疲れ果てた颯太は、祖父母の家に一晩泊まらせてもらうことにした。祖父母は久しぶりに孫が泊まっていくことが嬉しいようで、わざわざ出前でお寿司を注文してくれたほどだ。
 食事をとって風呂に入った後は、颯太が以前使っていた部屋に戻る。久しぶりに入るのに、隅まで掃除が行き届いている。きっと祖母が定期的に掃除をしてくれているのだろう。颯太がいつ帰省しても迎えられるように、と。その優しさが颯太の心をやわらかく包んでくれた気がした。


 颯太は自分の部屋で、実家から持ち帰ってきたアルバムを隅々まで調べた。アルバムはまさに颯太の成長記録で、生まれたときから小学六年生、つまり両親が亡くなる直前まで、こまめに写真を撮っていたようだ。大きくなるにつれて写真の枚数は減っているが、それでも撮ってくれていたことを嬉しく思えた。
 入学式や運動会、誕生日などのイベントごとだけでなく、宿題をしている姿まで写真に残されている。

 アルバムを見る限り、平和な家族の日常を切り取った写真ばかりだ。やはり先ほど実家で頭に浮かんだ映像は、気のせいなのかもしれない。
 血が出るほど頭を殴られたり、テレビ台の下の物入れに閉じ込められたり。そんな残虐なことをする人たちは、我が子の成長記録を残したりなどしないだろう。

 それでも強盗事件やニセくんについての手がかりになるようなものが何か一つでも見つかれば、と思い、颯太は作業を続けた。アルバムを全て見終えると、再び日記帳を開く。実家にいたときは二冊しか見られなかったので、残りの日記にも全て目を通す。
 知らないおじさんがやってきた、とか、言い争っている声がした、などという記録があれば手がかりになったのだが、日記のどこにもそのような言葉は書かれていなかった。
 至って普通の、小学生らしい日記だ。平凡でつまらない、でも決して戻ることのない幸せな日常。
 感傷に浸りながら日記を眺めていると、あるページが波打っていることに颯太は気づいた。日記帳の表紙も裏表紙も綺麗なまま。それなのに、日記のページの一部が奇妙に歪んでいる。ページを開いた状態で水をこぼし、それが乾いたような歪み方だ。
 水をこぼしたのなら、数ページにわたって染み渡り、同じ位置に歪みが生じるはず。しかし隣り合うページに濡れた形跡はない。つまり、もっと少ない水分量の何かで濡れ、乾いた跡なのだ。

 なんとなく気になって他の日記帳も手に取ってみたが、同じような歪みがいくつか存在した。
 よく観察してみると、紙が歪んでいるページは必ず消しゴムの跡が残っている。なんだか嫌な予感がして、颯太は前後数ページをしっかりスマートフォンのカメラにおさめた後、鉛筆を取り出した。

 消しゴムの跡が残っている紙を一枚めくり、その下のページを思い切って鉛筆で色付けていく。全体を黒く塗りつぶすと、上のページに書かれていた文字が浮かびあがってきた。
 一度日記をしたため、消しゴムで消し、新しく書き直しているので、二回分の文字が下のページには写っている。文字の跡が重なっているせいで読み取るのは容易ではなかったが、颯太は一字ずつ丁寧に読み取り、消される前の文字を書き出していった。

「お……とう、さ……ん…………とじ……こ、め……ら……」

 書きながら読み上げていくうちに、颯太の頭の中に文章が出来上がっていく。
 先に続く言葉を予測し、颯太はゾッとした。

『お父さんに、とじこめられた。テストが一番じゃなかったから。またいつもの場所。暗くてこわい』

 頭から血の気が引いていくのを感じながら、颯太は日記をめくる。他にも歪んだページがあったはずだ。
 同じ方法で文字を書き出していくと、水に濡れた跡と消しゴムで消した形跡があるページには、必ず父から受けたきつい躾の内容が書かれていた。

『頭をたたかれた。目の上が切れて、いっぱい血が出た。でも満点を取れなかった僕が悪い』
『昨日たたかれたところが赤くはれていた。お父さんに言ったら学校を休んで勉強してなさいって言われた』
『お父さんにおなかをなぐられた。お母さんは笑いながらカメラでとってた。僕がたたかれると、お母さんはうれしそう』
『体育の着替えのときにおなかのアザを光に見られた。どうしたのってきかれたから、お父さんに言われた通り、なんでもないよって答えた』

