酷く寒い二月の晩、凍りつきそうな手に息を吹きかけ、ゼノは瀬乃家の門柱を潜った。新月なのか月は見えなかったが星は美しい。そっと覗いた裏庭では、獰猛そうな土佐犬が二匹、寝込んでいた。
「ゆっくりおやすみ」
 夕刻、瀬乃家を訪れたとき合鍵を作り、犬には特別製の甘い餌を与えておいた。二十四時間眠りの中だ。
 よく訓練された警備犬や忠実な番犬などは大抵の場合、主以外からの餌を受け付けない。だがゼノにはちょっとした特技があった。事前に相手の写真や普段の様子などを知っておくことで、第三者に自分をその人物と誤認させることが出来るのだ。一種の催眠術と言っていい。
 その力は人だけに留まらず犬猫にも及ぶ。野生の動物には効き難いがペット類ならまず騙せる。飼い主に忠実であればあるほど効果は高いので今回の仕掛けも楽だった。

「狂犬はおねんねか、毎度助かるよ」
「ふふ、オウガは動物嫌いだもんね」
「こんな畜生を我が子同然に可愛がる奴の気が知れないね」
「全てが逆よ、子供はペット、犬猫が身内なんでしょ、なにせラウだもの、人間の子に愛情なんか持ってないんだわ」
 二人が肩を竦めるとフィーンは勇ましく先陣を切った。オウガはそのあとを追い、行く手を遮る。
「出るな、今日は俺がやる」
「手は出さないわ、見届けたいのよ」
「とにかく出てくるな、そこにいろ」
「うるさいわね、じゃあさっさとやんなさいよ、もたつくなら変わるからね」
「大丈夫だ、そこにいろ」
 まだ本当には納得してなさそうなフィーンを制し、オウガは瀬乃家の戸を開けた。堂々と玄関から入るのは自分たちがしていることを正当化したいからだ。疚しいことはしていない。これは審判であり、当然の罰を与えているだけだ。自分たちはその執行者であり、誰からも逃げ隠れする存在ではない。そう主張したいからだ。
 実際は隠れ住んでいるし、見つかれば殺人者として追われることも承知している。子供っぽい屁理屈だ。それでも審判を下すときだけは堂々としていたい。だから何も隠さない。見たければ見ていい。そして恐れろと願った。
 だがそれも屁理屈だ。オウガは自嘲するように唇を歪め、そろそろと歩いた。
 入ってすぐの和室には寝たきりの老人がいるはずで、その奥が瀬乃のいる居間だ。さらに奥にはキッチンと風呂場があり、子供部屋は二階ということになっている。
 居間には明かりがついていた。賑やかなテレビの音がする。そっと戸を開けると瀬乃は入り口に背を向ける形で座っていた。
 オウガの侵入に瀬乃は気づいていなかった。相変わらず視線はテレビにくぎ付けだ。手には缶ビールが握られていて、テーブルの上にも二本転がっている。その横にはつまみにと用意したのだろう、鶏レバーと砂肝が置いてあった。充分に飲み食いし、生を堪能したらしい。これなら心残りもないだろう。
 音もたてずに歩み寄ったオウガは、懐から縁引き針を二つ取り出した。それを片方ずつ両の手で握り、背後から首の付け根部分に狙いを定める。そのあとは一瞬の躊躇いもない。縁引き針は瀬乃の肩口から心臓を一気に貫いた。
「ガッ……ッ」
 反射的に瞳を見開いた瀬乃は、自分が刺されたことに気づく間もなく木造りの低いテーブルに倒れこむ。レバーの載った皿に主の血が染み出した。
「お前のやってきたことと比べれば、この上なく安楽な死に方だろ、感謝しな」
 縁引き針を握ったままオウガが呟くと、それを不満に思ったのかフィーンが顔を出す。
「なにラウに情けなんかかけてんの? 馬鹿じゃない? こんなヤツ苦しんで苦しんで苦しんで、のたうち回って死ぬべきよ」
「死ねばただの人だ、もういい」
「よくないわね、全然よくない! これじゃあ誰も懲りないわ!」
 あんたはいちいち甘いのよと叫び、フィーンは仕込んでいたナイフを取り出した。遺体にさえ襲い掛かりそうな勢いだ。オウガはそれを止める。
「やめろ! 傷つくのはお前だぞ」
「誰が? ふざけんじゃないわ、私は鬼よ、羅刹だわ、鬼は傷つかない!」
「お前は鬼じゃない」
「鬼よ! アタシも、あんたもね!」
「鬼じゃない」
 静かに返される言葉に昂った感情の持って行き場を失ったのか、フィーンは歯を剥いたまま黙り込んだ。彼女の赤い髪は風に舞い上がり、憎しみに燃える瞳も赤きに染まる。憤るフィーンを見つめ、オウガは哀しげに息をついた。
「お前の言い分はわかる、確かに、このままでは審判にならない」
「でしょ」
 急に軟化したオウガの言葉でフィーンも落ち着きを取り戻した。自分を認めてくれたのが嬉しいのだ。笑顔さえ作って態度を和らげる。それを目を細めて見つめ、オウガは縁引き針を握り直した。
「ということで、警告を残そう」
「警告?」
「ああ、見てろ」
 何をする気だと見つめるフィーンにらしくないウインクをよこし、オウガは瀬乃がうつぶせているテーブルに、縁引き針で文字を刻んだ。

