これまで身の回りで起きた事件についてまとめたノートを持ち、颯太は単身で、昔住んでいた街を訪れた。
 一般的には高級住宅街として知られる土地。それゆえに住む人々はあまり入れ替わらないのか、記憶の中の景色と目の前のそれはあまり違いがないように見えた。
 リフォームされた家や、建て直された家はもちろんある。しかし、なんとなく元の建物の面影があるような気がするのだ。
 もちろん颯太の記憶は遠い昔のものなので、記憶自体があやふやなところもたくさんあるのだが。

 他の家に比べると少し小さな一軒家。塀が高いおかげで庭は外から見えないが、門の中に足を踏み入れると雑草が生い茂っている。売りには出していないし、手入れもしていない。ただ所有権を持っているだけの空っぽの建物。それが颯太の生まれ育った家だ。

 高級住宅街なのだから、家を取り壊して土地を売りに出せばいいと颯太は思ってしまう。どうせこの家に住むことは二度とないのだし、所有しているだけでもお金はかかるのだから。
 しかし祖父母は家を売ることに乗り気ではなかった。颯太は何度も売っちゃえば? と言ったのだが、そのたびに悲しそうな笑顔で答えるのだ。
 いつか颯太があの家での暮らしを思い出したくなったときに、違う家が建っていたら寂しいでしょう? と。

 祖父母から預かった実家の鍵は、やけに颯太の手に馴染んだ。これを使っていた頃、颯太はまだ小学生。手も今よりずっと小さかったはずなのに、成長して大人になったはずの今でもしっくりくるのはどうしてだろう。

 鍵を何度か握って形を確かめた後、颯太は深呼吸をして、家の鍵を開けた。
 かちゃり。軽い音と共に、鍵が回った。やけに重たく感じるドアを開くと、埃っぽい空気が颯太の肺を満たす。
 けほ、と咳き込みながら、颯太は持ってきた使い捨てのスリッパに履き替える。土足のままでもよかったのかもしれないが、思い出の場所を汚れた靴で踏み荒らすのはさすがに躊躇われたからだ。
 パタパタと音を立てながら、埃の上を歩いていく。久しぶりに来たはずなのに、窓の位置は正確に覚えていた。少し換気しなければ、調べ物どころではなさそうなので、空気を入れ替えるために颯太は窓を開けていく。
 両親の部屋や子ども部屋、書斎、風呂場にトイレ、キッチン。一つ解放するたびに、少し息がしやすくなる気がする。そんなにすぐに空気が入れ替わるはずはないので、たぶん気のせいだ。

 リビングの扉だけが、どうしても怖かった。
 楽しかった思い出もたくさんあるはずなのに、颯太の頭に思い浮かぶのは、両親の死体を発見したあのときのこと。
 飛び散った鮮血。至るところに刺し傷の残る両親。床はほとんど全て血で濡れていて、颯太の靴下を容赦なく赤で染め上げた。
 目をぎゅっと閉じて、颯太は深く息をする。弾みで埃を吸い上げ、思い切り咳き込んだ。すると恐怖でいっぱいだった頭の中に、少しだけ余裕ができる。
 颯太は、リビングの扉を開けた。

 薄緑色のカーテンは外されていた。壁紙は一部剥がされたままになっている。颯太がオレンジジュースをこぼして散々叱られた、母のお気に入りのベージュのカーペットも、もうここにはなかった。
 事件の証拠品として持っていかれたのか。それともあまりに無惨な状態だったので、祖父母が片付けたのかもしれない。

 血痕らしきものは、至るところにある。しかし、年月が経っているせいか、颯太にはそれが血には見えなかった。
 もしもあの記憶がフラッシュバックしていたら、間違いなくニセくんと入れ替わってしまっていただろうから、ラッキーだったのかもしれない。
 颯太はリビングの血痕らしきものを指でなぞりながら、ゆっくり呼吸をする。