 書き出していくうちに気味が悪くなっていく。
 だって颯太にはそんな記憶、一つも残っていないからだ。
 震える手で日記の歪みを探し続ける。途中で颯太は気がついた。ページが歪んでいるのは、きっと涙の跡だ。子どもの颯太が泣きながら日記を書いていたということだ。
 そして、書いたものを両親に見つかるのが怖くて一度消し、上から別の内容で書き直していた。もしくは、両親に見つかり、無理矢理修正させられたのかもしれない。

 どちらにせよ、ひどい内容だった。
 一見平穏で幸せな日々の記録。その中に、隠されていた真実は、颯太の心を抉るには十分すぎるものだった。
 事件前日で、日記は終わっている。最後のページにも歪みが存在したので、颯太は同じように文章を救い出す。

『全部話した。泣きながら話したら、ちょっとスッキリした。そんなのおかしいよって言われた。助けてって言ったら、おれが全部何とかしてやるって言ってくれた。かっこいいなぁ。お父さんもお母さんも死んじゃえばいいのに。そしたら毎日が幸せになるのに』

 そこで日記は終わっていた。上から書かれていた文章は、『授業が終わった後に先生に質問したら褒められた。学校が終わった後は友達の家に遊びに行った』という内容だった。

 幼い颯太が、自分の受けている虐待について相談した相手。
 学校の先生だとしたら、警察か児童相談所に連絡されているはず。その後すぐに事件が起きたとしても、何かしら聞き取り調査などのアクションがあったのではないか。事件前後の記憶があやふやなので、颯太が覚えていないだけ、という可能性もあるが、少なくとも祖父母には連絡がいっているはずだ。
 先生ではないとしたら、学校の友達だ。初等部の頃からの友達で、家に遊びに行くほど仲のいい相手。そして、『おれが何とかしてやる』という言葉。
 颯太の頭がずきんと強く痛んだ。突然訪れた頭痛はどんどん激しくなり、颯太の目に生理的な涙が浮かぶ。


 まだ、確認作業は残っている。アルバムと日記は見終えた。あとは、幼い颯太が記録していた通りなら、どこかに動画があるはずだ。虐待の決定的な証拠になる映像が。
 ずきずきと痛む頭を押さえながら、颯太は居間へ足を運び、祖父母に訊ねた。

「どこかにお父さんとお母さんが撮っていた映像の記録、ないかな。今日実家に久しぶりに戻って思い出したんだけど、お父さんとお母さんはイベントのときとか、日常でも動画を撮ってたと思うんだよね」

 颯太の問いを聞き、祖父母が顔を見合わせる。祖母は泣き出しそうな顔をし、祖父は眉をひそめて「見ない方がいい」と言った。以前の颯太なら、祖父の言葉を都合のいいように解釈していただろう。
 幸せな日常の動画を見てしまったら、両親はもう還らぬ人だと思い知らされて颯太が苦しむだけだから、やめた方がいい。祖父はそう心配してくれているに違いない、と。

 祖父も祖母も、颯太のことを心配してくれているのは確かだろう。しかし同時に気づいてしまった。祖父母は両親が颯太に虐待していたことを、知っている。そして、なぜかその事実を忘れていた颯太のために、ずっと隠してくれていたのだ、と。

 当然かもしれない。両親が強盗に殺され、自分だけ生き残ってしまった、というだけでも境遇としてはかなり不幸だ。それなのに、そもそも両親から颯太は愛されていなかった。もともと幸せですらなかった。そんな事実を、親を失ったばかりの子どもに言えるはずがない。

「心配してくれてありがとう。でも、ちゃんと確認したい。僕の身に何が起きていたのか」

 どうしてもう一つの人格が生まれたのか。
 その言葉はギリギリ飲み込んだ。祖父母はニセくんの存在を知っているのか、分からなかったからだ。

 颯太の覚悟を聞き、祖父が立ち上がる。それは金庫の中にしまわれていた。間違って颯太が見てしまわないように。そして赤の他人が持ち出すこともないように、厳重に保管されていたようだった。
 祖母が「私たちもあの事件が起きて、荷物を引き取ってしばらくするまで知らなかったのよ」と細い声で語る。もっと早くあなたを引き取っていればよかった、と後悔で溢れる祖母の言葉に、颯太は無理矢理笑顔を作ってみせた。

「何言ってんの。おじいちゃんとおばあちゃんに引き取ってもらえたから、今の僕がいるんだよ」

 僕は今、幸せだよ。
 口にした言葉は、自分に言い聞かせるものだったのかもしれない。
 頭痛に合わせて脈打つ感覚を堪えながら、颯太は祖父からDVDを受け取る。ごめんなぁ、と悔しそうに泣き出した祖父を優しく抱きしめて、颯太は部屋へと戻った。