思うこと全てを吐き出せたのか、話し終えたオウガは穏やかだった。穏やかでないのは草薙のほうだ。オウガが語った壮絶な物語をどこか遠い世界の絵空事のように聞きながらも背中に冷や汗が流れる。
 彼の言うことが本当なら、今ここにいる子供はゼノの姿を借りた別人ということになる。そんなことあり得るのかと自問したが、的確な答えは出ない。
 だが、あり得るあり得ないの前に、感覚が答えを出していた。
 これは、ゼノではない。

「きみはオウガ……なんだね」
「ああ」
 静かな目で答えるオウガに、草薙も小さな笑みを浮かべた。
 彼の名の由来となった物語は自分のデビュー作、「フィーンドハンター」だ。目の前の子供が自分の本の愛読者だったというのが、こんなときなのに少し嬉しい。
「ご愛読ありがとう」
「え……?」
「キミの名前の由来だよ、その小説、僕が書いたんだ」
「え……ぇ?」
 作者なんだと話すと、オウガは目を丸くした。どうやら十二分に驚いてもらえたようだ。
「あの本の作者? 本当に?」
「うん」
 草薙の返事を聞いたオウガは目を瞠ったまま黙り込んだ。
 彼にとってそれがどれほど重要なのかはわからないが、長い時間黙り込み、やがてゆっくりと表情を変える。どこか責めるような、怒っているような、或いは照れ隠しか、硬く険しい顔だ。
「あんたに会ってみたかった、会って聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと?」
 なにかなと聞き返すと、オウガは目を伏せ、躊躇いがちに話しだした。さっきまでとは違い、幼子のような純真な表情が草薙の庇護欲をそそる。
「羅刹《おうが》たちは、なぜ人を殺すんだ? 喰うためなのはわかってる、だが喰わなくても生きていけるのに、なんでわざわざ喰うんだ、その理由がわからない」
「ああ……」
 作中では、羅刹《おうが》が人を食べる理由を快楽を得るため、もしくは自分がより上位種だと証明するため、または仲間同士の自己顕示欲から来る行いだとしていた。ようするに主人公の正義を際立たせるためだけの、悪役のための悪役だ。それが解せないと話す。
 それは確かにその通りだ。草薙としても羅刹《おうが》たちの思いや立場など一応の設定はあるものの、物語の中では触れてこなかった。物語は主人公と仲間たちの思いや人生、共通の敵である羅刹《おうが》を倒すために結びついて行く登場人物たちの触れ合いや、生き様を描いたものであり、話の筋を通す意味でも羅刹《おうが》は純然たる悪でなければならなかった。羅刹《おうが》側の思いを入れてしまうと物語の軸がずれてしまう。
 だがオウガはそこを突いた。羅刹《おうが》たちの生きる意味、行動の裏を知りたいという。
「そこまで深く読んでくれてありがとう……そうだね、実は羅刹《おうが》たちにも言い分はある、ただ話の流れ上、触れてこなかっただけなんだ」
「彼らはなぜ人を殺す? なぜ喰う?」
「そうだね、突き詰めるとそこは復讐のためかもしれない」
「復讐……」
「ああ」
 羅刹《おうが》はすべて人の腹から、人の子として生まれる。
 生まれたときは人と変わりない。だが成長するにつれ、ひたいに角《つの》が伸びはじめ、口元には牙《きば》が現れて来る。そうなると周りも気づく。そして気づかれれば怖がられ蔑まれ、唾吐かれ、石を投げられるようになる。