――Fiend Ogre Xeno 26.

「なに、これ? どういう意味?」
彫りこまれた文字をのぞき込み、フィーンは首を傾げる。赤い髪がふわりと舞い、その仕草は無邪気に映った。オウガはますます目を細める。
「フィーン、オウガ、ゼノ、これは俺たちの名前だ」
「二十六ってのは?」
「これまで殺《や》ってきたラウの数さ、こいつで二十六人目ってことだ」
「マジで? え? なに、あんたいちいち数えてたの?」
「まあな」
「やだ、真面目! 笑っちゃう、ねえゼノ?」
「まあ、わかるけど」
「数なんていちいち数えてらんないわ、馬鹿馬鹿しい」
「うん、でも、こうして数字を見ると、思ってたより少ないね」
「そうね、五年で二十六人って、年に五人でしょ、少ないわねたしかに」
「仕方ないさ、ラウが自分から名乗り出てくれるわけじゃなし、人力だからな、これでも多いほうだ」
「そうね、でもちょっと少なすぎるわ、こんな数じゃ警告にもなりゃしない」
「そうだな……」
「ってことで、ちょっと数、増やすわよ!」
 叫ぶと同時にフィーンはサバイバルナイフを握り直す。それを天井付近まで放り投げるとナイフは空中でくるくる回りながら落ちてくる。柄の部分が下になった瞬間それをしっかと受け止めたフィーンは、上手く出来た曲芸を褒めろとばかりにニタリと笑った。
「そこ! 隠れてても無駄!」
 叫びとともに居間の戸が勢いよく開けられる。そこには瀬乃の妻、由香《ゆか》がいた。寝ていたところで物音に気付き、何事かと覗きに来たのだろう。寝巻姿のままでがくがくと震えている。
「いたのか……」
 予定ではその晩、妻の由香は夜の仕事のため留守のはずだった。それが具合でも悪かったのか、何か予定外の事情が出来たのか、居合わせてしまったらしい。
「運が悪い、仕方ないね、止めるなよ?」
 女は見逃してやれと言いたげなオウガに珍しくゼノは釘を刺した。女がいたら始末はフィーンがつける、それが最初の約束だ。彼女の気を削ぐんじゃないと言われ、オウガも黙る。
 二人が止めないのをこめかみで確認し、フィーンは由香に飛びついて行った。勢いで由香は尻もちをつき、そこへフィーンのナイフが襲い掛かる。まずは肩口をバッサリだ。
「きゃあっ!」
 血飛沫が飛び悲鳴が上がるとフィーンはますます勢いづいた。血と悲鳴が彼女のカンフルだ。恍惚とした表情で血塗れのナイフを振り回す。
「やめて!」
「やめないわよ」
「助けてっ」
「助けないってば、なに言っちゃってんの!」
 フィーンは歪んだ顔で笑い、怒鳴りながらナイフを振り回し続ける。すでに数か所を刺された由香は立ち上がることも出来なくなったのか、這いずったまま許しを請う。だがフィーンはまるで手を緩めなかった。
「死にたくないっ、嫌よ、助けて……」
「助けて? あいつらもそう言ってなかった? ねえ助けて、助けてって、叫んでなかった?」
「なに……? なんの話」
「なんの? とぼけてんじゃねえよ!」
 震えながら首を振る由香の態度にムッといたらしい、フィーンは突然激昂した。赤い髪がぶるぶると震えながら逆立ち、瞳は滲み出すように広がった赤で白目の部分まで真っ赤に染まる。
 白い肌に赤い目と赤い唇がくっきりと映り、夜目にも美しい鬼は手にしたナイフを高々と振り上げた。一瞬、きらりと光ったように見えた切っ先は勢いよく振り下ろされ、由香の腹に突き刺さる。
「きゃあっ!」
 フィーンはそのまま捻るようにナイフを引き、由香の腹は見事に裂けた。死への恐怖からか由香は呻きながらも必死で逃げようとした。這いずるたびゼリー状の濃い血液が流れ出し、ちぎれた肉片が赤い泡を吹きながら零れ落ちる。廊下は引き摺られた血と肉でべとべとになった。
「まだ動けるのかよ? さすが自分のことだけは可愛いんだな、死にたくないってか? この糞が!」
 はらわたを引き摺りながら少しでも遠くへと這いずる由香の髪を掴み、フィーンは何度も突き刺した。興奮すると男言葉になるのがフィーンのクセだ。
 大きく裂けた腹の中からは元がなんだかわからないほど潰され拉げた臓物が覗く。それでもフィーンはナイフを突き立て続けた。
「あんたはなにも見なかった、そんな目ならいらないだろ!」
 はち切れそうな怒りを爆発させるようにフィーンは叫び、すでにこと切れている由香の目にナイフを突き立てる。泥水のように血が跳ね、彼女の顔を赤く染めた。そのままの勢いでナイフを引き抜くと破裂して崩れかけた眼球も一緒に引っこ抜ける。それを投げ捨てたフィーンは血のこびりついたナイフをひと舐めした。
「不味いね、糞の味がするよ」
 心から不愉快そうな憎々し気な表情でフィーンは唾を吐く。ようやく気が静まって来たのか、舞い上がっていた髪が徐々に凪ぎ、空気は色を失っていった。

