「アージェ、堀江んとこ行け」
「なんだそりゃ、命令か?」
「命令だ」
「御大層だな、なにがある?」
「行ってみりゃわかる」
「ふん、まあいいさ行きゃあいいんだろ、取り分は五十だぜ」
 忘れんなよと念を押し、アージェは立ち上がる。机の上に投げ出してあったクラッチバックを片手に、踊るように軽やかな足取りで事務所から出て行く彼を、塚原は不服そうに見送った。
「いいんですか幸人さん」
「なにが、かまわんだろ?」
「しかし……」
「あいつとはそういう契約なんだ、気にすんな」
 態度が悪すぎると不平を言う塚原の肩をぽんぽんと叩き、新貝幸人は事務所の窓辺に立った。ブラインドの隙間から、アージェの姿が見える。自分のことに無頓着なアージェは髪も伸び放題、少々背は高いが、後ろ姿だけなら女のようだ。顔立ちも悪くはない。頬に火傷痕があるのが残念だ。
「強情な奴だよ、ったくな」
 FOX事件はまだ時効ではない。警察だって忘れてはいないだろう。少しでも印象を変えるため、整形はしたほうがいいと何度も話したがアージェはそれを拒んだ。彼にとってあの傷は、両親との唯一の思い出なのだ。自分が自分であるために、傷は必要なのだろう。
 仕方なく名前だけ変えさせた。今の通り名、アージェンとは、銀色という意味だ。
 その名のとおり、現在の彼は白銀に輝くような美しさを持っている。二年前とは大違いだ。その内側に嘗て存在していた美少女フィーンと、無垢な少年ゼノを吸収し、まるでサナギが孵るように美しくなった。
 自分の美に無頓着なアージェを、新貝は眩しそうな目で見つめる。
「アージェ……お前どうする?」
「なにかおっしゃいましたか?」
「ああいや、なんでもねえよ」
 健気だがどこか疎いところのある塚原に気にするなと答え、すぐ隣にある闇を嫌悪の瞳で見つめた。
 暗闇はどこにでもある。司法や行政が光を当てようとしても消えることなく、それどころか増える一方。いつか世界を覆いつくすかもしれない。
 だがそうなっても一部の上位者たちは笑ってるだろう。優雅にドレスの裾を翻し、自慢話に花を咲かせ、誰の口にも入らなかった贅を極めた皿たちは、そのままゴミ箱へと放り込まれていく。
 間違っているとみんな心のどこかでわかっていて、誰もそれを変えようとはしない。誰しも自分が一番大事、生活の質をを今より一ミリだって落としたくないのだ。そして、食べられることのなかったステーキが生ゴミにとして処分されているとき、一粒の米さえ与えられず、飢えて乾いて死んでいく者もいる。
 ほとんどの人間はそれを知っている。知っていて知らないふりをしている。テレビのニュースや隣近所で起きた事件として初めて知ったふりをし、そのときだけの同情を振りまき、ほどこしをして、自分は健全で理性的な優しい人間だと安心しようとしている。
 だが一時凌ぎの同情などなんの足しにもならない。今日も明日も穏児《おに》たちは啼き、増え続けるだろう。誰にもそれを止めることは出来ない。出来るとしたら、それは自ら羅刹鬼《おうが》となった者だけだ。

「俺はもう降りた、根性なしなもんでな」
 独り言のようにそう呟き、新貝は身を翻した。地回りどもとの攻防戦、法の目潜り、利益追求したり、たまには娯楽も追う。やらなければならないことは山積みだ。
「お前がその目で見て決めればいい、助けるもよし、見て見ぬふりをするもよし、見捨てたとしても、誰もお前を責めはしない……なあ塚原?」
「え、なんですか?」
「なんでもねえよ」
「何でもないなら早く仕事してください、昨日話した示談書には目通したんですか?」
「や、まだ……」
「まだですか? 急いでくださいと言いましたよね?」
「う、るさいな、わかって……」
 何気なく漏らした言葉に、塚原は鋭く突っ込んでくる。サボってましたねと詰め寄られてつい怯んだ。
「わかってません、言い訳はいいですから今すぐ!」
「はいはい」
「返事は一回でいいですよ」
「塚原……お前ホンットうるせえな」
「あなたがきちんとやってくれないからですよ、私だって言いたいわけじゃない」
「なら言わなきゃいいだろ」
「あなたが進んで仕事するなら言いません」
 思わず出た反論は、さらに情勢を悪化させた。新貝も仕方なく机に向かい、山積みの書類に手を付ける。
 今日も長くなりそうだ。

