レモンで香り付けされたチーズケーキは、ほんのりと優しい甘さだった。お好みで、とふわふわのホイップクリームが添えられていて、クリームで甘さを調節しながら食べるらしい。
たっぷりとクリームを乗せてケーキを頬張る花梨はとても幸せそうで、颯太も思わず笑ってしまった。
「西野さんってすごく美味しそうに食べるね。確かにこのケーキは美味しいけど」
「あはは。よくリアクションがオーバーだよねって言われるんだ。テレビには向いてるかもしれないけど、おしとやかではないよね」
おしとやか、という言葉から連想されるのは、花梨ではなくて倉橋優姫だった。
颯太が恋をしていた優姫は、仮初の姿だったのかもしれない。しかし大学のキャンパスで見かける優姫は、清楚でおしとやかな印象だった。
ふと思い立ち、颯太は優姫のことを花梨に話してみることにした。
「いきなり本題に入るのもなんだし、ちょっとだけ僕の最近の失敗談、聞いてくれない?」
大学で一目惚れをした女の子。清楚でおしとやかで女の子らしい、優しい笑顔の同級生の話だ。特定されることを防ぐため、念のため名前は伏せて、颯太は語り始めた。
颯太の片想いから始まり、優姫が颯太のドッペルゲンガーを見たこと。それをきっかけに優姫と仲良くなり、デートすることができた。しかし、デートの翌日、勝手に合鍵を作った優姫が颯太の家に乗り込んできてしまう。優姫は自分が颯太の彼女になった、と颯太の身に覚えのないことを主張する。
恐怖を感じ、慌てて逃げ出した颯太は、光に助けを求める。事情を聞いた光は、優姫の思い込みが激しくて、颯太のストーカーになってしまったのだと判断した。
危険を承知の上で光は優姫に話をしに行き、思い込みを正してくれて、何とか解決に至ったーーー。
颯太は笑い話のつもりで話していた。しかし、話を進めていくうちに、だんだん花梨の表情が強張っていくことに気がついた。
「西野さん? どうしたの、大丈夫?」
「ストーカー……?」
「う、うん。あ、でも確かに怖かったけど、実害はなかったから」
慌てて言葉を付け足しながら、颯太の頭にはある可能性が浮かんだ。
もしかして花梨も、ストーカーによる被害の経験があるのではないか。
そしてそれは、颯太が受けたものよりももっと恐ろしい、粘着質で気味が悪く、実害を伴うようなものだったとしたら……。
特に花梨の場合、モデルの仕事をしているのだ。不特定多数の人に好意を向けられれば、その中に少しおかしな人がいても不思議ではない。
「もしかして西野さん、ストーカーの被害にあってたり……」
もしも嫌な予感が当たっていたとしたら、颯太は最悪の話題選びをしてしまったことになる。おそるおそる訊ねると、花梨は青ざめたまま、首を横に振った。
「よかった……。僕、西野さんもストーカーをされた経験があるのに、無神経な話をしちゃったのかと思った……」
安堵のため息をこぼす颯太とは対照的に、花梨の顔色は冴えない。
心配になって西野さん? と颯太が名前を呼ぶと、花梨は震える唇で「違うんだよ、颯太くん……」と呟いた。
「違うって……何が?」
「もっと根本的に間違ってるよ……」
花梨の言葉の意味が分からず、颯太は首を傾げる。どういう意味かと訊ねると、花梨は声のトーンを落とし、慎重に言葉を紡いでいった。
「ドッペルゲンガーは彼女の作り話……。颯太くんの彼女になったっていうのも思い込み。……こっそり颯太くんから鍵を盗んで合鍵を作った、って、言ってたよね? だから彼女は颯太くんへの気持ちをこじらせた、ストーカーなんだ、って……」
「う、うん。筋は通ってると思うけど……どこが間違ってるの?」
光の推理を聞いているとき、颯太はしっかり考えた上でそれなら全ての辻褄が合う、と納得したのだ。
実際にドッペルゲンガーを見たという話は優姫だけで、その後の目撃情報も颯太の耳には届いていない。
それならば、優姫が颯太と親しくなるために、ドッペルゲンガーの話をでっちあげた、と考えるのが自然だろう。
優姫が颯太の彼女になったと思い込んでいたことも、合鍵を持っていたことだって、颯太にとっては身に覚えのない話だ。
光の言う通り、優姫は思い込みの激しいストーカーで、間違った方向に行動力を発揮してしまったのではないか。
改めて考えてみても、おかしな部分はないように思えた。花梨は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「そんなに複雑じゃなくて……、もっと簡単で、すごく現実的な可能性があるんだよ」
なかなか本質を話そうとしない花梨に、颯太は少しじれったさを覚える。急かすのは良くないと思いながらも、話の続きが聞きたくなってしまった。