「派手にやったもんだ」
 殺戮を見守っていたオウガは、やれやれと溜息をつき、ゼノも仕方ないねと肩を竦めた。事は静かに行うものだ、これだけ派手に騒げばいかに真夜中とはいえ、逆に目立つ。通報でもされると厄介だ。人が来ないうちに現場を離れるのが得策だとゼノは話した。しかしオウガはちょっと待ってくれと言い、二階へと続く階段を上って行く。
「どうしたの?」
「ちょっとな」
 瀬乃家の二階はほとんど使用されていないのか真っ暗だ。階段も上りきった廊下も埃だらけで、食べ物の滓や、丸めた紙おむつが放り捨てられている。あたりには悪臭が漂い、床もべとべとしていた。足元にはゴキブリが走り、耳元では羽虫がぶんぶんと嫌な音を立てる。
「なによこれ、酷っ、最低……」
 フィーンは顔を顰め、鼻を抓む仕草をした。オウガは片手で虫を追い払いながら一番奥にある薄汚れた戸の前まで歩く。ノブを回してみたが鍵がかかっているらしく回らない。しかしだいぶガタがきているようだ、捻るたびにギシギシと音がした。
「ここ……」
「ああ」
 部屋の意味に気づいたゼノに頷き、オウガは縁引き針を取り出す。いつも使っている錐状のものでなく、鉤型のものだ。そいつをノブとドア枠の間に差し込み、揺さぶりをかけると、古くなっていた鍵は、簡単に外れた。
「ゼノ、中を……」
「キミが行けばいいよ、気になるんでしょ」
「いや、俺はこのご面相だ、遠慮しとく」
 無駄に怖がらせたくないとオウガは首を振った。そこでゼノが戸を開ける。
 中は廊下や階段より酷かった。尿や糞便の臭いに食べ物の腐ったような臭いまで交じり、息を吸うのも躊躇われる。思わず口元を覆ったゼノはそれを恥じ入りながら薄暗闇に声をかけた。
「そこに誰かいるの? 返事して」
 室内では人の動く気配はあるものの返事はない。警戒してるのか、それとも返事が出来ないほどなのか、それが問題た。
 無駄に怖がらせたくないと言ったオウガに倣い、ゼノは相手の警戒心を解こうと自らをより幼く演出した。詳しい資料のない対象を騙すのは少々無理があるのだが誤魔化しは効くだろう。
「怖くないよ、ボクはゼノ、キミたちを助けに来たんだ」
 静かに、出来るだけ優しい声で話しかけると部屋の隅で何かが動いた。影の見える方向へ視線を凝らす。そこにいるのは五歳くらいに見える子供と、その子よりももっと小さな子供のようだ。
「おなかすいた……」
「え……?」
 弱弱しくこちらの様子を伺うように呟く子供に、ゼノは言葉を失った。
 家の中に知らない人間がいて、一階では逃げ惑う母親の声や何者かの怒鳴り声がした。この子にも聞こえていたはずだ。その後、急に現れた見知らぬ他人が怖くないよと言っても空々しい。普通は疑い恐れるだろう。最初に考えるのは相手が何者か、自分に危害を加えないかであって、話すならまず、「誰?」だろう。
