倉橋優姫。颯太と同じ二年生。入学してすぐに、颯太は優姫に一目惚れをした。
 内気な性格が邪魔をして、あまり会話をしたことはない。しかし優姫が名前の通り優しくて、お姫様のようにかわいいことを颯太は知っている。

 そんなに好きならさっさと告白して振られてこいよ、と光にはからかわれるが、颯太にとって優姫は高嶺の花なのだ。
 実際に優姫がモテるかどうかを、颯太は知らない。倉橋ってかわいいよな、と褒められているのを耳にしたことはあるが、大学で一番の美女、というわけではないらしい。
 颯太から見れば、優姫はとびきりかわいい存在なのだが、光曰く「恋は盲目ってやつだな」とのことだ。

 どこが盲目なんだ。倉橋さんはミスコンで優勝してもおかしくないくらいかわいいし、地味な僕にも分け隔てなく声をかけてくれる優しい人だぞ!

 記憶の中の光に対し心の中で反論し、ふと颯太は気がついた。

「ん? さっきの推理に当てはめると、倉橋さんが僕の性格を誤解してたってこと?」
「な? ありえないだろ?」
「…………すごく複雑な気持ちだけど、ありえないかな……」

 そう、優姫は大学内でも数少ない、颯太に声をかけてくれる人なのだ。そしてこれは悲しい話だが、優姫には颯太の性格もバレてしまっている。根暗なことも、人見知りなことも、優姫は知っているはずだ。

 だとしたら、目撃者の勘違い説はなくなってしまう。先ほど考えたもう一つの可能性が頭をよぎり、颯太は大きなため息をこぼした。

「……それはしんどい」
「ん? どうした?」
「なんでもない」

 優姫が光に好意を寄せていて、颯太を利用して光に近づこうとしている。
 利用されるのも悲しいが、優姫の好きな人が光だったとしたら、颯太のショックはかなり大きい。
 確かに二人はお似合いだと思うが、自分の好きな人が、自分の幼馴染を好きになる。そんな三角関係はできれば経験したくなかった。
 光とは付き合いが長いので、颯太がなんでもないと言っても、光にはすぐに嘘だとバレてしまう。
 案の定光は目をまたたかせ、ふぅん、と納得していないような声をあげたが、それ以上追求はしてこなかった。

「まーとにかく、倉橋さんに話を聞きに行こうぜ!」
「えっ話すの!? 倉橋さんと!?」
「じゃなきゃ詳しく聞けないじゃん? ほら行くぞ!」

 光に急かされ、颯太は慌てて荷物をバッグに詰め込んだ。想像していなかった展開に焦りながらも、颯太の心は少し舞い上がっていた。


 広いキャンパスの中からどうやって倉橋優姫を見つけるのかと颯太が考えていると、光はスマートフォンで電話をかけ始めた。
 短いやりとりの後、「サークルブースにいるって」と光が笑うので、颯太の口から思わず本音がこぼれる。

「倉橋さんの連絡先、羨ましい……!」
「せっかくだから今日教えてもらっちゃえよ」

 交友関係の広い光のことだ。きっと入学してすぐに優姫の連絡先も手に入れていたに違いない。
 颯太の考えを読んだ幼馴染は、笑いながら「違うから!」と訂正した。

「俺もさっき知ったばっかり。詳しい話は颯太と一緒に聞いた方がいいと思って、待ち合わせがスムーズになるように交換しただけだよ」
「光……いい奴じゃん!」

 颯太の恋心を知っているから応援してくれているのか。はたまた颯太のドッペルゲンガーを見た、という話なので本人を連れて行こうと思ったのか。
 きっと両方だろう。光の優しさに再び感謝しながら、颯太は気を取り直して歩き出した。
 サークルブースの端に座っていた優姫を見つけ、光は迷いなく声をかける。白いワンピースに水色のカーディガンを羽織った優姫は、いつものようにやわらかい笑顔で光と颯太を迎えてくれた。