 今日の颯太の目的は他でもない。
 事件当日の記憶を少しでも取り戻すことだ。できなくても、事件に関わる何か、できればニセくんの情報に繋がる手がかりが欲しかった。

 心臓が痛いくらいに速く鼓動し、頭がぎゅうと締め付けられる。
 床や壁の低い位置を中心に残っている血の跡が、やけに気になった。もちろん事件当時、警察がさんざん調べても犯人はおろか、犯人に繋がりそうなものも見つからなかったのだ。素人の颯太が探したところで、今さら物証を見つけられるはずもない。

 血痕が低い位置に集まっているのは、床に倒れた両親を、複数回刺したからだろうか。たとえば犯人は最初の一撃で両親を押し倒し、滅多刺しにした後、そのまま逃げ去ったーーー。

 少し考えただけで強烈な頭痛と吐き気に襲われ、颯太はその場にしゃがみ込む。咄嗟に掴んだ家具は、テレビ台だった。
 昔はテレビが置いてあった大きなテレビ台。下は少し大きめな物入れになっていて、その取っ手に触れてしまったようだ。ガコッと大きな音がして、物入れが開くと同時に颯太は尻餅をついた。
 埃まみれになる服は、どうでもよかった。颯太は物入れの扉を凝視しながら、呼吸すら忘れていた。

 どうしてだろう。扉が開く音に、すごく鳥肌が立った。例えるならば、脳内に警鐘が鳴ったような。
 颯太はおそるおそる、テレビ台の物入れの中を覗き込む。そこには何も入っていなかった。

 かくれんぼに使えそうなくらいのスペースがあるのに、何もしまっていなかったのだろうか。テレビ台なのだから、映像関連のものがしまわれていてもおかしくない。
 先ほど覗いた書斎には、アルバムの他にたくさんの洋書と医学書が置いてあった。
 医学の勉強をするには、もちろん論文や文献が一番だろう。しかし、映像の教材はなかったのだろうか。あったとしても、颯太が誤って観てしまう危険性を考慮し、他の場所にしまっていた可能性もある。医学の教材になるようなものは、小学生には少し刺激が強すぎるからだ。

 それにしても不思議だ。颯太は両親がよくリビングで映画を観るのを、こっそり盗み聞きしていた記憶がある。つまり、観ていた映画が全てレンタルだった場合を除けば、少しくらい映像作品が残っていてもいいはずだ。
 ずき、とまた頭が痛む。頼むから今はニセくんに代わってくれるなよ、と思いながら、颯太は過去を探っていく。

 誕生日や七五三、入学式や学校のイベントのときも、両親はビデオカメラで録画していた。それだけではない。もっと他にも日常的に撮影していた気がする。そうだ、家でも。撮ったことがある、何度も、何度も。
 その映像はどこにあるのだろう。普通なら、すぐに観られるようにテレビ台にしまうものじゃないのか。


 頭痛がひどくなってきた。
 颯太は一度庭に出て、新鮮な空気を肺に取り込んだ。そして痛みに気を持っていかれないよう、持参した水で頭痛薬を喉の奥に流し込む。
 しばらく休むと、颯太は再びリビングに戻った。
 いろいろ見て回ったが、やはり一番気になるのはやけにすっぽりあいた空間、テレビ台下の物入れだった。
 中に入っていたものの行方は分からない。警察が証拠品として持っていき、返されていないのか。何か思い出の品で、祖父母が家に持ち出しているという可能性もある。

 スマートフォンのライトをつけ、颯太は物入れの中を覗き込む。さすがに颯太は入れないが、背の低い子どもならすっぽり入れそうだ。
 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。頭痛薬もすぐには効かないので、ずきずきと頭が痛みを訴えた。物入れに近づくたび、頭痛がひどくなる気がする。
 これはもしかして、何かの合図かもしれない、と颯太は直感的に思った。記憶の欠片がこの中にしまわれていたのかも、と期待し、ライトで隅々まで照らしてみたが何も見つからない。中腰に疲れた颯太が、スマートフォンを物入れの底面に置いたときだった。

「…………あれ、?」

 ライトが上向きになり、立ち上がる前に何かが視界に入った気がする。もう一度中腰になって覗き見るが、やはり何も見えない。思い切って颯太は床に膝をつき、物入れの中に身体を半分押し込んだ。そして視線を動かし、違和感の正体に気づく。