 そこをすっ飛ばし、この子は「おなかすいた」と言った。それは究極に追い詰められていて、もうそれしか考えられなくなっているからに他ならない。
 室内はゴミや排泄物であふれかえり、足の踏み場もない。外を見渡せるはずの窓はベニヤでふさがれ、クラフトテープで丁寧に目張りしてある。天井には当然あるはずの照明もない。あるのはそこに照明器具があったという証拠の、剥き出しになった電線とコンセントだけだ。本当に、危ないところだったのかもしれない。
 この暗闇でゴミと腐臭に塗れ、一日中食べ物のことだけを考えて、この子らは生きていたのだ。
 こみ上げてくる切なさに唇をかみしめ、ゼノは一歩前に出る。そこで転がっていた水のペットボトルに足があたった。半分以上飲まれている。だがふと拾い上げて確認した賞味期限は半年も前に切れていた。
 泣いて済ませる問題ではない。
「お腹、空いてるんだね?」
 優しく聞き返すと子供は小さく頷いた。慌ててポケットを探る。だが飴玉一つ入ってはいない。金ならあるがこんなとき金が何の役にも立たないことをゼノは経験上、知っていた。
「待ってて、今、なんか持ってくるからね」
 部屋から走り出たゼノは駆け足で一階へ向かい、台所の中をひっくり返して食べ物を探した。冷蔵庫には野菜クズや生肉が入っていたが、幼い子供がすぐに食べられるもの出なければだめだ。菓子類がいい。あとは飲み物……。
 あちこち探しまわり、塩せんべいとお茶のペットボトルを見つけた。それを抱えて二階へと駆け戻る。
「これ、食べて」
 せんべいを手渡すと子供はそれを恐々と受け取り、食べていいのかと目で訊ねる。きっと渡された食べ物をすぐに食べようとして怒られたことがあるのだろう。いいんだよと頷くと子供はようやく安心したのか、拙い手つきで袋を開け、夢中で食べた。
「ほら、水も飲みな」
 握力の弱そうな子供に代わり蓋を開けてやってから、ペットボトルを手渡した。子供はそれも夢中で飲み込んでいく。やれやれと様子を見ていると、一通り食べて満足した子供は、自分の後ろにいる小さいほうの子に振り返った。
「ああちゃん、たべな」
 袋に半分残ったせんべいと、きっちり半分残されたお茶を手に、子供は後ろの子を起こす。しかし小さい子は動かなかった。
「ああちゃん、たべものだよ」
 何度声をかけてもその子は動かない。どうしたのかと覗きこむと、その小さな子はすでに死んでいた。
「おきて、ああちゃん、たべものきたよ、たべていいんだよ」
 動かない小さな体を子供は揺すぶり起こそうとする。だがそこにあるのは腐り、色も変わってしまった亡骸だ。
「ああちゃん、たべて、ああちゃん」
 弟か妹かわからないが、その子は自分の兄弟が死んでいることにも気づかなかったのだ。それほどにこの子の世界は閉じていた。
「ああちゃん、ああちゃん」
 薄汚れ、変色した、男女の判別も出来ない小さな骸を、子供は揺すぶり続ける。それを見つめるゼノの瞳から止めることの出来ない涙が流れ出た。