 多くは思春期あたりで体現されるため、本人のダメージは大きく、イジメや迫害の憂き目にあった羅刹《おうが》たちは、やがて人を憎むようになる。
 さらに、羅刹《おうが》になると味覚、というか、食欲にも変化があり、生肉、とくに人肉を好むようになる。
 人間がとる一般的な食事も受け付けるが、それは人にとってのサプリメントや健康食品と同じで、活動するためのエネルギーにはなるが、無味乾燥、砂を飲むようなものなのだ。
 真の美食は生の人肉でしか味わえない。
 だから最初は復讐のため、そして長じては美食のため、羅刹《おうが》たちは人を喰う。
 羅刹《おうが》はただ美味いものが食いたいだけなのだ、それを責めることはできない。
 人間だって、栄養素だけが整えられた不味い飯より、舌が蕩けるような美味を求める、羅刹《おうが》にだけ、それを我慢せよというのはおかしな話だ。しかしだからといって、ではどうぞと我が身を差し出す者もいない。
 人から見れば羅刹《おうが》は天敵、害虫と同じで、見つけ次第駆除しなければならない存在だ。そうしなければ自分の身が危ない。
 だからフィーンドハンターは羅刹《おうが》を狩り、倒す。それが物語上での正論であり、そこは覆せない。
 だが、羅刹《おうが》たちにも一分の理、設定としては同情すべき点はあった。ただそこを書くと話の収拾がつかなくなるため書かなかっただけだ。
 そう話すとオウガは淀んだ目をいっそう暗くし、納得がいったというように頷いた。
「つまり人間たちは都合の悪い部分には目を瞑り、羅刹《おうが》たちを殺していったというわけだ」
「いや、そう決めつけられると……」
「そうだろ、羅刹《おうが》の中には人を喰わない者だっていた、だが人間たちはいつか人を喰うかもしれないという仮定に怯え、羅刹《おうが》を殺していった、最低だ、人間のほうが……人間こそ鬼じゃないか!」
 まるで今そこで実際にあった出来事のようにオウガは怒鳴った。だがこれはただの物語だ、作り話であり、現実に起こった話ではない。書き手としては戸惑う。しかし自分の書いた物語にそこまで魅かれ、真剣に考えてくれていると思えば少し嬉しくもある。だからオウガの思いは素直に受け取った。
「そうだね、うん、理不尽だ、羅刹《おうが》たちもなりたくてなったわけじゃない、むやみに人を殺していたわけでもない、でも人間としては自分に害成す可能性があるモノを排除したいと思うのも、自然な感情だし」
「なにを身勝手な、自分たちだってやってることだ、人は牛や豚を食うだろ、じゃああんたらは牛たちに殺されても文句ないと?」
「それは曲論だ」
「違う、真実だ、あんたら大人が俺たちを追い詰めたんだ!」
「オウガ……」
 俺たち、とオウガは言った。物語の話ではなく自分たちのこととして怒り叫んだ。
 物語上の理不尽は、彼にとってただの作り話と笑い飛ばすことのできない不条理なのだ。どこからか、それとも最初からか、オウガは羅刹《おうが》の生き様立場を我が身とすり替えている。
 だがもしこれが実際彼らの身に起こったことだというなら過酷過ぎる。
「だから、きみたちは人を殺したの?」
 確信をもって切り込んだ。虚を突かれたオウガは目を瞠る。失言に驚いているようだった。そうして暫く黙り込んでいたが、やがて観念したように息を吐き、決意を持った瞳で頷いた。
「そうだ」
 自ら犯した罪を懺悔する殉教者のようにオウガは答えた。それに準《なぞら》え、草薙も聖職者のように平静を装い訊ね返す。

