電気をつけることもせず、颯太は必死になってノートに文字を書き続けた。
必要なのは正確な情報。そして、その情報を客観的に整理する冷静さだ。
動画を見る限り、颯太の中に別の人格があることは、ほぼ間違いないだろう。問題は、颯太がその人格を認識できていないことだ。これまで颯太は自分に他の人格があるかもしれないだなんて、考えたこともなかった。
いや、正確には一度だけ。倉橋優姫から颯太のドッペルゲンガーの存在を聞いたときに、冗談で口にした。
しかしもちろん颯太は本気で自分が解離性同一性障害かもしれないと疑っていたわけではない。現実に存在するかも分からないドッペルゲンガーより、颯太が解離性同一性障害である可能性の方がほんのわずかに高い。そう思っただけなのだ。
他の人格の存在を颯太は知らなかった。そして、人格がいくつ存在しているのかも、現状分からないままだ。これに関しては、入れ替わっている自覚がない以上、光に確認するしかないだろう。
そして光に質問をする前に、颯太自身が情報を整理しなければならない。
第一に、ドッペルゲンガー事件。
倉橋優姫はきっと、別人格に入れ替わっている颯太を目撃したのだ。優姫は颯太と関わりがあったため、偽物に対し違和感を覚えた。自分に向ける態度が違うことや、声をかけても無視されたこと。他にも立ち振る舞いや表情なども違っていた可能性がある。
人格の入れ替わった颯太を目撃した学生は、きっと他にもいたのだろう。しかし颯太は交友関係が狭いのだ。
人気者で有名人の光とよく一緒にいる男子。周りからはきっとその程度の認識しかされていない。ぼんやりとしか颯太を知らない人からすれば、たとえ少し雰囲気が違っていたとしても、人格が入れ替わっているかもしれない、だなんて考えない。だからドッペルゲンガーの話は、優姫の口からしか語られなかった。
そう考えれば辻褄が合う。
倉橋さんは嘘を吐いていなかったかもしれない、と颯太はノートに書き込んだ。
最初に優姫に話を聞きに行ったときのことを颯太は丁寧に思い出していく。あのとき優姫は、ドッペルゲンガーを見た、と言い張っていたわけではない。
見た目は颯太にそっくりなのに、話しかけたら別人だと分かった、と語っていたのだ。そして颯太が多重人格の可能性を口にしたとき、やんわりと否定したのは光だった。
『颯太が解離性同一性障害だったら、一番に俺が気づくだろー。何年一緒にいると思ってんの』
どうしてあのときすぐに気づかなかったのか。
嘘をつくときの光のいつもの癖が、ちゃんと出ていたのに。
少なくともあの時点で光はすでに知っていた。颯太の別人格の存在に気づいていて、颯太自身に気づかれないようにしていたのだ。
颯太は当然親友の言葉をあっさりと信じ、優姫も疑わなかった。颯太の別人格は、それほどまでに颯太と違う人のように見えたのだろう。
何より、光の誘導があまりにも巧みすぎた。
優姫から颯太にそっくりな人物を見た、と話を聞いた光は、ドッペルゲンガーの情報を集めてきた。
優姫が颯太のそっくりさんを見た事実はなかったことにできない。それならば、そっくりさんの存在にドッペルゲンガーというそれらしい名前をつけてやればいい、と光は考えたのだろう。
最初は控えめにドッペルゲンガーという現象の名前だけを出す。ホラーの類が苦手な颯太は、必ずそれを非現実的だと否定し、もう少し現実的な可能性を提示する。自分に別人格があるかもしれない、と。それは普通ならば適当に流せばいい話だが、光は颯太の考えを確実に消し、疑いすら残させたくなかった。
仮に少しでも自分が解離性同一性障害かもしれないと疑っていたなら、颯太が自分の異変に敏感になってしまうからだ。
颯太に別人格があるなら長年親友である自分が気づかないはずはない、と光は主張する。その言葉で別人格の存在を否定しつつ、ドッペルゲンガーの解説をしたのだ。