 *

 新貝から指示された標的の家につく頃には日も落ち、あたりは真っ暗だった。なにしろサウス商会から100キロ近く離れた山奥だ。外灯もなければ、隣近所というのもない。山の中腹にポツンと建つ小さな山小屋、そこに件の堀江夫妻が住んでいる。
 なんでそんな人里離れたところにまで客がいるんだと聞くと、はじめは都心に住んでいたのが昨年初めに引っ越していったと言われた。
「引っ越せば借金はチャラ、なんてことにはなんねえって奴らに教えてやんだよ」
「ふん、まあそうだな」

 堀江夫妻の引っ越しは、例に洩れず貧困からだ。夫のほうが失業し、再就職にも失敗、貯金が完全に尽きる前にと、親類のいる土地へと移り住んだ。今住んでいる山小屋も親類の持ち物だ。使ってないからと無償で借りているらしい。
 サウス商会から何回か借金取り立てに行っているが、元金どころか利子さえ満足に取り返せていないのが現状で、とうとうアージェにお鉢が回って来たというわけだ。
「六時か、微妙だな、ちゃんと仕事をしてるならまだ帰ってない可能性が高いが……」
 ようやくたどり着いた家の前で立ち止まり、アージェは首を傾げた。粗末な山小屋にはぼんやり明かりが灯っている。小さな光だがあたりが暗いので目立つ。暗闇の中、そこだけがまるでパラダイスのように温かい……ように見える。
 だがそれは幻想にすぎない。
 正規の金融機関で金を借りられず、サウス商会のような怪しげな会社から金を借りている時点でOUTだが、ここの住人はそこからさらに、借金を踏み倒して逃げようとこんなド田舎に移り住んでいるという曰く付きだ。それで幸せだったら逆に張り倒してやりたくなる。不幸で正解だ。
「さてどうするか……」
 こちらは正規の取り立てだ、たまには堂々と表玄関から訪問してもいいかなと呟きながらも、つい、習性で裏口へと回りこんだ。外灯のない暗い世界が一段と暗くなる。

「お父さん! お父さん! やめて!」
 暗闇から急に声が聞こえ思わず足を止めると、そこには丸太で出来たバルコニーがあった。バルコニーに面した窓からは、大柄な男と、男に縋りつく小さな子供、そして床に投げ捨てられている「人間」らしき影が見えた。 やがて男も床に倒れこみ、子供は膝立ちのまま動かなくなった。

「ちっ」
 そこまで傍観していたアージェはそこで舌打ちをし、家の窓にに近づいた。パキンと小枝の折れる音がし、少年が振り向く。子供は十歳前後といったところか、まだ幼い。
 ガラス窓をコンコンと叩き、ここを開けてくれと話すと、素直に錠を開けた。
「おじさん、誰……?」
 無邪気に訊ねてくる子供の右手には、赤黒い液体を滴らせた鎌型包丁が握られている。
「おじさんは酷いな、お兄さんと呼んでくれないか」
「あ、ごめんさない……お兄さん誰?」
 相手は小学生、こちらは二十代半ば、おじさんと呼ばれても仕方ないのかもしれないが、さすがに抵抗がある。まだそんな年じゃない。つい口から出た反論に少年は素直に答えた。素直な子供は好きだ。
 好きだが、素直な子供は生き難い。新貝が自分をここに来させたのは、これを見せるためかと納得し、アージェは頭を掻いた。
 やれやれだ。自分もそれほど暇ではない。
「俺はアージェ、お前は?」
「アージェさん? 僕は、空呀《くうが》」
「クウガ? 変わった名だな」
「ママがつけてくれたんだ、空を食べちゃうくらい大きな人間になれって」
「そうか、お前のママはいいことを言うな」
「うん!」
 母親のことを褒めるとクウガは嬉しそうに笑った。嫌になるくらい素直ないい子だ。アージェは憂鬱な気分を誤魔化すように指を鳴らし、クウガに近づいた。
 大きめのTシャツから覗く手はそれほど細くはないが袖口からわずかに変色した痣のようなものが見える。例に洩れずというヤツだ。
 小さく息を吐き、佇むクウガのシャツをまくり上げた。
「あっ……っ」
 アージェは息を飲み、クウガは小さな悲鳴をあげた。
 シャツの下には、鳩尾から下腹あたりまで、目を疑うような大きな青黒い痣がある。クウガは慌ててシャツを降ろし身体を隠した。酷く狼狽している。

