帰り道。
一歩先を歩く光が、振り返って颯太に訊ねた。
「花梨に何か言われた?」
「ううん、何も。晒し者にしちゃってごめんって僕が謝ってただけだから」
「…………ふーん」
あまり納得していないような表情で、光が適当な相槌を打つ。自分が脅されていたからか、花梨のことをかなり警戒しているようだった。
連絡先を交換したことは話さない方がいいかもな、と考えながら、颯太は言葉を続ける。
「光こそ大丈夫? 西野さんとご飯に行く約束してたけど……」
「ぶっちゃけ面倒くさい」
「いや、そうじゃなくて。……付き合ってないにしても、まだ断りづらかったりするのかなって」
光が自ら話さないということは、きっと深く聞かないでほしいということだ。
そう思って追求せずにいたが、面倒だと言いながらも花梨の誘いを断らない光を見て、颯太はどうしても心配になってしまった。
ささいな表情の変化も見逃さないよう、颯太が光をまっすぐ見つめていると、光はおどけた口調で笑ってみせた。
「だーいじょうぶだって! 脅しの種がなくなったわけじゃないけど、今は別に何も言ってこないし。食事ぐらいなら誰とでも行くだろ?」
「それはそうかもしれないけどさ」
「颯太こそ、本っ当に何も言われてないのな?」
「うん。僕と西野さんじゃ、話すこともあんまりないし」
光に内緒で話がしたい、と言われたくらいなので、何かしら話すことはあるのだろう。颯太だって花梨に光のことを聞きたいと思っているくらいだ。
それでも光をこれ以上心配させたくなくて、颯太は笑顔を作る。
「公開告白はびっくりした、って言ってたけどね」
「あれな。颯太がお祝いの言葉って言い出したのも驚いたけど、それを上回る驚きだったな」
けらけらと面白そうに笑う光は、サプライズのお祝いをされた話には不自然なほど触れなかった。
周囲に話していないとはいえ、嫌っている父親のお祝いごとを、自分のことのように盛大に祝われたのだ。
気にしていないはずがない。不快に思っているのか、悲しいのか、怒っているのか。光の気持ちは、颯太には残念ながら分からなかった。
いっそ、愚痴にして吐き出してくれればいいのに。そんな気持ちを抱えながら颯太が光の横顔を盗み見ると、ばっちり目が合ってしまう。
「どうした? 何か言いたげですな、颯太さん」
「んー、……僕の大事な親友が、愚痴とか弱音とか全然吐き出してくれないから、大丈夫なのか心配になるなーって思ってただけだよ」
遠回しな表現で伝えた心配を受け、光は他人事だと言わんばかりの言い回しで返答する。
「そのイケメンな親友くんは、たぶん大好きな友達に、自分の汚いところを見せたくないんだろ。嫌われるのが怖くてさ」
颯太は両親を失ってから、何年も光に支えられて生きてきた。光がいなかったら、颯太は自ら命を絶っていたかもしれない。
だというのに、今更どうして光のことを嫌いになれるだろう。
あまりにも杞憂な光の発言に、颯太は思わず呆れてため息を吐いてしまった。光はため息に一瞬反応したように見えたが、颯太の顔を見ようとはしない。
本当に颯太に嫌われる可能性があると思っているなら、光はバカだ。
光の弱いところも汚いところも、どんな一面を見せられたとしても、嫌いになれない自信が颯太にはあった。
どんなに嫌なところがあったとしても、光がこれまで颯太に与えてくれた優しさも、そばで支え続けてくれた事実も、揺るぎはしない。
一つや二つの欠点で崩れてしまうほど、二人が築いてきた関係は脆くないはずだ。
「じゃあ光から僕の親友くんに伝えておいてくれる?」
「なんて?」
「そうだなぁ。今更嫌いになんてなるわけないでしょ、バカじゃないの、かな」
「…………はは。了解」
珍しく情けない声で、光が返事をする。
それから駅に着くまでの道中、光はずっと黙っていた。いつもはうるさいくらいに話し続けているくせに、光は口を閉ざしたままだ。
無理に弱音を吐かせたいと思っているわけではないので、颯太もそれ以上は追求しなかった。
光の家の最寄り駅に向かう電車はほどよく空いていた。ドアのそばの立ち、颯太は手すりに捕まる。光はポケットに手を突っ込みながら、ぼんやりとした表情で窓ガラスを眺めていた。
夜も更けていて、外は真っ暗で景色は見えない。ガラスに映るのは反射した電車内だ。
颯太も何気なく窓ガラスに目を移すと、反転した世界の中で、光と目が合った。
「…………今日、久しぶりに呼ばれてたじゃん」
「ん?」
「颯太の、前の苗字。あれ、腹立たなかった?」
「うん、別に。ずいぶん長いとこ聞いてなかったけど、案外しっくりくるものだね」
笑って答えた颯太の言葉を聞き、窓ガラスに映る光も表情を緩めた。
きっと幹事に悪気はなかった。あまり親しかったわけではない元クラスメイトの家庭の事情など、覚えていなかったとしても仕方がない。
颯太の答えを聞き、安心したように光は言葉を続ける。
「あの頃のこと、いろいろ思い出してた」
「……もしかしてそれでちょっと様子がおかしかったの?」
父親の件を元クラスメイトたちにサプライズで祝われたことを気にしているのだと颯太は思っていた。
