帰ってきた光は、料理をしている颯太を見て驚いたような顔をした。優姫の訃報を聞いてからずっと、死人のように動けなくなっていたので、それも仕方のないことだろう。

「おかえり、光。キッチン借りてるよ」
「おお、いいけど…………。ただいま」

 眉を下げた光がキッチンを覗き込み、「起きてて大丈夫?」と颯太に訊ねた。今も身体は重いままで、頭の痛みも残っている。それでも颯太は笑って答えた。

「元気ではないけど、でも大丈夫」
「別に無理して起きなくてもいいだろ。メシくらい俺が作るし」
「うん、でも何かしてたいから」

 ノートに情報をまとめ終え、手を止めた後、颯太は気がついた。本当ならば休んでいたいくらい身体はだるいのに、寝転がって目をつぶっている方が苦しい、と。
 無理にでも身体を動かしていないと、思考が勝手に悪い方へと進んでいき、罪悪感と不安で気が狂ってしまいそうだったのだ。

 光は部屋で着替えを済ませると、キッチンで颯太が作ったご飯を盛り付ける。
 大根と油揚げの味噌汁、ほっけの塩焼き、出汁巻き玉子、ほうれん草の胡麻和え。
 二人で夕飯を食べ始めると、颯太の頭の中は再び自責の念や不安、そして別人格に対する疑問で埋め尽くされた。
 まずは何から訊ねようか、と迷っていると、颯太の考えを読んだかのように、光が口を開く。

「……あのさ、颯太がいろいろ考えてるのは分かる。でも、……倉橋さんのこと、颯太のせいじゃねえよ」

 ためらいながらも光は優姫の名前を出した。優姫が自殺してしまったのは自分のせいだ、と颯太が自分を責めていることは、光にはお見通しのようだった。

「ありがとう。でも、僕のせいだよ」
「……颯太」
「ねぇ光。倉橋さんはストーカーじゃなかった。……違う?」

 颯太の問いに、光の箸を持つ手が止まる。数秒の沈黙はやけに重たく感じて、颯太は自分の心音を数えながら聴いていた。
 光はふうと息を吐き、一度箸を置くと、颯太の目をまっすぐ見つめて首を傾げた。

「……どうした? 倉橋さんが颯太のストーカーなら全部筋が通るって、颯太も納得してたじゃん」
「うん、そう思ってたけど。でも、他の可能性に気づいたんだ。もっと単純な話だって」

 整った顔がわずかに曇る。颯太は光の表情の変化を見落とさないよう、じっと親友の目を見つめ返していた。
 しばらくの間、二人は口を噤んだまま見つめ合っていた。それはただの我慢比べだった。
 光の口からちゃんと聞きたい。颯太の中に眠る人格の話も、どうして今まで頑なに隠していたのか、自分を投げ打ってまで秘密を守ろうとしたその理由も、全部。

 しかし光は颯太をただ見つめるだけで、決して自分から語ろうとはしなかった。できれば光に自発的に語ってほしいと思っていたが、それは無理な話だ。光は颯太の人格の秘密を、誰よりも颯太自身に知られたくなくて、ずっと一人で抱え込んできたのだから。
 我慢比べは颯太が折れた。きっと光は意地でも語らない。颯太が自覚してしまった、とはっきり分かるまでは。

「僕は、解離性同一性障害なんだよね?」
「…………」
「もう一つ、ううん、もしかしたら僕の中には複数の人格が眠っている」

 光は答えなかった。
 頷きはしないけれど、否定もしない。ただ颯太を見つめる目に、悲しみの色が混ざった気がした。

 西野花梨と会って話したこと、そしてカメラを仕掛けたことは伏せて、颯太は自分の考えを語っていく。
 ドッペルゲンガー事件とストーカー事件。颯太に別人格があるのなら、どちらも複雑な事件ではなかったのではないか、と。

「颯太が解離性同一性障害だったら、俺が真っ先に気づくって、前に言ったじゃん」
「うん。光は知ってて嘘を吐いた。何か理由があって僕に隠してたんでしょ」

 まっすぐな颯太の視線に、光は何かを諦めたように笑ってみせた。
 そして味噌汁に手を伸ばすと、一口飲み、「颯太が作る味噌汁ってうまいよな」と光は呟く。颯太の別人格については語るつもりがないという意思表示だろうか。戸惑いながら颯太は「おばあちゃんにかなり仕込まれたからね」と答えた。

「…………ニセくんの作る味噌汁は、すげーしょっぱいんだよね」
「えっ?」
「あれはいつだったかな……あんまり入れ替わらなくなってきてからだから、高校のとき?」

 光は味噌汁のお椀に目線を落としたまま、静かな口調で語る。


 颯太たちが高校生になると、それまで光の家に毎日来ていた家政婦が来なくなった。
 元々父親は仕事が忙しく、ほとんど家に帰ってこない状態で、母親を早くに亡くなっている。光が高校生になるまでは、光の父が雇った家政婦が、家事全般をやってくれていた。しかし何の相談もなしに突然家政婦との契約は解除され、光は途方に暮れていた。

