カナシミ

 その日、カナシミが死んだ。私がカナシミと出会って一週間目のことだった。
 私が住んでいる町からおよそ百キロほど南に位置するこの町はおかげで一年を通して涼しいと聞く。寂れているわけではないが栄えているわけでもない。周囲からの出入りもあるが風のごとく通るに任せている。風景こそ私の故郷に似ているが、根本が異なっている。田舎特有の親しさがないわけではないがどこか上っ面だけの冷めたもののように見えた。初めそれは、常に人が雑多として荒波にもまれるようにあくせく働かなければならないところで過ごしているわが身と比べて、ここは他に依存する必要のない確固とした独立が極めてシンプルな様で成り立っているからだろうと見ていた。余計なものは何も負わず、ただ生きている。つまり、何も求めないからこそ何でも流せる。そういう仕組みが空気の流れのようにさらりと過ぎ行かせているのだろうと思ったのだ。そうして見ればここはひどく自由に見えた。そういった私の憶測は外れてはいなかった。けれど正解でもなかった。
「旅の人だね。どこから来なすった」
 地方都市の中でも大都市に迫る勢いを持つと評判される町の名前を告げると老婆は随分遠くから来たねと笑ったがそれだけだった。他所で受けてきた反応と比べると肩透かしだが自分でそれを強調するのも馬鹿げているし、そもそもそれほどあの町に愛着があるわけでもない。
「この町に宿は一つ。そこの通りを向こうへ行って奥へ折れてしばらく行った先にあるよ。大きなランプが立っている。でも誰でも泊めてくれるよ。ここはそういう町だからね」
「ありがとうございます」
 お礼を言って店先から立ち去りかけたとき、通りの向かいの建物の影に黒い塊を見つけた。野良猫かと見ていた私はそこから出てきた人の形に驚いてしまった。
「あれはカナシミだよ」
「カナシミ?ってあの嬉しい、悲しいの悲しみですか?」
「そうだよ」
 老婆が教えてくれたが私は目を離せなかった。小柄な、少女か少年か判断はつかない。髪は無造作に切ったのが伸びきったまま顔を覆い肩まで落ちている。ぼろを纏った体は細くむき出しの膝小僧が不恰好に骨ばっている。ずっと裸足でいるのだろうか、黒ずんだ足元を灰色の砂が覆っていた。
 子供の路上生活者というものは実際そう珍しいものではない。その子供たちがさらに子供を生んで、産まれたときから路上生活という子供もまた多くなっている。だがそれは大都市での話。ご近所付き合いなどというものが希薄になり、小さい頃から見知っている子供という存在が消えてきたからこそ、小さな子供の痛みにも目を背けられる。他人の痛みに構っていられない、自分が忙殺される世界では自分を守ることに精一杯で、できる人間に棚上げする。なんとか団体、なんとか活動。そうしてやり過ごしていく。だから、自分勝手なことだが、ご近所づきあいがまだ生きている小さな町でそういった子供が存在することにショックを受けた。
「保護施設とか、そういったものはないんですか?」
「ないよ」
 老婆はこともなげに言った。なおも私は食い下がった。
「じゃあ、親戚とか遠縁の人に引き取りに来てもらうとか。あの子の親族はもういないんですか?」
 すると老婆がほとんど閉じていた目を見開いた。
「旅人さん。あなたはこの町にどれだけいるつもりかね」
「いえ、あまり考えてはいないのですが」
 唐突な質問に話の腰を折られたような気分で、ともすれば自分の気遣いを無視されたようで多少むっとしながら答えると老婆は言った。
「カナシミに構うんじゃないよ。あれに近づいちゃいけないよ」
「何故ですか」
 しかし老婆は答えずに、
「絶対に、近づいちゃいけないよ」
 そう言って口を閉じ、それ以上私が何を聞こうとしても答えてはくれなかった。いつのまにかそのカナシミの姿は消えていた。私は老婆にお辞儀し、教えてくれた通りへと向かった。
 宿屋はすぐに見つかった。老婆の言っていたとおり建物の一階分の高さはある巨大なランプがあり、ちょうど火を灯そうと中から宿主が出てきたところだった。
「こちらが宿だと聞いてきました。一人分、泊まれますか?」
「泊まれますよ」
 ちらりと私を観察したようだ。どうぞ、と人懐こそうな笑顔で迎えてくれる。
「どちらから来たんですか?」
 玄関をくぐりながら町の名前を告げると、随分遠くからですねえ!と驚いた声を出した。
「このあたりは何もないのでね、周りの町の人間が行き交うぐらいで」