「キミたちを脅かした大人たちを殺したんだね、それは誰?」
 誰を殺したのかという意味で聞いた。しかしオウガは違う意味でとったらしい。自分だと答えた。
「やったのは俺だ、俺とフィーン、ゼノは手を出していない」
「ゼノはやってない? でもキミはゼノでもあるんだろう?」
 今までの話を総合すると、オウガとフィーンはゼノの身体を借り、ゼノの手で犯行を繰り返していたことになる。一つの身体に三つの魂があるとして、その中の二人が罪を犯せば、残りの一人も同罪となるのではないか?
 魂が三つあるなどというオカルトじみた話ではなく、もし仮にこれが自作自演、或いは二重人格のようなものだったとしたら……。
 複数に分かれた副人格の一つが人を殺したとして、主人格である本人に罪はないと言えるのか、法的に考えた場合そこは怪しい、まず演技だと疑われるだろう。
 信じてもらえたとしても、判断能力が欠如しているととってもらえるかどうか……少なくともオウガには自分が罪を犯したという自覚があり、それを後悔し反省しているような様子も見える。とても精神不安定とは見えない。
 もう一人、フィーンというのがどのような人物なのかは会っていないのでわからないが、それでももし彼らが捕まり裁判になったとしたら無罪に持ち込むのは難しいような気がする。
 そう話すと、オウガはそんな馬鹿なと机を叩いた。
「ふざけるな、ゼノはやってない! だいたい俺たちはいつでもこの身体から出て行けるんだ、フィーンはもう出て行った、俺も出るつもりだ、そうしたらこの身体はゼノだけのものになる、それでも裁こうというのか? ゼノは無罪だぞ、それでも?」
「それでもだよ、オウガ……キミの話が本当だとして」
「本当だ!」
「うん、でもそうだとしても、それを証明出来なければ信じてはもらえない、きみたちが出て行ってもゼノの罪状は変わらないよたぶん」
「そんな……じゃあどうすればいいんだ、どうすればゼノを救える!」
 髪を振り乱し、声を荒げてオウガは怒鳴った。どうしても納得できないようだ。自分たちの罪を、善意で身体を貸してくれていたゼノに被せたくないという。
 気持ちはわからなくない。だがそう思うならなぜゼノの身体を使ったのだ。最初からもっと違う方法をとっていればこんなことにはならなかったはずではないか。
 それにゼノだって完全に無罪とは言えない。オウガやフィーンが人を殺すと知っていて止めなかった。そしてそれだけではなく自らも積極的に協力している。下調べをし、障害を排除して二人の犯罪行為を手助けしている。実行犯ではないので多少罪が軽いとしても、ほとんど同罪だ。
 草薙の説明にオウガは頭を抱えた。
「どうしたらいいんだ……」
 オウガは落胆しているようだが、草薙もまた戸惑っていた。彼が何を望んでいるのか、何をどうしたいのかが今ひとつわからない。
 あなたを信用すると言って付いてきて、全て話すと言ったがそれはどういう意味なのか。自分に何を求め、オウガ自身はなにをしたいのか、まずはそこからだ。そこで、キミ自身はどうしたいのだと訊ねた。オウガはそれに即答する。
「俺は間違ってた、こんなことに加担すべきではなかったんだ」
「人を殺めたり、傷つけたりすることにってこと?」
「ああ、復讐ならほかにやり方があったはずだ、どうしても許せないなら、それも仕方ない、親たちを殺した時点で満足すべきだった」
「でも続けた」
「ああ」
「なぜ?」
「なぜ……」
「うん、なぜかな?」
 ゆっくり聞き返すと、オウガも深呼吸し、ゆっくりと答えた。
「フィーンがやりたがったから……かもな」
 フィーンの名を出したオウガは柔らかな表情をしていた。加担してしまったことを後悔するように深く暗い息を吐き、遠くを見つめて話す。
「俺はゼノを救いたかった、ゼノはフィーンを護りたかった、どちらも叶わなかったが、俺たちは真剣だったんだ」