優姫が見たのはやはり颯太ではない、と強調するために。都市伝説として語られているドッペルゲンガーの特徴と一致することに追加して、そのタイミングで光は一番強力なカードを切った。
優姫が颯太の偽物を目撃した時間に、光は颯太と一緒にいた、という決定的なものを。
あまりに巧みすぎて、颯太は疑いもしなかった。事実、颯太はドッペルゲンガー事件の日、光とホラー映画鑑賞会をしていたのだから。
ノートに情報をまとめていても、颯太の頭は混乱してしまいそうだった。
全てはニセくんとやらの存在を、颯太にバレないようにするため。光は一人で頭脳戦を始め、颯太と優姫は土俵に立っていることにも気づかぬまま、負けていたのだ。
第二に、ストーカー事件。
最後に花梨と会ったときの会話を颯太は思い出す。
大学で親しかった女の子がストーカーになってしまった、と話をしたとき、花梨はひどく青ざめていた。そして颯太にアドバイスをしてくれたのだ。
『そんなに複雑じゃなくて……、もっと簡単で……すごく現実的な可能性があるんだよ』
ドッペルゲンガーを見たと嘘を吐き、その嘘を口実に颯太と親しくなる。
そして取り付けたデートの約束の日、颯太から鍵を盗み、化粧室に行くと偽って、合鍵の作製を依頼する。
出来上がった頃に再び颯太から離れて二本の鍵を受け取り、オリジナルの鍵を颯太にバレないように返す。
合鍵で颯太の家に入ってきて、颯太の彼女になれたのだと嬉しそうに笑っていた。
一連の流れは、優姫が颯太に想いを寄せていて、行動力のある思い込みの激しいストーカーだと仮定すれば、筋は通る。それは確かだ。しかし、不可能ではない、というだけで、かなり成功率は低いのではないか。
颯太は確かに鍵の入ったバッグを優姫のそばに置いてその場を離れた。でも優姫からすれば、バッグのどこに鍵が入っているのか分かるはずもない。もしかしたら財布と一緒にキーケースも持ち歩いている可能性だってある。
鍵を返すときもそうだ。たとえば鍵を落としたよ、と言って拾うふりをして返却するなら話は別だが、そんなやりとりがあれば颯太も覚えているはずだ。
つまり優姫はもっと自然に颯太の手元に鍵を戻したことになる。
鍵を盗むとき、そして鍵を返すとき。どちらも見つかる可能性が高い上に、失敗してもおかしくない。
失敗を前提に、できなかったら次回でいいや、と後回しにする計画だったのかもしれない。でも、現に優姫の手元には合鍵があり、オリジナルの鍵も間違いなく颯太は持っている。つまり先ほどの成功率が低そうな計画を、問題なく完遂したことになってしまうのだ。
もっと簡単な、という花梨の言葉が頭に響く。颯太もすでに分かっていた。
デートの最中、きっかけは分からないが、どこかのタイミングで颯太は別人格と交代してしまったのではないか。
そして別人格が優姫を口説き、二人は恋人になる。恋人の証に、とでも言って、颯太の家の合鍵を二人で作りにいった。
デート中の記憶は曖昧なところがあった。緊張と寝不足のせいかと颯太は思い込んでいたけれど、たぶん違っていたのだ。
颯太自身は別人格の裏に押し込められていた。だから、別人格が行動しているときの記憶が抜け落ちていた。
別人格がどんな性格かは分からないし、どうして優姫に近づこうと思ったのかも分からない。しかし、きっと別人格は何かしらの意図を持って、颯太を装ったのだ。颯太の喋り方、仕草、どこまでコピーできるのかは知らないけれど、優姫は信じてしまった。
翌日、優姫は颯太の家を訪ねてきた。当たり前のように、合鍵を持って。彼女になったから、と嬉しそうに笑いながら。
光と話していたストーカー説よりも、ずっと現実的な話だった。颯太に別人格があるのならば、それはもう簡単なくらいに。
ドッペルゲンガーを見たという話は、人格の入れ替わった颯太を見ただけ。そしてデートでは颯太の別人格に騙され、本当に颯太の彼女になったと信じていた。そしてもらった合鍵で、颯太の家を訪ねた。