「ごめん、つまりどういうことなの?」
少しだけ声に苛立ちが混じったのを花梨は感じ取ったのだろう。慌てた様子で花梨は謝罪の言葉を口にした。
「ごめんね、分かりにくいよね。でも私から颯太くんに、『それ』を話さない、って光と約束してるの」
「えっ、光?」
「うん。光との約束」
突然出てきた親友の名前に、颯太は息を飲む。
固まる颯太を見つめる花梨の目には、心配の色が滲んでいた。それでも「私が颯太くんに話したかったことと、少し繋がるところがあるから、話してもいいかな」と花梨は控えめに提案をする。
分からないことだらけだが、颯太は頷いた。
花梨は静かな口調で語り出した。
「私ね、光のことが好きなの。昔も、今も……。他の人と付き合おうって思ったこともあったけど、ダメだった。光じゃなきゃダメなんだって、思い知らされるだけなんだ」
最初は光に対する恋心を語っているのだと思った。しかし、少しずつ話は違う方向へと向かっていく。
「中等部の二年のとき、『それ』に気づいたの。体調が悪くて保健室に行ったとき、偶然休んでる颯太くんと会ったの。何かおかしいな、と思って私、光に話したんだ。一年の冬に光には振られてて、何でもいいから話すきっかけが欲しかったのかもしれない。でも颯太くんと一番仲がいいのは光で間違いないし……。言い訳がましいかもしれないけど、光に話すのは絶対に間違ってないって、あの頃は本当に思ってたの」
今はその判断が間違っていたと思っている。そう聞こえる言い回しだった。花梨が気づいたという『それ』が何か分からないまま、颯太は話を聞き続けていた。
どうしてか、胸の奥が気持ちの悪いくらいにざわめいている。言いようのない不安を覚えながら、颯太は花梨の言葉を聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
「光はね、知ってたみたいだった。聞いたことのないくらい強い口調で、『それ』は絶対に誰にも言うな、って言ったの。誰かに言ったら、お前のことを嫌いになる、って言われたかな」
「……光がそんなことを言ったの? 本当に?」
「信じられないよね。どんなときも怒らない、平和主義の光がだよ?」
そうまでして光が隠したい『それ』とは何なのか。颯太は気になって仕方がなかったが、今の話でようやく理解した。
花梨は今でもそのときの光との約束を守っている。光のことが好きで、光に嫌われることが何よりも怖かったから。
「嫌われたくなかったの。それにどうしてもこの恋を叶えたくて。だから私、言ったんだ。絶対に誰にも言わない。颯太くんにももちろん秘密にする。だから代わりに光は私のお願いを聞いてよ、って」
バラバラだったパズルのピースが、颯太の頭の中で一つ綺麗にはまった気がした。
花梨が願ったことは、光の彼女になりたい、に違いない。そして光は頷いたのだ。誰にも話すな、と言った『それ』について、花梨が口外しないように。交換条件として、自分を差し出したのだ。
「……それで西野さんと光は一時期付き合ってたんだ?」
「知ってたの?」
「つい最近ね。あの頃二人が付き合ってるっていう噂があったけど、実際どうだったのって訊いたら、光は無理矢理付き合わされてた、って言ってた」
言葉通り伝えるのは、今でも光のことが好きな花梨には、残酷な仕打ちかもしれない。しかし、颯太の心に静かな怒りが湧いているのも確かだった。
何かを秘密にするために、彼女にしてほしいと交換条件を提示した花梨に対して。
そして、どんな秘密かは分からないが、『それ』とやらを隠すために、あっさりと自身を差し出した光も。
花梨も、光自身も。結局のところ佐久間光という人間を大事にしていないのだ。尊重せず、軽んじている。だから秘密を守る代わりに付き合ってだなんて最低な言葉が出てくるし、光も頷いてしまう。
沸々と湧いてくる怒りを何とか抑えられているのは、光が身を挺してまで守ろうとした『それ』が、颯太に関係する何かだと察しているからだった。
「でも結局別れちゃった。中三の冬かな、我慢できなくなって、私から」
「……我慢って、そんなに光の態度が悪かったの? 意外と彼女に対しては横柄だったり?」
「まさか! 光だよ? 無理矢理付き合い始めたのに、本当の彼女みたいに優しくしてくれたし、すごく大事にしてくれたよ」
それならどうして、と颯太が訊ねるよりも先に、花梨が言葉を続ける。綺麗な目に悲しそうな色を滲ませながら、花梨は笑った。
「どんなに優しくしてもらっても、お姫様みたいに大切にされても……、私は光の一番にはなれなかったから」