 両親を殺してしまった夜、家を飛び出してからのことは、正直よく覚えていない。たぶんあちこち彷徨い、どうしてこんなことになったのかと後悔しては自分を呪っていたのだろう。気づけば隣町の河川にいた。

 地元の人間が羅梵《らぼん》川と呼ぶその川は、川幅も広く水深もかなり深いらしい。中心部あたりとなると、大人でも背が立たない。一説には十メーター近くあるとも聞くが、確かめた者はいない。なぜならそこに凶暴な肉食魚がいるからだ。
 肉食魚というとピラニアを真っ先に思い浮かべるが、そこにいるのは大きいものは体長一メートルを超えるという大型魚だ。詳しい生態は研究されていないのでわからないが、おそらくピラニアと同じセルラサルムス亜科のさらに亜種だろう。
 セルラサルムス亜科の魚類は淡水魚で多くは小型でおとなしい。観賞用として飼うこともあるので、もしかしたら飼うことに飽きた人間が川に放し、それが環境に適応して変化したものなのかもしれない。
 そんな得体の知れない肉食魚の生息する川だ、行政側も立ち入り禁止として立て札がかけられている。
 だがそんな札はなんの役にも立たない。その場所はホームレスやはみ出し者が多く出入りしていた。死体の始末に困った犯罪者などもいるらしい。物騒な場所だ。
 なんでこんなところに入り込んでしまったのだろう。
 急に怖くなり、慌てて引き返そうとしたが慌て過ぎていたのだろう、何かに躓いて転んだ。思わず手をつくと、なにか柔らかいものに触れる。ぶにゃっと妙に湿った感触がして、鳥肌が立った。腐臭が鼻につく。
 その柔らかいものがなんなのか、恐る恐る見つめた。最初に目に触れたものは薄青いポロシャツのような服の小さなポケットだった。それを目で追って行くうち、そのシャツを着ている者の手が見えてくる。ひどく細く、小さな腕だ。腕に張り付いた肉は緑色に変色し、所々骨も覗いていた。
「ぅわっ……っ!」
 驚いて立ち上がり後ずさる。
 人だ。それもかなり小さい、子供かもしれない。
 なぜこんなところに……白く霞んだ頭の中でそう考えながらその全容を見た。遺体が着ている服は泥だらけであちこち擦り切れ引き裂かれてボロボロだった。逆によくこれで人の服だと気づけたものだ。
 袖から伸びた腕の肉はほとんど剥げ落ち、骨だけのように見える。頭らしきも部分は残っているがそれもあちこち肉が剥がれ、生前どんな顔をしていたのかわからない。その他、身体も足も骨とそれにこびりつく腐った肉片だけで、男女の区別さえつかなかった。
「酷い……」
 この遺体がどこの誰で、なぜこんなところで死んでいるのか、事情はわからないが、酷過ぎる。何の罪があったとしても、こんな悲惨な最期を遂げていい理由にはならないはずだ。少なくとも、自分はこうはなりたくない。
 自らの行く末を思い、気分が悪くなった。腐臭と悪寒で吐きそうだ。こんな場所にいられない。疲れて縺れる足を必死で動かしその場を離れる。

────おにいさん。

「え……?」
 そのとき、どこかで名を呼ばれたような気がして振り向いた。だがあたりには誰もいない。胸騒ぎがする。脳裏には以前見かけた幼い兄妹の顔が浮かび、動悸がしてくる。
 妹のほうは見ていないが、兄のほうは六歳くらいに見えた。兄妹の暮らしはかなり酷い様子で、満足に食事も与えられてはいないようだった。
 なぜ急に思い出したのだ。彼にまさかなにかあったのか? 
 まさか……。
 込み上げてくる不安に押され、自身もまだ子供だった銀は、夜の河原から駆け出していった。

