用意された客間の寝台に、ストラはここまで運んできたティアリーゼを寝かせた。
 神官の衣だけは脱がせ、上掛けを掛ける。
 慣れぬ治療で疲弊した少女を労わる様に、緩やかに波打つ金色を撫でた。
 その髪の柔らかさが心地よく、そのまま毛先をクルクルと(もてあそ)んでいるとすぐそばから低めの声が発せられる。

(あるじ)よ、貴方が来るならば我は必要なかったのでは?」

 声の主、少女からピューラと呼ばれている赤い小鳥はストラの肩から寝台のヘッドボードのふちへと飛び移る。
 すると突如炎が巻き起こり、治まったときには長い尾羽を持つ豪奢な鳥――フェニックスへと姿を変えた。

「……ティアリーゼの側にいるには人間に扮した方が都合がいいのでな。だが私が神殿へ赴けば神であることは知れてしまう」

 だから神殿にいるときは側にいられなかったのだと話すストラに、フェニックスは呆れをふんだんに含ませたため息を吐く。

「神殿にいるときだけなら見守らずとも良いでしょう? 神殿で神官に害を成そうとする者などいないのですから」

 神に仕え祈りを捧げる神官は、人間の中で一番神に近しい存在と言っても良い。
 その様な者に害を成せば天罰が下る、と幼い頃から言い聞かせられるのがハイリヒテルの人々だ。
 神官を……ましてや神殿内で害そうなどという者はまずいない。

「だが、万が一ということもある。……何より、一時たりともティアリーゼを一人にはしたくないのだ」

 ティアリーゼから目を離さずストラは淡々と答える。
 声の抑揚の無さに比べて、その眼差しには柔らかな色が浮かべられていた。

「……主は本当にティアリーゼが好きなのだな」

 またしてもため息付きで発せられた言葉に、ストラは初めてフェニックスの方を見た。
 その視線はジトリと少し湿っている。

「ああ、好きだが? だがお前とて好きだろう?」
「それはもちろん。美しい名を頂きましたし」
「……否定はしないが、今のお前には可愛らし過ぎるのではないか?」

 美しい名であるとはストラも思う。
 だが、どちらかというと雌に付ける名ではないだろうか?
 小鳥の姿ならばまだしも、豪華な羽をもつ誇り高そうなフェニックスには愛らしすぎるだろう。

「少々可愛らしいくらい問題ありません。……念願の名がもらえたのですから」
「……それは皮肉か?」
「そうですな。主である貴方はいつまで経っても名をつけてくれませんでしたから」

 羽繕いしながら皮肉たっぷりに告げる鳥にフンと鼻を鳴らしたストラは、視線をティアリーゼに戻し顔にかかっていた髪を寄せてやった。

 フワフワとした髪は柔らかく、触れると心地よい。
 今は閉じている瞼に隠れている瞳は、春の空のように透き通った清らかな青だ。
 小さな顔の輪郭の中央に位置する鼻は形も良く、その下にある小さな唇はとにかく愛らしい。
 眠るティアリーゼの頬を撫で、ストラは思う。

(美しく育った……可愛い私のティアリーゼ。こうして触れられる日が来るとは思ってもいなかったな)

 神は人間の祈りに乗せられた聖霊力がなければ大したことは出来ない。
 世を変える力があれども、人間の信仰がなければ自分の宮から出ることすら出来ないのだ。

 戦時ならばともかく、平時には存在すら忘れられていそうな軍神ストラ(じぶん)
 闘神(とうしん)など、戦いそのものに特化した神ならばまた別の場面でも祈りを捧げられることもあるだろう。
 だが、ストラはどちらかというと戦略の神。軍師としての役割が大きい。
 大きな戦など久しくないため、ストラは自分の宮へ引きこもっていることしか出来なかった。

