颯太が実家に行き、祖父母の家に泊まった日。
虐待の事実を知った颯太は、絶望した。親にも愛されていなかったのなら、颯太には生きる価値などないのかもしれない、と。
冷静に考えれば、そんなことはない。たとえば親に捨てられた子どもは深く傷つくけれど、いつか誰かに必要とされ、愛されるのだ。
颯太だって同じだ。虐待をされていたことは紛れもない事実。実際に映像として記録が残っている以上、颯太に記憶がなかろうともその事実は消えることがない。
しかし、颯太は絶望のふちで思い出した。
両親を亡くした颯太を引き取り、新しい苗字をくれた人がいた。虐待の事実を忘れている颯太が二度と辛い記憶を思い出すことのないよう、証拠を隠してくれていた人がいた。
辛かったとき、毎日会いに来てくれた人がいた。自傷行為をしようとした颯太を、必死に止めてくれた友人がいた。生まれてしまった別人格に颯太が乗っ取られることのないよう、身を挺して守ってくれた人がいた。
颯太は両親から愛されることはなかったのかもしれない。でも颯太は、ちゃんと愛をもらっていた。祖父母から、光から。そして、ニセくんから。
ニセくんからのメッセージ。それは、とても簡素なものだった。
『逃げろソウタ。犯人はヒカルだ』
最初はもちろん疑った。倉橋優姫をたらし込み、颯太に恐怖を与え身体を乗っ取ろうとしたように。
ニセくんは光を利用しようとしているのかもしれない、と。もしくは颯太の中の光への印象を操作し、疑心暗鬼にさせたいのかもしれない。
光の目的は颯太とニセくんの意識の統合。つまり、ニセくんを消すことだ。それはニセくんにとって都合が悪い。だからニセくんは、厄介な光から颯太を引き離そうとしている。颯太は最初、そう考えた。
しかし、ふと気がついたのだ。颯太は意識を手放すとき、もう身体をニセくんにあげてしまっていいと、そう思っていたことを。そして実際に、颯太が意識を失った後、ニセくんは目を覚ました。
颯太側の状況はニセくんには筒抜けのはずだ。颯太の身体を乗っ取ることが目的ならばこの上ないチャンスだったことも、ニセくんには分かっているはず。
だとしたら、ニセくんはどうして颯太にメッセージを残し、再び颯太の中に戻ったのか。颯太に身体を返す前にわざわざパーカーを羽織った意味は。
先入観を取り払えば簡単な話だった。
颯太は、最初から間違っていた。ニセくんは颯太の身体を乗っ取ろうとし、颯太を陥れようとしているわけではない。ずっと、颯太のことを守ってくれていたのだ。そもそも颯太の心を守るために生まれた人格。ニセくんが颯太に危害を加えるなんて、そんなことがあるはずはなかった。
思えばデート中に入れ替わり、優姫と交際することになった件。あれも、ニセくんなりのエールだったのではないか。
あの時点で颯太は優姫に好意があった。ニセくんはその後押しをしてくれた。彼女として、優姫が颯太を支えてくれるように計らったのだとしたら?
颯太が世間に馴染めるように。颯太が光を失ったとしても、生きていけるように。颯太の心の拠り所を作ろうとしてくれていたのかもしれない。颯太が誤った受け取り方をしてしまっただけで、最初からニセくんは颯太の味方だったのだ。
「ねえ、光。全部教えて。怖いよ。こわいけど、僕は真実を知らなきゃいけない。だからお願い、全部話してほしいんだ」
颯太は頭を必死で回しながら、光に呼びかける。光は未だ両手で顔を覆ったまま、表情は読めない。
ようやく手を下ろしても、光は俯いていて、颯太の顔を見ようとはしなかった。
「僕は光に助けを求めた。お父さんとお母さんなんて死んじゃえばいいのにって。そうすれば幸せになれるのにって、そう言って、光に泣きついた」
「…………」
「俺が何とかしてやるって。光はそう言ってくれたんでしょ。違う?」
泣き出してしまいたかった。こんな風に、親友を追い詰めたかったわけじゃない。
きっと過去の颯太が望んだ未来は、暴力などない平和な毎日だった。そしてそれは、光の手によって与えられた。歪な記憶とつぎはぎだらけの過去、曖昧な人格。颯太が背負ったものなんて、親友に負わせたものに比べれば軽いものだ。
颯太は何も知らないまま……、何もかも全てを忘れたまま、光一人に全てを背負わせた。汚れた過去と、一生拭い去ることのできない、重い罪を。