 *

「それで?」
 話し続けるオウガに、草薙は相槌を打った。焦ってはいけないのはわかるが、話が遠回り過ぎて少し焦れる。腰を折られたオウガは夢から覚めたように瞳を開き、そのあとすぐ無表情になった。
「ゼノは優しい子供なんだ、両親から見放され、自分の命さえ危うい毎日なのに妹の世話をし続けた、ゼノが見てやらなければ妹は最初の誕生日もむかえられないまま死んでただろう、それぐらい二人は追い詰められていた」
 淡々と話すオウガは誰も寄せ付けないポーカーフェイスだ。
「ああ」
 これは失敗したかなと、自分の短慮を後悔しながら頷くと、オウガはあんたになにがわかるという感じの小馬鹿にした笑みを口元に浮かべ、先を続けた。
「護り切れず、妹は死んだ、唯一の生き甲斐が無くなったんだ、護れなかった、それが相当に苦しかったんだろう……あいつは、誰かを護れる存在になりたかったんだ、たぶん」
 誰かを護りたい、幸せにしてやりたい。自身もまだ子供で、それも酷く小さいのに、彼はそう思ったのだ。その思いが、フィーンを支えることに繋がった。
 理不尽に踏み躙られ、世界に復讐を誓う哀しい少女を護り、彼女の望みを全て叶えてやれる存在になろうとした。その結果、屍を踏んで歩くような修羅の道を歩むことになっても、本望だったに違いない。
 それが草薙に会い、優しさと温もりに触れ、決心が鈍った。
 この温かい世界で普通の子供として普通に生きていきたい。
 心のどこかでそう願っている自分に気づき愕然としたに違いない。
 だが自分はすでに血の道を歩いている、今さら温かい世界に居つけない。復讐のため殺戮を繰り返すフィーンを見捨てることも出来ない。
 だからゼノは背を向けた。
 しかし……。
「この先の殺戮を、血に塗れる自分を、あんたに見られたくない、ゼノはそう思ったんだ、たぶんな」
「なんで……そう思うならやめればいい、そうだろ、出て行く必要はないじゃないか」
「そう簡単じゃない」
「そりゃ、でも……」
 それきり口を噤もうとするオウガに、何と言っていいのかわからなくなった。この話が本当なら彼らは殺人者だ、自首して罪を償うのが筋だろう。しかしそうしろとは言えない。彼らにも彼らの言い分や思いがあり、苦しんできたのだ。
 自分たちのしていることは間違っていると、本当はわかっていたに違いない。少なくともオウガとゼノはわかっていたはずだ。それでもやめられなかった。
 ゼノが加担したのはフィーンのため、オウガが参加したのはゼノのため、ではすべてフィーンのせいか? 彼女が悪いのか?
 そうとしか取れないが、一方的な話だけで判断は出来ない。彼女のほうにも言い分はあるかもしれない。疑えばオウガの話が嘘である可能性だってある。嘘でなくても、自分に都合の悪い部分は隠しているかもしれない。だとしたらいまここで結論は出せない。
 フィーンに会ってみたい。会うべきだと思った。
「フィーンに、会えないかな? 彼女は今どこに」
「フィーンに会う? 正気か? 殺されるぞ」
「まさか、俺は彼女に殺されるようなことはしてない」
「そんな理屈が通る相手じゃない、彼女は人間を憎んでる、特に大人を、男ならなおだ、ゼノがいれば止めてくれたろうが、今ゼノはいない、俺ではフィーンを止められない」
「でも会って話してみなけりゃわからないだろ、これじゃ欠席裁判だ、彼女の話も聞かなけりゃ」
「だからそれが甘いって……っ!」
 怒鳴りかけたオウガは、そこでぴたりと口を噤んだ。彼の後ろから一陣の風が吹き抜ける。

「え……?」

 ドアは閉じている、さっき部屋に入るとき閉めた。窓も開いていないし、空調もつけていない。それなのに空気が揺れる。
「なに……なんだ?」
 蠢く風に乗り、微かに甘い匂いが漂っていた。オウガは緊張の隠しきれないやや強張った表情で、じっとあたりを伺っているようだ。
 二人のほかには誰もいない室内で、空気だけが揺蕩うように揺れる。
 ふと感じられた気配はゆるゆると動き回り、徐々に近づいてきた。しだいに濃くなる甘い匂いが、確かにそこになにかいると教えている。
「誰か……いるのか?」
 あり得ないぞと頭の中で呟きながら、声に出した。漂う匂いは濃度を増し、それが熟成されたワインの香りに似ていることに気づいた。
 潰され閉じ込められ腐りはてた命の匂。腐臭を纏ったナニカ、それが目の前にいる。
 ナニカとはなんだ?
 まさか……。
 草薙が声に出して訊ねる前に、オウガが呟いた。