「誰にやられた?」
「…………」
「おい、聞いてるんだぞ、そいつは誰がやったんだ?」
 丁重に聞いてもクウガは答えない。これも教科書どおりだ。そう思えば思うほど、気分はイラついて来る。口調もついきつくなった。
「親父にか?」
「違うよ!」
「じゃあ誰だ、かーちゃんか?」
「お母さんはそんなことしない!」
 母親のことを引き合いに出すとクウガは激昂した。どうやらこちらを敵と認識したようだ。拳を固く握り睨み返してくる。
「じゃあ誰だ?」
 さらに訊ねるとクウガは握った拳を震わせ、怒鳴った。
「お前なんだよ! 悪い奴か? お父さんとお母さんを困らせる気だろ! 帰れ!」
「なんだ、そんな目にあってもまだ親父を庇うのか? 間抜けだな」
「うるさい! 帰れ、帰れ!」
 ここから一歩も通さないぞと両手を広げ、クウガは怒鳴った。その懸命さが切ない。
「はいはいわかった、帰るよ」
 ほんの数秒、帰ると言っても気を許さず、血の滴る包丁を構えて身構えるクウガを見つめた。出て行けと睨む姿は一端の漢だが、自分の姿を見るようで、気持ちが悪い。身を翻しかけたアージェは、ふと思い立ったように振り返る。クウガはまだ自分を睨んでいた。
「少年、そいつはお前が殺ったのかい?」
「え……?」
 なんのことかわからない。クウガはそんな顔をした。
 厄介な話だ。アージェは立ち尽くすクウガの前にしゃがみ込んで、その瞳を覘きこみながらゆっくりと訊ねた。
「これは、お前がやったのか?」
「これ……?」
 事態を飲み込んでいないらしいクウガは、血染めの包丁を手に呆然とした表情で訊ね返す。アージェは真正面からクウガを見つめたまま、あたりの遺体を示した。
「これだよ、お前がやったのか?」
「え? ぇ、あ……あ、ぁあっ!」
 暫く黙り込んでいたクウガは、部屋中に倒れている家族の遺体を見て驚き、頭を覆って叫んだ。叫びは闇に響き渡る。共鳴する魂に引き摺られるように、アージェはクウガを抱きしめた。
 これまでの過程はしらない。クウガの境遇も生活も、家族の形も想像の域を出はしない。だが、彼は戦ったのだ。自分と、父親と、境遇と……世界と戦い、この道を選んだ。それしか選びようがなかったのだとアージェには思えた。

「お前を苦しめる者はもういない、お前は自由だ」
「……自由?」
 そんなこと、考えたこともなかったという表情で、クウガは顔を上げた。その手も頬も、胸も、返り血で赤く染まっている。その中でアージェは消えかけていた何かが、沸々と湧き上がってくるのを感じていた。
「自由だ」
 もしかしたら、あのときの新貝も、こんな気分だったのかもしれない。
 そんなことを考えながら、胸ポケットに仕舞い込んでいた名刺を取り出す。
「金が欲しくなったらここへ来な、話は通しとく」
「え……?」
「這い上がれるか、上がれないか、それはお前次第だ、その気になったら来るといい」
 きょとんとするクウガに名刺を手渡したアージェは、ぼさぼさの頭をポンポンと叩いて立ち上がった。
 身体の内側から錆びた鉄のような赤黒い何かが靄のように湧いて来る。
 外に出て何気なく見上げた夜空には分厚い雨雲が立ち込めていた。

 やがて雨が降るだろう。
 黒く、赤く、紅い。紅鈍色の、血の雨が……。
 そして惨劇は続いていく。

 この雨は止まない。


                 ― 了 ―