「随分古いんですね」
 半ば遮る形でそれでも驚かずにはいられなかった。へ?と振り返る宿主に私は建物の中をぐるりと指差した。ああ、と宿主は頷く。玄関を入ってすぐ年代ものだと分かった。備え付けのカウンターや花置き台や電話に至るまで、全て映画のセットになりそうな雰囲気でそこに鎮座している。まるで館にやってきた客を値踏みする住人のような存在感だ。その中でとりわけ目を引いたものを見上げる。吹き抜けになっているロビーの天井は多数の小さな正方形の壁画で彩られている。そしてそれらを従えているようにその中央から豪奢なシャンデリアが吊り下げられていたのだ。
「築百五十年なんです。全てその当時のままを維持していますよ。シャンデリアだけは後から入れたものですけど同じくらい古いものですよ」
 どうぞ、と部屋へ案内しがてら建物の説明を聞いた。部屋に着いて簡単な使い方を簡単に説明してから宿主は聞いてきた。
「それで今夜の食事はどうされますか?」
「ここで食べられるならお願いしたいです」
「分かりました。時間と、あと嫌いな食べ物はありますか?」
「嫌いな食べ物はありません。時間はそちらで決めてくださって大丈夫です」
「では七時に。一階のロビーに来てください。それまでどこかへ行かれますか?」
「いえ、ここで休んでいます」
「そうですか。もしお出かけになりたいときは声を掛けてください。一階にいますので。いなかったら諦めてください。なんて、冗談です。鍵はこちらです」
 宿主が取り出した鍵は鉄の棒の形をしたやはり古いものだった。
「この宿に泊まれただけでもよかった気がしますね」
 素直な感想をこぼすと宿主はありがとうございますと笑った。そこでふと思い出して聞いてみた。
「さっき通りでカナシミという子供を見たんですが」
「はい」
 宿主の表情は変わらなかった。
「親族の方はいないのでしょうか。もしくは引き取ってくれる方は」
 すると宿主は私を見てにこりと笑った。名前を呼ばれ、はいと返してしまう。
「一つ目として、あの子供に親族は必要ではありません。引き取る人間も必要ではありません」
 そんな馬鹿なと反論しかけた私を押しとどめる。
「二つ目として、カナシミはあの子の名前ではありません。あの子は悲しみそのものなのです」
 そう言うと宿主はまたにこりとして部屋を出て行ってしまった。私はまるで意味が分からずただ宿主を見送ってしまった。

 夜ご飯は意外な仕方で提供されたが文句なく美味しかった。
「もう一杯いかがですか?」
「いえ、もうこれ以上飲むと酔ってしまうので。気になさらず、どうぞ飲んでください」
 そう言うと宿主は、それじゃあと瓶に残った液体を自分のコップに空けた。そのタイミングでおかみさんが下げに来る。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
「ありがとう。商売でもそう言ってもらえると嬉しいよ。また来てね」
「来ますよ。うちではご飯は作れないから」
 私が答えるより先に宿主が答えると、
「あんたは毎日来てるじゃないか」
 おかみさんが呆れた顔をした。夕飯を食べるのにロビーに来るように言われたのはこのためだった。当時がそういう習慣だったのか、あの宿を作った人がそういう人だったのか、宿に調理場自体がなく、したがって普通の食堂に連れて行かれたのだ。宿主と一緒にテーブルを囲むのは不思議な感覚だったがここではそれもいつものことらしい。
「早く嫁さんを見つけることだね。で、あなたは?明日早くに発つの?朝ご飯食べるなら簡単に用意しておくよ」
「あ、いえ。しばらくここにいようかと」
 するとおかみさんだけでなく目の前の宿主も少し驚いたようだ。こんなところに何の用があるのかと不思議な様子だが詮索する雰囲気はない。
「息抜きで出てきているので、こういう場所のほうが落ち着くんです。あ、こういう場所っていうのも失礼ですね」
 二人はそんなことないと笑ってくれた。
「確かに何もないからね」
「まあ、いいんじゃない? ご飯は食べたくなったらうちにおいで。決まった時間にしなくていいから。誰かしらいるし、簡単なものでもよければすぐ出せるから」
「ありがとうございます」
 おかみさんは故郷にいる姉を思い出させた。