つまり倉橋優姫は、何一つ嘘を吐いていなかったのだーーー。
ノートにまとめるうちに頭の中は整理されていくのに、やけに頭が重い。優姫に対する罪悪感で胸の奥が痛み、颯太は泣きたくなったけれど、何とか堪えた。
深く呼吸をして、重たい感情も二酸化炭素と一緒に吐き出す。
心を保て。帰ってきたら光から話を聞くんだろう。それまでに事情を把握しておかなければいけない。訊きたいこともまとめておかなければ。
必死に自分を奮い立たせ、颯太はノートのページめくった。
三つ目、光と花梨の共通の秘密である『それ』。
花梨は光に嫌われることを恐れて、『それ』の内容を最後まで口にしなかった。しかしきっと花梨が中等部のときに偶然知ってしまった秘密も、颯太の別人格のことなのだろう。
中等部二年のとき、保健室で偶然休んでいる颯太に会った。花梨は何かしらの違和感を覚え、光に相談した。光は『それ』をすでに知っていて、花梨に口止めしようとした。
『それ』は絶対に誰にも言うな。誰かに言ったら、お前のことを嫌いになる、と。
口止めしようとした光は、花梨に交換条件を持ち出された。誰にも言わない、颯太には絶対に言わないから、だから自分と付き合ってほしい、と。その要求を光は受け入れたーーー。
親友のはずなのに、颯太には光のことがさっぱり分からなかった。どうしてそこまでして、颯太から別人格の存在を隠そうとしていたのか。自分の身を花梨に差し出してまで、隠す必要がどこにあるのだろう。颯太の心の安寧は守られるかもしれない。
しかし光の意思は? 自由は? どこにあるというのだろう。当時の光に、好きな人はいなかったのだろうか。付き合いたいと思うような相手や、一緒にいたいと思う大切な人。もしもいたのなら、とんでもない自己犠牲の精神だ。
颯太に全てを話そうとは思わなかったのだろうか。
両親の事件の後、長らくの間颯太の心はかなり不安定だった。もしかしたら強盗殺人事件が原因で、別人格が生まれたのかもしれない。
でも光はいつも颯太に対して普通に接してくれていた。調子がいいときも、悪いときも。おどけたり、心配したりしながら、ずっとそばで笑ってくれていた。笑顔の裏でどれほど一人で抱え込んできたのか、颯太には想像もつかなかった。
話してほしかった、と颯太は自分の気持ちをノートに書き込む。もちろん真実を知れば、ショックは受けるだろう。実際に颯太は自分の中に他の人格が宿っていると知り、薄気味悪さを感じている。考えることをやめてしまえば、恐怖に飲み込まれてしまいそうだ。
しかし、きちんと順序立てて話を組み立て、颯太に十分な心の準備をさせればよかっただけではないのか。光が一人で抱え込む必要はなかったのだ。
考えているうちに、颯太はふと気がついた。自分の中に他の人格が宿っていること。その事実をもっと早く知りたかったのではない。
颯太はただ、光が頼ってくれなかったことが寂しかったのだ。颯太のことで頭を悩ませて、苦しめてしまった。それなのに颯太の前ではいつも楽しそうに笑っていた親友に、どうしようもない寂しさを覚えている。
大切にしてくれていることは分かっている。きっと颯太の心を守ってくれていたのだ。でも同じように、颯太も光のことをちゃんと心配したかった。光が悩んでいることを聞いて、解決できなかったとしても一緒に頭を悩ませて、そばで支えたかったのだ。
何も知らずにのうのうと守られていたくせに。颯太が原因で光を苦しませていたくせに。烏滸がましいかもしれない、それでも颯太は思う。
光と対等になりたい。
光が颯太を頼れるくらい、強くなりたい。
ずっと光が颯太のことを支えてくれていたみたいに、光が辛いときは今度こそ颯太が手を差し出したい。
颯太はノートにまとめた情報を読み返し、光の帰りを待った。