「フィーン……っ!」

 声を上げた途端、オウガは突き飛ばされたように背後へのめり、小さく呻いた。両手を前へ差し伸べたまま固まってしまった彼を、草薙はただおろおろと見つめる。
 なにが起きたのか、あるいはこれから起こるのか、それを見てはいけないと本能が教える。だが目が離せなかった。
 オウガはソファに浅く腰をかけ、背中だけが海老反っていた。彼は動かないのに、不自然に折り曲げられた背中だけがミシミシと軋むように震える。彼の内側から外へと、泡立ったナニカが湧き出している。その背は沸騰寸前の湯面のようだ。
 これ以上ここにいてはいけない。
 そう思いつつ、立ち尽くす。動こうにも足が地面に縫い留められたように動かない。それに、ここで逃げ出したくない。ここで逃げたらもう二度とチャンスは来ないかもしれない。
 チャンス……?
 なんの?
 はっと気づき考えたが、草薙が答えを見つけるより先に、事態は動いた。

「ふ、ぁあぁあああぁぅっ────────っ!」

 言葉にもならない叫び声とともに、オウガの手が戦慄き、フローリングの床が揺れる。地震かと思ったがたぶん違う。頭の中で、あり得ないぞと冷静に諭そうとする左側と、これは彼が原因だと確信する右が鬩ぎ合った。
 床鳴りは続き、やがて震えていた空気に禍々しい赤色が混じり始める。空気自体が赤く染まって見えた。
 それが現実なのか、自分の目がおかしいのかわからない。空気が重くて息がしづらかった。赤インクを落とした水の中にいるようだ。
 動けずにいる草薙と反対に、オウガはスッと顔を上げた。着ている服は薄汚れた白っぽいTシャツとカーキ色のフードコートなのに、彼の全身が赤く見える。いやむしろ、赤は彼の身体から滲み出しているかのように見える。部屋に漂う赤は、彼の狂気の表れなのかもしれない。
 慄く草薙を前に、彼は口の端を上げるだけの笑みを浮かべた。その背中に、血の滴る赤黒い羽根が見える気がする。
「キミが、フィーン……?」
 ようやく絞り出した問いに、彼は答えず、赤く血走った瞳を見開いた。閉じられていた唇がゆっくりと開き、だらりと下げられていた右手が上昇する。その手には、どこから持ち出したのか、大きなサバイバルナイフが握られていた。
「待てよ……俺は」
 狂気の行先が自分だと気づいた草薙は慌てて弁解しようとした。足は相変わらず動かないが、手と口は動く、とにかく必死だ。
 しかし、自分は敵ではない、ただキミと話をしたいだけなんだと言いたくても呂律が回らない。怖がってはいないつもりだったが、やはりどこかで恐怖してるのかもいれない。背に冷たい汗が流れる。
 なにか言わなくてはと考えれば考えるほど、口は上手く回らない。見る間に目の前に来たオウガ(だったもの)は、なんの躊躇いもなくナイフを振り抜いた。
「うわっ!」
 反射的に体を捻り辛うじて一撃を避けた。耳元で風を切る音がして、首筋に冷や汗が流れる。ごくりと生唾を飲んで無意識に首筋を撫でた。ぬるりとした感触に思わず掌を見る。赤い。
 どうやら冷や汗と思ったのは血だったらしい。うまく避けたつもりだったが、掠っていたのだろう。冗談ではない。まともに当たっていたら首をバッサリだ。
「なぜ俺を狙うんだ、俺が何かしたか?」
 このまま一方的に殺されて堪るかと草薙は声を張り上げた。理不尽な状況に苛立ち次第に語尾も荒く大きくなる。それと同時に気も大きくなって来たらしい。相手が答えるまではと何度でも問いかけた。
