颯太はしばらくの間、バイトのシフトを減らした。少し調べたいことがあったのだ。
 大学には今まで通り通い、自分のアパートにも戻った。優姫の死にショックを受け寝込んでいたせいもあり、光は心配してくれていたが、これ以上親友に迷惑をかけるわけにもいかない。
 別人格のことを考えると恐怖心と不安に襲われるが、そんなときはノートのあるページを見返した。見開き二ページ分を使い、油性ペンで大きく書いてあるその言葉。

『光が呼び戻してくれるから大丈夫!』

 おまじないのようなものだ。ニセくんに対する不安に襲われるたび、颯太はこれを自分に言い聞かせている。
 実際にニセくんと入れ替わったとき、颯太には一つも記憶が残らない。だから、光に名前を呼んでもらっても聞こえない可能性だってある。
 それでも、颯太の不安を薄める効果はあった。


 調べたいこと。それは、ニセくんについて、という漠然としたものだ。

 ニセくんが外に出るとき、颯太は眠っているのか、意識を失っているのか分からない。どちらにせよ颯太には自覚がない。
 そしてもちろん、颯太はニセくんと直接話すことはできない。
 ダメ元で一度、強く呼びかけてみた。目を閉じ、自分の心に意識を向け、「ニセくん、聞こえたら返事をして」と。もちろん返事らしきものはなかった。同じ身体に宿る人格同士、意思疎通をすることは無理なのかもしれない。

 しかしニセくんの方は、颯太の身の回りに起きたことを正確に把握しているようだった。
 たとえばカメラに録画されていた光とのやりとり。あのとき、ニセくんは間違いなくカメラの存在に気づいていた。
 隠しカメラを仕掛けたことは、颯太本人以外誰も知らない。光にもまだ隠しているのだ。それを考えると、やはりニセくんは颯太として行動しているときの意識も共有しているように思える。


 光はニセくんの目的を、『颯太の身体を乗っ取ること』だと話していた。しかしあのとき、光は何か嘘を吐いていたようだったので、もしかしたらそれ以上の目的があるのかもしれない。
 颯太はニセくんのことを何も知らないが、だからこそ疑ってしまう。ニセくんはまた何か仕掛けてくるのではないか、と。

 少しだけ不安に思っていることがある。さすがにそれは考え過ぎだろ、と光は言ってくれたが、颯太の中にわだかまりとして残る、嫌な考え。
 西野花梨が事故の前に一緒にお酒を飲んでいた相手。名乗り出てこないその友人は、もしかしてニセくんなのではないか。
 優姫の自殺とは違い、花梨は事故だ。防ぎようのなかった不運な事故。それは分かっている。それでも颯太には、どうしてもニセくんが関わっている気がしてならなかった。
 疑念を消すため、颯太なりに少し調べてみた。
 まずは自分のスマートフォン。メッセージアプリでの花梨とのトーク履歴、電話の通話履歴も調べたが、覚えのないものはなかった。

 そして花梨の両親が言っていた居酒屋にも足を運んだ。個人経営の居酒屋で、監視カメラは設置していない。
 以前待ち合わせをしたカフェとは違い、居酒屋は行きつけだったわけではないらしい。店主に少し話を聞くと、花梨のことは美人だったのでよく覚えている、と答えた。
 誰かと一緒にいたと思うんですけど、と颯太が訊ねると、男だったとは思うけど顔は分からない、と店主は首を横に振る。
 どうやら花梨の友人は、店内でも目深にキャップを被っていたらしい。店の中では帽子を外すのが常識だろうと店主は思ったようで、覚えているのはそれだけだった。
 それ以上は、店主から情報を聞き出すことはできなかった。


 得られた情報をまとめ、颯太は光に報告した。

「顔を隠してたってことはやっぱりニセくんの可能性もあるんじゃないかな……何か西野さんを追い込むようなことを言ったのかも」
「……仮にニセくんが何か花梨に吹き込んだとしても、死因は事故なんだぞ? さすがにニセくんに、花梨を殺す理由もないだろうし、事故死に見せかけることもできないだろ」