「父さんは昔から外面だけの人間で、いい父親ぶってるくせに俺には全く興味がなかった。家事も子どもの身の回りの世話も、金で解決できるって思ってる人だったから」
「……それは、覚えてる。家政婦さんがいなくなって、家のことどうしようって光が言ってたから、僕が手伝いに行ったんだよね」
「そうそう。颯太に教えてもらいながら俺も少しずつ家事を覚えて。そのときかな、たぶん」

 光が洗濯物を畳んでいる間、颯太が夕飯を作っていたそうだ。しかし、気づかぬうちに颯太の人格が入れ替わっていて、別人格の手料理を食べることになったらしい。
 眉を下げて笑いながら、光は「俺が作った方がマシなんじゃないかってくらい、ニセくんの料理はひどかった」と語る。
 颯太の身体なのに、別の人格になると料理ができなくなってしまう。そういうこともあるのか、と颯太は驚きながら光の話を聞いていた。

「後にも先にもあれっきりだな。ニセくんの手料理食ったの」
「……ニセくんっていうのが、僕のもう一つの人格?」
「ん。颯太の身体に入ってるけど、颯太じゃない偽物。だから、ニセくんって俺は呼んでる」

 ついに、光が語った。颯太の中に眠る別人格について。ずっと一人で抱え込んでいたその秘密を。
 親友が話してくれたことに対する喜びは大きい。颯太のことでこれ以上光を悩ませたくない、と思っていたのは嘘偽りない本当の気持ちだ。
 しかし同時に、先ほどまでは疑念だった別人格の存在が、はっきりと光によって証明されてしまった。
 途端に自分という存在が気味の悪いものに思えて、颯太は鳥肌の立った腕をさすった。

「……ついに颯太がニセくんの存在に気づいちゃったか」
「光は僕に隠したかったんだ?」
「そりゃあそうだろ。だって自分の中に他の人格があるなんて、かなりショックが大きいじゃん。ニセくんに乗っ取られて、二度と颯太が戻ってこなくなるかも、ってずっと思ってたよ」

 光は困ったような表情で笑う。杞憂だったみたいでよかったけど、と付け足された言葉に、颯太はどんな表情を浮かべればいいのか分からなかった。

 どうして光が必死に、颯太の別人格のことを隠そうとしていたのか、ようやく分かった。
 難しい話ではなかった。光はただ『颯太』を守ってくれていたのだ。颯太の身体ではなく、ニセくんという別人格でもなく、『笹木颯太』という存在が壊れてしまわないように。
 颯太が真実を知って傷つけば、偽物にその身体を奪われてしまうかもしれない。その可能性を危惧して、光は颯太に真実を明かさなかった。
 全ては友人である『颯太』の存在を守るため。

 まだ聞きたいことは山ほどある。理由を知ってもなお、どうして話してくれなかったの、と問い詰めたい気持ちは残っている。
 何より、僕のために光が自分を犠牲にすることはなかったんだよ、そんなのは僕も悲しいよ、と颯太は伝えなければならない。これ以上、光が颯太のために自分を犠牲にしてしまうことがないように。

 それでも今だけは、颯太は何も言えなかった。目の前に座る光が、少しだけ泣きそうな顔をしていたからだ。
 真実を知っても颯太が別人格に乗っ取られなかったからか。それともようやく重責から解放されたからだろうか。どちらにせよ、今の光の心を占めるのは安堵の気持ちに違いない。
 迷惑かけてごめんね、と言いかけた言葉を、颯太は飲み込んだ。きっとそんな言葉を光は望んでいない。

「……ずっと、今まで、ありがとう」

 守ってくれて。支えてくれて。そばにいてくれて。
 どれほどお礼を言ってもきっと足りない。それくらい颯太は、光に返しきれないほどの恩がある。

 何がだよ、と冗談めかして笑う光に、颯太は少しだけ迷って、「僕の友達でいてくれて」と口にした。
 女の子の友情はどうなのか知らないが、男同士の友人関係で、こんな風にはっきりと『友達になってくれてありがとう』と伝えることは少ない。
 照れ臭くなって思わず目を逸らした颯太に、光は小さく吹き出した。

「笑わないでよ、恥ずかしいこと言った自覚はあるんだから」
「いや、そうじゃなくて」
「何?」
「そんなの、俺のセリフなのにな、と思ってさ!」

 驚いて颯太が光の顔を見ると、親友は眩しいくらいの笑顔を浮かべている。
 そしてやはり少し恥ずかしかったのか、「せっかく作ってくれたご飯、冷めちゃったな」と誤魔化すように口にした。