しかし、颯太の疑問に光はあっさりと頷く。
「うん。ほら、颯太に思い出してほしいって言った手前、俺が覚えてないとは言えないじゃん?」
「ああ、そうだ。光が僕に思い出してほしいことって、結局何だったの?」
同窓会に参加させたがっていたのは、颯太に思い出してほしいことがあるからだ、と光は言っていた。そして、許してほしいのだ、と。
中等部の頃のクラスメイトと顔を合わせたことで、颯太の頭に懐かしい記憶が次々とよみがえった。しかし、多くのメンバーが初等部からの付き合いであるため、思い出の期間も量も多すぎる。
颯太が思い出したことの中に、光の求めている答えがあるのか。それは結局、光と答え合わせをしなければ分からないのだった。
「で、さっきの答えは? わざわざ同窓会に連れて行ってまで、光が僕に思い出させたいことって何?」
話の続きができたのは家に戻ってからだった。光はコンビニで買ったカフェオレを半分ほど飲み干し、「怒るなよ」と前置きした上で、その言葉を口にした。
「……事件の日のことだよ」
「え……?」
「颯太んちの……事件の日のこと。何か思い出したりしてない……?」
暑くはないはずなのに、やけに冷たい汗が背中を伝っていった。
光の言葉を聞き、頭で理解をしてから、途端に足元が不安定になったような気がした。颯太はぎゅうと締め付けられるような頭痛に眉を寄せ、唇を噛む。
颯太は知っている、光が優しい男だと。
颯太は分かっている、光が不用意に人を傷つけたりする性格ではないということも。
それでも今は、……今だけは、光の顔を見られなかった。
どんな表情で、どんな考えで光がそんな言葉を口にしたのか、想像もしたくなかった。
光を気遣う余裕が、颯太の心から抜け落ちてしまったのだ。
「……それ、つまり、光は僕に、あの事件のことを思い出してほしいってこと……?」
「事件のこと、っていうか……」
「それはいくらなんでも、残酷すぎない……?」
笑顔を作ろうとしたけれど、颯太の顔はきっと強張っていた。光の目を見ることはできず、不自然に光の首元を見つめながら呟くことしかできなかった。
光が息を飲み、「ごめん、そういう意味じゃないんだ」と言葉を紡ぐけれど、颯太の頭ではうまく処理しきれなかった。
「どうしてあの強盗事件を思い出させたいの……? 犯人逮捕のため? 僕が犯人を見てたら捕まえられたから?」
「違う、颯太。ごめん、俺が悪かったから……」
「お父さんもお母さんも包丁で滅多刺しにされたのに、僕だけ助かったもんね。子どもだったから殺すのは忍びないって思ったのかもしれないけど。殴られただけで殺されなかったんだから幸せかもね」
まあ、殴られたショックか、両親を殺されたショックか知らないけど、僕の記憶はすっぽり抜け落ちてるわけだけど。
付け加えた言葉に、光が大きく動いた。
少し離れた位置にある首元を見ていたはずなのに、いつのまにか光は距離を詰めてきて、颯太の肩を力強く掴んでいる。颯太、と今にも泣き出しそうな声で親友が名前を呼んだので、颯太は自責の言葉を紡ぐのはやめた。
ずきずきと頭が痛む。頭痛も、やけに速い心臓の鼓動も、突然へたくそになった呼吸も、全て颯太のトラウマと結びついている。本能的に拒否するかのように、両親の事件のことを思い出そうとすると、身体がどうしようもない不調を訴えた。
やけに浅い颯太の呼吸を宥めるように、光が大きな手で颯太の背中を優しくさする。
苦しさに生理的な涙が浮かび、颯太はその場に崩れ落ちた。背中をさする光の手もやけに冷たくて、でもその手に縋ることしかできなくて、颯太は情けなさにまた涙する。
「……ごめん、光が……悪いわけじゃ、ないのに……」
「…………俺が悪いよ、ごめんな。自分のことばっかりで、颯太のこと傷つけた。ごめん」
自分のことばかり、というのは、何の話だろうか。もしかして、思い出して許してほしい、と言っていたのと関係があるのかもしれない。
冷静な頭だったら、颯太はもう少し考えられただろう。しかし軽いパニック状態に陥っていた颯太は、光に謝罪された、という簡単な事実しか頭で処理することができなかった。
トリガーは、光の発言だった。あの事件の日のことを思い出していないか、という質問。それでも、颯太が縋れる相手は光しかいなかった。たとえこの場に他の誰かがいたとしても、やっぱり光に頼ることしかできなかっただろう。
颯太は涙をこぼしながら、助けて光、と呟く。その言葉に、やけに既視感を覚えた。
いつだったか思い出せないけれど、前にも颯太は光に泣きついた気がする。助けて光、と。
そのとき光はこう言ったんじゃなかったか。
『……大丈夫だよ颯太。俺が全部、何とかしてやる』
目の前の光は、颯太の背中をさするだけで、何も言わなかった。
俺が何とかする、と光が言ってくれたのは、夢の中の話か。それとも、実際にあった記憶なのだろうか。記憶なのだとしたら、それはいつの話だ? どうして颯太は覚えていないのだろう。
考えようとするほど、どんどん頭が痛くなり、颯太はついに意識を手放した。
どこか遠くで、「お前のせいだぞ」と颯太が言った気がした…………。