「よかった……! 笹木くん、無事だったんだね」
「だから言ったっしょ。俺は昨日も会ってるし、颯太はピンピンしてるよって」
「佐久間くんのことを疑ってたわけじゃないよ。でも自分の目で見ないとやっぱり心配だったから……」

 優姫と光の会話の内容は、颯太に関することだ。しかし当の颯太は置いてけぼりになっていて、話の内容がよく分からない。どうやら優姫が颯太のことを心配してくれていたらしいが、心配される理由が思い当たらなかったのだ。
 困惑の表情を浮かべる颯太に気がつき、光が笑いながら「ドッペルゲンガーのことだよ!」とフォローを入れてくれる。

「えっと、倉橋さんが僕のドッペルゲンガーを見たって聞いたけど……それで心配してくれてたの?」

 おそるおそる颯太が訊ねると、優姫は大きく頷き、真剣な表情で話し始めた。

「そうなの。笹木くんに本当にそっくりでね。私、話しかけたんだよ。でも無視されちゃって……。笹木くんって絶対に無視とかしない人だと思うから、笹木くんじゃないって気づいたの」

 その言葉だけで、優姫が颯太のことを悪く思っていないことが伝わってくる。颯太は舞い上がりそうになる心を抑えて、ありがとう、と言葉を返す。それからようやく優姫の話が頭の中でじわりと現実味を帯びてきた。

 颯太にそっくりな誰か。優姫に声をかけられたのに無視をしたのだから、絶対に颯太ではない。もしも颯太が優姫に声をかけられたならば、喜んで返事をしたはずだからだ。
 しかし颯太は一人っ子で兄弟もいないし、見間違えるほど顔が似ている親戚もいないだろう。
 他に可能性があるとすれば、と颯太は考えを巡らせる。

「もしかして、僕にはもう一つ人格があって、勝手に行動してるとか」

 考えるだけで恐ろしいが、ドッペルゲンガーよりはよほど現実的な話だ。おそるおそる口にした可能性は、光があっさり笑い飛ばしてくれた。

「颯太が解離性同一性障害だったら、一番に俺が気づくだろー。何年一緒にいると思ってんの」
「そりゃそうだ」

 光の言葉に颯太も納得して頷いた。一方で優姫は光の口にした単語が耳慣れなかったらしく、目をまたたかせて首を傾げた。

「解離性……? なにそれ?」
「多重人格ってやつだよ」
 
 不思議そうな表情の優姫に、光は簡単に説明を始める。
 解離性同一性障害。それは少し前まで多重人格という名で知られていた。一つの身体に複数の人格が存在する状態。原因は心的外傷によるものが多く、幼少期に受けた虐待などがきっかけになった実例もあるらしい。
 複数の人格の中には、他の人格を認識している場合といない場合、どちらのケースも存在するようだ。

 たとえば颯太の中にいくつか他の人格があったとして、颯太自身が自覚していないだけ、という可能性もあり得るのではないか。そこまで考えて、颯太は先ほどの光の言葉を思い出す。
 小学校から大学まで、ずっと同じ学校に通っている幼馴染の光が、颯太の異変に気づかないはずはない。

「やっぱりドッペルゲンガーなのかな……」

 優姫が不安そうな声を上げるので、颯太は慌てて「大丈夫だよ倉橋さん」と安心させるための言葉を吐いた。

 確かに自分と同じ顔の人間が存在するのは気味が悪い。血縁者でもないなら尚更だ。しかし、颯太そっくりの男は優姫の呼びかけを無視したと言っていた。もしも害のある存在ならば、優姫の呼びかけに答え、どこかへ連れ去ってしまったのではないか。優姫が無事でいたことが、ドッペルゲンガーの安全性を証明しているように颯太には思えた。

 拙い口調で颯太が自分の考えを説明すると、光と優姫は顔を見合わせる。そして眉を下げ困ったような表情で、光は口を開いた。

「颯太、さては知らないな?」
「何を?」
「ドッペルゲンガーに会うと、死ぬって噂」

 その言葉を聞いて、光や優姫がやけに心配していた理由を、颯太はようやく理解したのだった。