――にいに、ぽんぽん。

 干からびた唇で精一杯訴える小さな瞳の幻が見えた。愛らしかったあの子はもういない。ゼノの中で塞き止めていた累々が噴き上がる。

「ぅあぁああぁーっ!」
「ゼノ!」
 唸るように叫んだゼノはそのまま階段を駆け下りていった。止めるオウガの声も聞こえないようだ。
「ゼノ!」

 一階廊下に駆け下りたゼノは、勢いのまま居間へと走った。へし折る勢いで戸を開けると、中には瀬乃克彦の遺体がある。僅かに血が流れてはいるが、腐り変色したあの小さな子よりはずっときれいな遺体だ。手元にはビールの缶が転がり、つまみの肉までおいてある。明るく照らされた部屋と賑やかに歌い踊るアイドルの映ったテレビ。その何もかもが腹立たしく見えた。
 こんな奴、もっと悲惨な死に方をするべきだ。こんな、自分が死んだことにさえ気づかないだろう安穏な死は相応しくない。
 もっとみじめに、もっと醜く、死ね。

「待て!」
 怒りに任せたまま瀬乃の遺体に襲い掛かろうとしたゼノを止めたのはオウガだった。
「引っ込んでろゼノ、俺がやる、フィーン、ゼノを押さえとけ」
「はいよ!」
「離せ! こんな奴、もっと懲らしめてやらなきゃ……っ」
「当然よ、でもこれはアタシたちの仕事、あんたはやっちゃダメ」
「嫌だ! 僕だって!」
「ダメ、あんたはアタシたちの最後の砦なんだから」
「俺たちの思いはお前と同じだ、お前の怒りは俺たちの怒りだ、俺たちは同一だ」
 だからお前は手を出すなと話すオウガの目は、怒りに青く光って見えた。フィーンも、いつになく優しい瞳で大丈夫よと微笑みかける。二人の思いを受け、ゼノも黙った。
「フィーン、ナイフ、借りるぞ」
「どうぞ、ってか、アタシがやろっか?」
「いや、こいつは俺がやる」
「あっそ」
 フィーンの得物であるサバイバルナイフを握り締め、オウガは再び瀬乃の前に立った。そしてテーブルに俯せている遺体をひっくり返し、畳の上に仰向けに転がす。血はすでに止まり、固まり始めていた。
 オウガは無言で瀬乃の瞼にナイフを突き立てた。そのままナイフを横に引くと瞼は真一文字に引き裂かれ、潰れた眼球からは水っぽい血が僅かに流れ出す。さらに突き立てたナイフを捻りながら回して眼球を刳り貫く。潰れてぐちゃぐちゃになった目玉は湿った音を立てて畳の上に落ちた。オウガはそれを蹴り飛ばし、今度は胴体にナイフを突き立てる。胸の真ん中、心臓のあるあたりを狙い最初の杭を打つと、解剖でもするようにまっすぐ下腹部まで切り下ろした。赤黒い血とピンク色の臓物が顔を出し、それを見つめたフィーンはうっとりと呟く。
「おかしなものね、こんな男でも、中身は綺麗」
「死んでしまえば善人も悪人も同じさ、ただ骸だ……」
「理不尽だよそんなの……」
「そうだな、だがあの子はもう助けられない、だからせめて、こいつには相応しい死を飾り付けてやるよ、それで納得してくれ」
 誰に対するモノなのか、オウガは憐憫をたたえた瞳で瀬乃のはらわたを引き出した。砂肝や鶏レバーの乗せてあるつまみの皿に男の血が飛ぶ。
 それからもオウガは無言のまま気合を込め、腹や胸を突き刺し続けた。何度も、何度も……ぐちゃぐちゃになった胴体は真っ赤に染まり、どれが肉やら衣服やら、血も臓物もごちゃまぜのミンチになった。
 そして居間に戻ってから数分後、握りしめた拳の力が抜け血で滑ったナイフが床に落ちる。
 凶行はようやく止んだ。
 暫く肩で息をしていたオウガは、疲れた表情でゆっくりとナイフを拾い上げ、今度は廊下にいる由香の遺体の元へと歩いた。
そして床に直接、「Fiend Ogre Xeno 27.」の文字を刻む。