 友人の言葉に納得する気持ちはある。
 確かに警察は花梨の死を、事故と断定しているのだ。トラックの運転手の過失もあるが、主な原因は、花梨が酔っ払ってふらふらと道路に出てきてしまったこと。事故当時一人だったこともドライブレコーダーで確認できている。
 光の言う通り、事故の夜に花梨と一緒にお酒を飲んでいた友人は、花梨の死とは何ら関係がない。そう考えるのが自然だろう。

「顔を隠してたなら芸能関係者かも」
「ああ……西野さん、モデルやってたもんね」

 そう言いながらも、颯太は本当にそうだろうか、と心の中で呟く。
 不安を拭いきれないせいで、疑い深くなっているのかもしれない。どうしてこんなにもニセくんに対して疑念を抱いてしまうのか、颯太自身にもよく分からなかった。

 でも強いていうならば、怖いのだ。颯太の身体を乗っ取るためだけに、優姫と交際して合鍵を渡し、颯太に恐怖を与えようとした。
 ニセくんはなりふり構わず、目的のためには手段を選ばない。何をしでかすか分からないことが怖い。
 いや、本当はもっと具体的な不安だ。

 颯太は考えてしまった。
 ニセくんが次に利用するのは、危害を加えるのは、光かもしれない、と。
 一度思い浮かんだ不安は何度も頭をよぎり、恐怖として少しずつ膨らんでいる。

「ねえ、光」
「ん?」
「もし僕が……ううん、ニセくんが、光に何かをしようとしたら、迷わず逃げてね」
「…………なにそれ」
「たとえば西野さんがニセくんを脅しの種にしたように、ニセくんが僕を人質にとって脅迫したとしても、絶対に聞いちゃダメだよ」

 形のいい眉を寄せて、光は颯太をじとりと見つめる。睨んでいる、と言い換えてもいいくらい、強い目だった。
 光が不機嫌なところを見せるのは珍しい。しかし颯太が自分を見捨ててくれと言っているのだから、それも仕方のないことだろう。
 そんなの約束できるわけねえだろ、と強い言葉で吐き捨てた光に、颯太は笑ってみせる。

「もちろん助けられるなら助けてほしいけどさ。でも、光はもっと、自分のことを大事にしてよ」
「それ、颯太が言うか?」
「僕は友達のために、好きでもない人と付き合ったりしたことないし」

 少し意地悪な言葉を選んで口にすると、光は眉を下げて笑った。

「そもそも颯太くんは、彼女いたことないでしょうが」
「うわ、それ言う!? 光と違ってモテないんだよ! 悲しくなるから言わせないでよ!」

 二人でいつものように軽口を叩き合えば、少し重かった空気も、簡単にやわらかいものへと変わる。

 親友と交わす、何気ないやりとりが颯太は好きだ。
 いつもよりも優しく感じる空気。それに颯太の心の底に澱んでいる自責の念や不安や恐怖が、少しだけ楽になる瞬間も。不思議と呼吸がしやすくなる感覚だって。
 全部、失いたくないと思う。

 でも、もしもニセくんが光を利用しようとしたら。危害を加えようとしたならば、そのときは、颯太は全部捨てたっていい。
 ニセくんが颯太の身体が欲しいというならば、そのままくれてやる。主導権どころか、颯太の意識がなくなってしまったって、きっと後悔はしない。
 本当はこれからもくだらないことで笑い合いたいと思うけれど、颯太の身一つで親友のことを守れるならば、安いものだ。

 光は笑う。しょうがねえから約束する、と。
 もしもニセくんが光に手を出そうとしたら、そのときはちゃんと逃げる、と言ってくれた。
 颯太がよかった、と安心して呟くと、「ただし」と光は言葉を付け足した。

「そのときは、颯太。お前も一緒だからな」
「……えっ、?」
「言ったじゃん。颯太のこと、呼び戻すって。ニセくんに手ぇ出されそうになったらちゃんと逃げるけど、その前に颯太を取り返す。颯太が戻ってくれば、全部解決じゃん?」

 いたずらっぽく笑う光は、どうしようもないくらい意固地で、頑固で、そして優しかった。

 光が友達でよかった。照れ臭くて言葉にはできないけれど、颯太はとびきりの愛情を込めて、「光は頭のいいバカだよね」と笑った。
 なんだと、と怒ったふりをするくせに、光は笑っていて、颯太の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。その手があたたかくて、颯太は少しだけ、泣きそうになった。