 ごめんなさい、と。物入れの天井部分に書かれている。子どもの字だった。

 ぞくっ、と一瞬で背筋が凍り、颯太は反射的に身体を起こそうとして天井に強く頭を打ちつけた。

「痛ッ……、あ………………れ、」

 強い既視感。
 ズキズキとひどく痛む頭を押さえながら、颯太はそっと後ろを振り返る。

 ごめんなさい、お父さん。
 痛いよ、助けてよ、お母さん。

 頭の中で子どもの声が響く。
 前にも同じようなことがあった。頭が痛くて、頭から血を流しながら、リビングの方を振り返った。颯太は泣きながら父に許しを乞い、母に助けを求めた。
 怒っている父は颯太を突き飛ばして、物入れの中に閉じ込める。ガコッ、と。大きな重たい音と共に、光が遮断されるのだ。その扉は、内側からは開かない。颯太は泣きながら助けて、ごめんなさいと、何度も叫ぶーーー。

 しばらくの間、颯太は放心していた。
 今のは何だ? 記憶? でもあんな記憶は颯太の中に存在しない。確かに父は厳しい人だったが、颯太に手をあげたりはしなかったはずだ。
 ーーー本当に?
 自分の記憶すら疑わしくなり、不安に襲われた颯太は映像データを探すことにした。
 イベントのときも、何気ない日常も、両親は颯太のことをビデオカメラで撮っていた。
 そもそも虐待なんて、あったはずがない。颯太は全くそんなことを覚えていないし、仮に一度や二度叩かれたり押し入れに閉じ込められたとしても、きっと躾の範疇だったはずだ。
 自分に言い聞かせてみても気持ち悪くて堪らない。
 だって虐待なんてなかったならば、さっきのやけにリアルな記憶はどう説明するのか。頭から血を流すほどの怪我をさせられ、その上物入れに閉じ込められて。そんな記憶を、颯太が捏造したというのか。それは一体、何のために。

 寒くはないのに、全身に鳥肌が立っていた。

 まずは書斎、両親の部屋、リビング、念のためキッチンや風呂場も探したが、当然見つからない。
 颯太はほとんど諦め始めていた。きっとごめんなさい、という文字を見た颯太が、妄想で作り出した偽の記憶だったのだ。
 虐待なんて事実はどこにもなくて、もちろんニセくんにも関係ない。探すだけ無駄だった。

 最後に颯太は子ども部屋を調べた。この部屋は颯太自身が使っていたのだから、何となくどこに何がしまってあるのかも覚えている。勉強道具は全て祖父母の家に移したが、日記や写真のアルバムは置き去りになっていた。何気なく日記に手を伸ばし、颯太はパラパラとめくってみる。
 日常の記録が、小学生の字で綴られている。綺麗とは言い難かったが、読めなくはなかった。

 一冊、二冊と読み進めてみても、殴られたという言葉は出てこない。やはり颯太の記憶違いだ。きっと強盗事件の影響で、記憶に歪みが生じているに違いない。思い出せないことがあるだけではなく、なかったはずの記憶が捏造されてしまったのだ。
 だとしたら、これ以上ここにいるのは危険かもしれない、と颯太は日記を持って立ち上がる。事件の記憶や、ニセくんの手がかりを得るためにやって来たのに、ありもしない記憶が作られてしまっては、何も信じられなくなってしまう。

 持ってきた紙袋に日記やアルバムを詰め込み、颯太は実家をあとにした。簡単に戸締りはしたけれど、探し物の後片付けなどはしていないし、もしかしたら窓の閉め忘れもあるかもしれない。
 それでもよかった。どうせ使われていない家なのだ。今更強盗に入られることもないし、入られたとしても、すでに大事なものは全て奪われた後だ。

 早足で祖父母の家を目指しながら、颯太は落ち着かない心をどうにかして鎮めようとする。歩くたびに、紙袋の中で日記がガサガサと耳障りな音を立てていた。