「もういいだろう、行くぞ、人が来る」
 ゼノは瀬乃夫婦の遺体を割り切れない表情で見つめ、オウガは血塗れのナイフを懐に収めて歩き出す。

 これが終わりではない。

 ***

 雪が降りそうな寒い朝、事件は発覚した。発見者は瀬乃家の隣人だ。
 肌寒さに目を覚ました隣人は、外の様子を見ようと雨戸を開けた。すると、霜が降りた庭先に、子供が震えながら佇んでいた。慌てて窓を開け、どうしたのと訊ねると、子供はママとおじちゃんが動かないと答えた。それが朝六時半。
 どういうことかと隣を覘きに行き、そこで二人の遺体を見つける。慌てて110番に通報し、警察がやって来たのが八時を少し回ったところだ。

「酷いな、これじゃあ犯人もさぞや返り血を浴びたでしょうね」
 非番のところを呼び出され、現場を見た新人刑事の三浦は、室内に飛び散る血痕の多さと無残な被害者の様子を見て顔を顰めた。
 夫のほうは居間で、妻のほうは廊下で、それぞれ死んでいた。夫の死因は錐状の凶器で首の付け根を左右から心臓に向けて突き刺したことによるもので、おそらく即死だったろう。相手は死んだのだからそれでいいだろうに、犯人はその後も執拗に被害者を痛めつけたようだ。目玉は両眼とも刳り貫かれ、胴体はミキサーにかけたようにボロボロだった。
 妻のほうはもっと酷い有り様だ。夫が殺された現場に出くわし、逃げようとしたところを襲われたのだろう。血痕は家中に飛び散っていた。直接の死因は失血死。傷の一つ一つはそう深いものではなく、絶命までには時間がかかったと思われる。
「これだけ執拗に傷つけたってことは、怨恨ですかね」
 軽い口調で三浦が呟くと、上司でもある相棒の矢島は決めつけるのは早いぞと釘を刺した。
「現場はさほど荒らされてないし、物取りって線も薄そうだが、他に理由がないとも限らないしな、とりあえず、聞き込みからだ」
 夫婦の遺体は双方ぐちゃぐちゃで判別し難いが、妻のほうには夫のほうの致命傷になった錐状の凶器による傷がないように見える。傷の具合も微妙に違う。
 うまく言えないが、その傷に込められた怨念の差のようなものを感じる。断定はできないがもしかしたら複数犯かもしれない。そんなことを考えながら矢島はコートのポケットから煙草を取り出した。
「現場禁煙ですよ、矢島さん」
 すかさず三浦がたしなめる。
「うるせえな、わかってんよ」
 矢島は反射的に出した煙草を決まり悪く仕舞い、さっさと聞き込みにいけと睨んだ。三浦も追及はしてこない。
「瀬乃夫婦に恨みを持っている人間がいないかどうかですね」
「ああ、そうだなそれと、昨日の晩、何か変わったことはなかったか、なにか聞いてないか、なんでもいい」
「はい」
 元気よく返事をして三浦は血だらけの部屋から出て行った。今どきの若者はドライだなと矢島は肩を竦める。
 自分の若いころはこんな現場を見た直後は食事も喉を通らなかった。それが今や慣れっこだ。ゲームや映画などバーチャルな世界で悲惨な現場を見慣れてしまったのだろう。嘆かわしいとは言わないが、本当にそれでいいのかと疑問は感じる。
 バーチャルはバーチャル、所詮は絵空事だ。現実の残酷を、そんな何度でもやり直しのきくゲームなんかと一緒にされては困る。しかしまさかもっとデリケートになれと説教も出来ない。
 やれやれと首を振った矢島は、そこで夫の遺体近くにあるテーブルになにか書かれているのを見つけた。細く鋭い刃物で直接刻んだ文字のようだ。大半は血に塗れ読めない。慎重に血溜を拭う。

――Fiend Ogre Xeno 26.

「なんだこれは……ふぃえんど? ふぇん……わからんな、二十六? なんの数字だ?」
 意味のないアルファベットの羅列かとも思ったが、それぞれの単語の頭が大文字になっているところをみると、何らかの意味がありそうだ。
 あとで辞書を引こうと考え、矢島はメモを取った。