはできない。でも、これから颯太のせいで奪ってしまう未来は、守ることができる。そう思っての言葉だった。
しかし、光は頷かなかった。震える声で、嫌に決まってるじゃん、そんなの、と呟く。
「颯太がいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいい……? 俺が勝手にやったんだよ……! 俺が颯太のことを失いたくなくて、俺の意思で選択してきた! 颯太のためなんて言えば聞こえはいいかもしれないけど、違うんだよ……っ。いつだって主語は『俺』なんだ……。俺がっ……颯太がいないと、生きていけなかっただけなんだ…………! 颯太を守ってたんじゃない、俺がずっと…………颯太に守られてたんだよ…………っ」
親友の悲痛な叫びに、颯太は耐えきれなくなって声をあげて泣き出した。
強くなると決めたばかりなのに、どうしても堪えることはできなかった。
どうして光がこんなにも、颯太に依存してしまったのかは分からない。以前、光は言っていた。颯太が光のようになりたい、と言ってくれたことが、光にとっての救いになった、と。
ではもしも最初にその言葉を光に投げかけた人が、颯太ではなかったら。そうしたらこんな悲劇は起きなかったのではないか。
いつ割れるかも分からない、薄氷の上を歩くように。光はずっと神経をすり減らして生きてきた。
自らの手を汚し、自分のためだと言いながら颯太を守り続けた。人を、殺めてしまった。颯太がそのことを忘れてしまっても、そばでいつも明るく笑い続けていた。
颯太の人生は、悲劇の連続だったかもしれない。はたから見れば、きっと不幸な星の元に生まれた男で、同時に疫病神でもあるだろう。
恵まれた家庭に生まれ、でも両親の期待に応えられなかったために、愛されることはなく、暴力を振るわれた。助けを求めた親友は、両親を殺してしまった。ショックで新たな人格が生まれ、そのことすら颯太は忘れた。颯太が別人格の存在を知ることのないよう、親友はまた一人、友人を殺してしまうーーー。
光にとっても、颯太と出会ってしまったことは悲劇の始まりだった。颯太に出会わなければ。颯太の言葉に救いなんて求めなければ、光は苦しまずに済んだのだ。もっとたくさんの人に愛されて、必要とされ、誰からも尊敬され、羨まれる人生を送ったに違いない。
それでも、と颯太は心の中で呟く。
たとえ颯太が疫病神だとしても。光を誤った道に引き摺り込み、苦しめてしまったとしても。
それでも颯太は、光に出会えてよかったと思ってしまう。
「光……、ごめん、僕はたぶん…………光の人生を、狂わせた……」
「…………っ」
「でも……こうなるって分かっていたとしても……やっぱり……っ、僕は光に、助けを求めたと思う……。そばにいてほしいって、願ったと思う……」
だから、本当にごめん……。
颯太の掠れた声に、光は肩を震わせしゃくりあげる。しばらく声にならぬまま泣き続けた後、光は聞いたことのないほどしゃがれた声で、颯太に笑いかけた。
「颯太、そんなの……最高の殺し文句だよ……」
颯太が涙を拭うと、ぐしゃぐしゃの顔で泣いている親友がいた。
その手は血に汚れているのかもしれない。それでも、光の涙は透き通るように綺麗だった。