「キミはフィーンなんだろ? 何か言ってくれ、なにが気にくわない? なぜ俺を殺そうとするんだ?」
「ごちゃごちゃ煩えんだよ! 黙って死ねや、クソが!」
 ようやく返って来た言葉は酷く乱暴でヒステリックだった。姿形が少年でこの言葉遣いだ、どうしても男としか見えない。これまでの殺人もこのように行われていたとしたら、それを目撃した人間は、犯人は少年だったと証言するだろう。
 本当に少女なのか?
 やはり自作自演、もしくは二重人格のようなものなのかもしれない。頭の中で冷静に分析しながら、草薙は話し続けた。話させることで真実が見えてくるはずだ。
「黙って殺されたい人間はいないよ、せめて理由を聞かせてくれないか?」
「ぁあ? ふざけてんのか? 言うわけねえだろ」
「なんで? 俺には理由を知る権利があるぞ、なんでなんだ、なにか恨まれるようなことしたか? してないだろ?」
「うるせえんだよ、なんにも知らないくせに!」
「知らないよ、だから聞いてるんじゃないか、キミはなぜ俺を殺そうとするんだ」
「覚えはないってか?」
「ああ、ない」
 理由を話せと迫ると、フィーンの動きは自然と止まった。問答無用で殺しに来るかと思っていたので、そこは少し意外だ。
 ひとまずの身の安全が確保されると、途端に悪い虫が顔を出す。これからどうするつもりなのか興味が先立ち、ごくりと唾をのんだ。すると彼女はふうと息を吐き、長い髪をかき上げた。ふわりと風が舞い、煮詰まったカラメルのような、甘苦い香りが漂う。
 カラメルと言ってもスイーツのそれではなく、もっと乾いた陰惨な匂いだ。死んだ甲虫の匂いと言ったほうがイメージに近いかもしれない。死んだ甲虫がカラメルのような匂いを発するのかと言われるとそうではないだろうが、なぜかそう感じた。それは彼女の髪が赤味を帯びて七色に光って見えたからかもしれない。
 赤い髪……。
 長い、赤い、髪。
 彼女の美しさにぼんやりと見惚れていた草薙は、そこでハッと気づいた。髪が長い。
 いつの間にか、彼は彼女になっていた。
 ほっそりした手足に白く滑らかな肌。紅を差したように赤い唇に同じく燃えるような赤い髪。大人になりかけた少女の胸は、芽生えた自我を主張するように僅かな隆起を見せている。背丈もさっきよりずっと大きい。
 これはゼノではない。
 いったいいつ、すり替わったのだ……?

「そんなに知りたいなら教えてあげる、あんたが邪魔だからよ」
「え……?」
 彼女の怨念が深いほど、大人、特に男性とは折が合わないだろうし、てっきり大人への恨み言や男を嫌悪する言葉が吐き捨てられるのだろうと思っていた。邪魔だなどという感情的な言葉が出て来るとは思いもよらず、つい気も緩む。頭の中も真っ白だ。そこへ彼女はたたみ掛ける。
「あんたがいるからゼノが迷うのよ、ゼノが迷うからオウガも迷っちゃうの、わかる? あんたさえいなけりゃあたしたちは上手くいってたのよ」
 フィーンは、身を固くし、背中を震わせて叫んだ。切なげに、哀し気に、それでも精一杯の虚勢を張って叫んだ。赤い髪を靡かせながら瞳を赤く光らせて叫ぶ姿は一種異様で、伝説の中に棲む鬼と言っても過言ではない。だがどこか痛々しい。
 彼女は、自分が間違っていると知っている。
 直感的にそう感じた。