 状況が変わったのは十二年前。
 一人の人間から、多大な聖霊力が祈りに乗せられ送られてきたのだ。

 神官ではない、つたない祈り。
 だが、その聖霊力は明るく柔らかでただただ心地良い。

 たった五歳の幼子が自分一柱(ひとり)だけに全ての聖霊力を送ってくれたのだ。
 一人だけとはいえ、その娘の聖霊力は多く純粋な力に溢れている。
 毎日捧げられる祈りのおかげで、ストラは神々の国を自由に動けるようになった。
 いくら表面上は公平であるべき神とはいえ、そのような娘を寵愛するなという方が無理なこと。
 立場故に神官にはなってもらえなかったが、この愛しい娘をずっと見守っていようと思っていた。

 だが、つい先日状況が一変する。
 見守っていた娘――ティアリーゼに死の危機が訪れたのだ。
 不条理な理由で一方的に湖に落とされる様子を見て、助けねばと思った。
 一人の人間にあまり干渉してはいけないと神々の間では決められている。
 だが、そんな決まり事など関係ないと迷うことなく体が動いていた。

 愛しい娘が、たった十七という若さで命の灯を消してしまう。
 許せることではない。

 ただ、そうして助けても今までのように自分に祈りを捧げてくれればいいと……それで十分だと思っていた。

 だが、ティアリーゼ本人の口から側で仕えたいとの言葉が出た途端自分の中に欲が生まれる。

 愛しい娘。
 美しく成長した少女が、自分の側にいたいと願った。
 それは、とても甘美な誘惑でもあった。
 ティアリーゼが側にいてくれる。
 柔らかな金の髪をいつでも撫でることが出来る。
 白く華奢な手に、いつでも触れることが出来る。
 その誘惑に頷きそうになったが、このまま神々の国に連れて行っもは彼女は十年と持たないだろう。
 そんな短い間しか共にいられないのなら、頷くべきではない。
 だから首を横に振ったというのに、ティアリーゼはそれでもいいと言い出した。

 ならば、方法は一つしかない。
 自分とティアリーゼ、どちらの願いも叶えようとするならば彼女が聖女となり神籍に入る以外にない。
 そして、どうせ神籍に入り神と同等の存在になるのならば、側仕えなどにする必要もない。
 それならば、側仕えよりもっと近しい――自分の妻という立場になってもらいたいと思った。

 いつでも彼女に触れていい権利。
 触れるだけではなく、抱き締め、口づけをしてもいい権利を有する彼女の夫になりたいと思ったのだ。

 戸惑い固まってしまったティアリーゼに、少し卑怯だと思ったが妻にと望み頷かせた。
 ちゃんと理解出来ていたかは定かではないが、言質(げんち)は取った。
 後からどうしても嫌だと言うのならば、仕方ないと初めの要望通り側仕えにと変えただろうが……。

「……フッ」

 街で不審者に連れて行かれそうだった所を助けたときのことを思い出す。
 あえて夫という言葉を使って意識させてみたところ、目に見えて顔が赤くなった。
 涙がにじみ少々焦ったが、恥ずかしいだけだと言われてはただただ可愛らしい。
 可愛らしくて、もっと触れたくなったのだ。

 流石に口づけは早いと自制し、浮かんだ涙を吸い取るだけに留めた。
 だが、少々やり過ぎたのかティアリーゼはそのまま固まってしまう。

 彼女のその後の反応を見るに、夫婦になることへの嫌悪感などはない様に思える。
 共に行くと差し出した手にも、そっと白く柔らかな手を乗せてくれた。

 拒絶も嫌悪もなく、自分と夫婦になることを受け入れようとしてくれているティアリーゼ。
 ならばもう遠慮することはない。
 彼女も嫌でないのならば、何が何でも愛しい娘を妻にしよう。
 そのために聖女を目指す彼女への助力は惜しまない。

(私の最愛――ティアリーゼ……私の全力でもって、お前を聖女にしよう)

 ティアリーゼの髪を労わる様に撫で続けながら、ストラはそう決意した。