長い沈黙が流れた。まとわりつくような空気は、颯太の心も身体も重くする。それでも颯太は顔を上げていなければならなかった。
光は何度か口を開いては閉じ、しばらくためらった後、ようやく言葉を紡ぎ始めた。
「算数の小テスト。俺はいつも満点で、それが当たり前だった。颯太もいつも成績は良くて、でもテストが返ってくるとすごく怯えた顔してた」
「……成績が悪いと、お父さんに殴られるから」
「うん。俺、あの日までずっと知らなかった。自分のせいで颯太が殴られてること」
光のせいじゃないでしょ、と颯太は言うが、俺のせいだよ、と光は呟く。颯太の父は一番にこだわっていたようだから、光の存在が颯太の害になっていたのだ、と。
「……颯太を助け出す方法を考えたんだ。学校の先生に相談するとか、警察に話すとか……。でも、颯太の両親がうまく誤魔化して虐待がなかったことになったら? 颯太は誰かに話したことを責められる。いつもよりひどい暴力を受けるかもしれない」
ぽつぽつと語りながら、光は肩を震わせていた。怖かったんだ、と呟く声に、颯太は何が? と訊ねる。いつか颯太が殺されるかもしれないと思った。光は掠れた声でそう答えた。
「……光は、それで……何をしたの?」
この問いを口にするときは、颯太の声も震えてしまった。
颯太には記憶が戻ったわけではない。だから、光の答えがどちらか分からないのだ。
誰かに依頼をして颯太の家に強盗が入るよう仕向けたのか。
それとも光自身が、颯太の両親を殺したのかーーー。
後者は現実的ではないように思えた。事件が起きたのは二人が小学六年生の頃。身体が成長期を迎える前だ。いくら油断していたとしても、大人が子どもに殺されるなんてことはないだろう。そう思いたかった。
しかし颯太の希望はあっさり打ち砕かれた。光は自らの手で颯太の両親を殺したと語ったのだ。
乾いた笑いと共に、光は事件について語っていく。
事件の夜、颯太の家を訪ねた光は、颯太に借りてたノートを返しにきた、と父親に告げた。最初は子どもがこんな時間に外を出歩くなんて、と颯太の父は嫌な顔をしたらしい。しかし光が佐久間の名を口にすると、態度は一変した。
そして颯太は今手が離せないからノートを預かると主張する颯太の父に、光は笑顔で魔法の言葉を口にした。
『僕の一番仲のいい友達だって話したら、僕の父が颯太くんとご両親に挨拶したいって言っているんです。夜遅くだから、少しご挨拶するだけだとは思うんですけど……父は今近くの駐車場に車を停めているので、もうすぐ来ると思います』
それは口八丁の嘘だったが、権力に弱い大人にはとても効果のある言葉だった。
颯太の父は光を玄関に待たせ、慌てた様子でリビングに戻っていく。光は靴を脱いで家に上がり、颯太の父を追ってリビングに入った。
そこで光が見たのは、テレビ台の下にある物入れから、頭から血を流す颯太を力任せに引っ張り出す父、というひどい光景だったらしい。
「頭に血がのぼってさ。家から持ってきてたでっかい包丁を、腰のあたりに思いっきり飛びかかって、刺した」
「…………っ」
「包丁抜いたら、すごい血が飛び散った。おじさんはよろけて、でも俺の方に向かってくるんだよ。生存本能なのかね、すげー怖かった」
「ひ、ひかる…………」
「でも俺が負けたら、本当に颯太が死んじゃうかもしれないじゃん? 必死に……五回くらい? 刺したんだよ。まあ、あとで聞いた話では十二回刺してたらしいけどさ」
名前を呼んでも、光は喋るのをやめなかった。ずっと抱えてきたものを、ようやく言葉にできたからか。これ以上は隠せないと腹を括ったせいもあるかもしれない。
怖かったと言いながらも、淡々と語り続ける光に、颯太の全身から血の気が引いていく気がした。
「おばさんの方は、逃げるばっかりで面倒だったな。死んだかどうか分からないから、とにかく刺すしかなくてさ。二人目だったから、腕が本当にしんどかったな」
光、と颯太が再び名前を呼ぶと、先ほどまでの饒舌が嘘のように、光は口をつぐんでしまった。
そして相変わらず颯太の顔を見ないまま、光は顔を上げた。今にも泣き出しそうな顔で、目には怒りの色が含まれている。口元には不自然な笑み。見たことのない歪な表情は、光の複雑な心境を表しているのかもしれない。