花梨にかける言葉が見つからなかった。立場上は彼女でも、脅して付き合い始めたのだから自業自得だ。そう言えなかったのは、花梨が本当に光のことを想っているのが、言葉の端々から伝わってきたからかもしれない。
颯太はしばらく黙っていた。
花梨と会って聞きたかった話は、大体聞くことができた。光を脅すきっかけになった肝心の『それ』について、花梨が口を割ることはないだろう。
最終的には別れたとはいえ、光は花梨の交換条件を飲み、彼氏として立派に役目を果たしたのだ。ここで花梨が約束を破り、颯太に秘密を話してしまえば、光はきっと本当に花梨のことを嫌いになってしまう。
これは光に直接訊いていいものだろうか。しかしそうすると、颯太と花梨が話をしたことも光にバレてしまう可能性がある。花梨が『それ』について少しでも話した、と疑われるのは、さすがに可哀想な気がした。
颯太が頭を悩ませていると、花梨は無理矢理笑顔を作り、「ここで本題です!」と明るく声を上げた。
颯太はすでに本題のつもりで聞いていたが、まだ話の前振りだったらしい。戸惑う颯太に、お願いがあるの、と花梨は呟く。
「たぶん今も光は、『それ』を一人で抱えてる。でも『それ』は、光が一人で抱えるには重すぎるの。このままじゃいつか光が狂っちゃうんじゃないかって、心配で…………」
「……僕に『それ』を光から聞き出してほしいってこと?」
颯太の問いに、花梨は首を横に振った。
「ううん。光の家に泊まってるって言ったよね? それなら、カメラを仕掛けてみて。きっとそれが一番分かりやすいから」
「隠しカメラってこと? さすがにそれは……」
「お願い。光は昔から颯太くんがいないとダメだって、昨日言ったでしょ。同じなの。颯太くんじゃないと、光のことは救えないの」
だからお願い。光を助けてあげて。
花梨の切なる声に、颯太はためらいながらも頷いた。『それ』が何かは分からない。もしかしたら、開けてはいけないパンドラの箱に手を伸ばそうとしているのかも。
それでも颯太は頷くしかできなかったのだ。
親友が一人で苦しんでいるというのなら。そしてそれを救えるのが颯太しかいないというのなら、颯太は動かなければならない。たとえそれが、盗撮と呼ばれる手段であったとしても。
帰り際、花梨は少しだけ晴れやかな表情になっていた。ずっと秘密を抱え込み、花梨も悩んでいたのかもしれない。
颯太は上手くいくか分からないけど、と前置きをした上で、花梨に笑いかけた。
「もしも光が悩みから解放されて、もうちょっと気楽に生きられるようになったら。西野さんはまた光にアプローチしたらいいと思うよ」
今度は正々堂々とね。付け足した言葉に、花梨は恥ずかしそうに頰を赤らめた。
「光に好きになってもらいたいから、頑張る。ありがとね、颯太くん」
「ううん、こっちこそ、話を聞けてよかった」
優姫の件も『それ』について分かれば見方が変わってくると思う、と花梨はアドバイスをしてくれた。
光が花梨と付き合うことになったきっかけ。身体を張ってまで光が守ろうとした秘密。そして優姫のストーカー事件も見え方が一変するような『それ』。
うるさく騒ぐ心臓の音を聞きながら、颯太は自分が少しだけドキドキしていることに気がついていた。
光や花梨の頭を悩ませた大事な秘密。二人の生活を狂わせるような『それ』とは何なのか。不謹慎かもしれないが、颯太は好奇心に沸き立っていたのだ。
「ねえ颯太くん。ずっと言おうと思ってたんだ。あの頃は、ごめんね」
「えっ、なにが?」
「私、あれから……ずっと颯太くんのこと、避けちゃってたから」
花梨は言葉を濁してくれたけれど、颯太にははっきりと意味が伝わった。つまり、颯太の家に強盗が入ったあの日から、ということだ。
突然両親を殺され、一人だけ生き残ってしまった子ども。そんな子が同じクラスにいたって、どう接すればいいのかなど子どもに分かるはずがない。花梨だけではなく、他の同級生たちも同じだ。
無視をされたりはしなかったが、壊れかけの颯太を傷つけないように関わることはきっと難しかったのだろう。少し離れた距離から見守る人がほとんどだった。
「ううん、大丈夫。あれは普通に話しかけてくる光が変だったよ」
「ふふ。光は颯太くんのこと、大好きだから」
ちょっと嫉妬しちゃうくらい! と花梨が冗談を言うので、颯太は思わず吹き出した。
花梨は寄り道をして帰るというので、二人は店の前で別れた。またね、颯太くん! と明るい笑顔を見せる花梨に、颯太も笑って手を振った。
またね、という何気ない約束が二度と果たされないことも知らず。