「…………颯太は、気を失って。でもすぐに目が覚めた。大丈夫? って俺が訊いたら、お前のせいだ、って言われたよ」
それが俺とニセくんの初対面。
苦しそうに吐き出された言葉に、颯太はどんな言葉をかければいいのだろう。
颯太を虐待から救い出すために、光は颯太の両親を殺した。自分で助けを求めたくせに、颯太はその事実に耐えられず、ニセくんを生み出してしまった。
「颯太は自分の心を守るために、このことを忘れる。お前が自分の両親を殺したことを知ったらさぞ苦しむだろうな。お前はどうする? って、ニセくんは言った」
「……それで、強盗の仕業に見せかけた……?」
「ん。今思うとかなり杜撰だったけどな。勝手口の鍵を外からこじ開けて、後は金目のものを盗んだだけ」
光はそこまで話すと、再び俯いてしまった。
颯太の家からは、犯人の痕跡らしきものはほとんど見つからなかった。母が愛用していた宝石や、現金、財布、時計などの高価なものが失くなっていたため、強盗殺人事件として扱われたのだ。
両親は滅多刺しにされたのに、颯太だけ助かったこと。そのことをずっと疑問に思っていた。
しかし蓋を開けてみれば、颯太に怪我をさせたのは実の父。そして最初から颯太を救い出すための殺人事件だったため、当然颯太は殺害対象に入っていなかった。世間を騒がせた強盗殺人事件の犯人が、被害者の子どもの同級生、それも小学生だなんて、誰も想像できなかったに違いない。
何も知らない颯太は、身勝手な行動で光を苦しめ続けた。
ごめん、と泣いて縋ることは簡単だ。謝ればきっと、優しい光は許してしまう。いいんだよ、俺が勝手にしたことなんだから、と泣きそうな顔で笑うだろう。
長年の付き合いなのだ。そんなことは簡単に想像できてしまう。
でもそれは、颯太が楽になるためだけの儀式であり、光が求めているものではない。颯太が口にすべきことは、もっと他にある。
颯太が光の名前を呼ぶと、光は力なく顔を上げた。
視線が宙を彷徨うので、颯太はじっと光を見つめる。しばらくすると観念したのか、ようやく光が颯太の目を見た。その目はとても不安そうに揺らいでいた。
「知ってると思うけど、僕は両親を殺されて……かなりショックだった。どうして自分だけ生き残ったんだろう、一緒に死んじゃえばよかったのに、って。何度も思ったよ」
「…………」
「生きてることが苦しかった。でもさ、ずっと光がそばにいてくれたじゃん。本当にしょうもない話をして、僕のこと笑わせてくれて」
「………………」
「光のおかげで生きてこられた。虐待の……ことも、知ったら余計に。…………うまく言えないけどさ、光にずっと助けられてたんだなって思ったよ」
颯太の目に、涙が浮かぶ。光は唇を噛んだまま、何も言わなかった。じっと颯太の目を見つめ、何かを待っていた。
「前に光、言ってたじゃん。僕に思い出してほしい……許してほしいことがある、って」
光の表情が強張る。以前光が話していたのは、間違いなくあの事件のことだ。颯太の両親を殺害したことかもしれないし、颯太の中にニセくんを生み出してしまったことかもしれない。本当のことは光にしか分からないけれど、颯太は一つだけ自信を持って言えた。
「許すとか許さないとか、そういう次元にいないよ。そもそも僕が助けを求めて、光はそれに応えてくれただけなんだから」
「…………違う」
「違わない。光、いいよ。僕は光に怒ったりしてない。責めたりもしない。いろいろ背負わせてごめんって気持ちはあるけど、それよりももっと……」
不適切な言葉かもしれない。
間違いなく、光と颯太以外の誰かが聞いたなら、なんてことを言うんだ、と怒るに違いない。それでも颯太は言いたかった。
「ありがとう、光。僕を助けてくれて。地獄から引っ張りあげて……その後もずっと、守ってくれて」
そのとき、張り詰めていた緊張が途切れたのだろう。光の目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れてはテーブルを濡らしていった。
颯太も涙の浮かんだ目を擦り、目線を落とす。
きっと光は間違っている。
そんな光を肯定する颯太もまた、どうしようもなく間違っている。
でも、呼吸をするのも苦しかったこの世界で、颯太を救ってくれたのは光だったから。
テーブルの上では、すっかり冷めた料理が、食べられるのを今か今かと待ち望んでいた。