 その帰りの道すがら、ふと通りの端に目をやった私は、あっと小さく声を上げてしまった。カナシミが壁に向かってうずくまっていたのだ。背をこちらに向けているが時々震えているのが分かる。宿主を伺うと彼は黙ってその姿を見ていた。その顔に同情や哀れみといったものはなく、ただ無表情にその小さな背中を見ている。私は少なからず憤懣を抱いて宿主をそこに置いてそちらへ向かおうとした。だが宿主の手が素早く私の腕をつかみ、私は引き戻された。私はかっとなって宿主に食って掛かった。
「あんな状態であるのに見過ごせと言うんですか!私があの子を宿に連れて行きます!もちろんお金は払いますよ!」
 しかし、
「違います」
 宿主は静かに、しかしはっきりと告げた。そして、
「あなたはお客人だ。だから仕方ないです。あの子に構うなとしか言えません」
「そんな理由では聞けませんね。あの子を連れてよそのお宅へ泊めてもらいます。ここではそういうものだと教えてもらいましたから」
「あの子を家に入れる者はいません。入れてはいけないので」
「だから、何故かと聞いているんです」
 宿主の視線がちらりと動いた。振り返るとカナシミの姿が消えていた。ほっと宿主が息をついたのが分かった。苛立ちが口をついて出てくる前に宿主が言った。
「人の痛みや悲しみを請け負う。体質といえば理解しやすいでしょうか、でもそれも正確に言い当てているわけではないのでしょう。十数年に一度の割合でそういった子供が産まれます。それがカナシミなんです」
 宿主の言葉を私はゆっくりと反芻した。宿主がさっと歩き出す。続きは宿で、そういうことだと解釈し後を急いだ。
「つまり、どういうことだと?」
 宿の玄関をくぐるなり尋ねるとそれには答えず手近なソファに座るように勧められた。そしてソファを勧めた本人はカウンターの裏に廻り奥へと引っ込んでしまった。どういうことだと頭の中で繰り返してカウンターの裏を覗きに行こうかと立ち上がったとき宿主がようやく戻ってきた。コーヒーの入ったカップを両手に持ち、一つを私に渡してから電話をずらして台に腰掛ける。
「お湯を沸かすためのガスは引いたんですよ。だからコーヒーは飲み放題」
 そう言って一口のみ、うまいと自分で小さく頷く。睨むようにじっと宿主を見ているとようやく続きを始めた。
「つまりカナシミは、周囲の負の感情を吸収するんです。自分の意思とは無関係に」
 私は基本的なことを確認することにした。
「人間ですか?」
「妖怪の類を信じているんですか?」
 逆に問われかっとした。それを察したわけではないだろうが宿主は視線を外して少し真面目な顔になった。
「人間です。ちゃんと人としてこの世に生を受けました。あの子がカナシミだと分かったのはもうすぐ二才になる頃です。それ以来あの子は一人です」
「ちょっと待ってください」
 たまらず私はストップをかけた。はい、と宿主が顔を上げる。
「カナシミとは何ですか?あなたはさっき体質のようなものだと言った。負の感情を吸収するとも言った。それはつまり感情移入が極端に強い、敏感であるということですか?他人の痛みを自分のことのように感じる?でもそれが何故、“構うな”ということになるのか、それが聞きたいんです」
「分かっています。いえ、あなたの戸惑いは想像できます。ですが・・・この町でカナシミの存在はごく当たり前のものです。僕も小さい頃から見ていましたから。だから当たり前と思っているものを説明するのはすごく難しいし、それをただの通りすがりの人に説明する必要も本当はないのですが」
 やんわりと、私が出すぎた真似をしているということを釘刺されたが、宿主は誠意を持って話してくれていた。それだけは分かったので私も黙って聞くことにした。
「カナシミになった子供はあまり食べ物を必要としなくなります。カナシミでない子供と比べれば十分の一も食べないでしょう。実のところその理由ははっきりと分かっていません。ただ言い伝えられたところによればカナシミは負の感情を吸収している、だから食物を必要としない、と」
「感情が食物代わりだと?」
「あるいは、という話です」
「感情を吸収する、というのはひとまずおいておきます。けれどあの子はがりがりに痩せていました。どう見ても栄養失調をきたしています」
「あなたは医者ですか?」
「いいえ、でも素人目にもはっきり分かります」
 テレビや何かで難民キャンプの映像を見ることはある。そこにいる子供の大半が栄養失調で、空腹を満たすために水を飲みすぎてぱんぱんになったお腹が、やせ細った体をさらに圧迫しているように見えた。
「そうした子を調べたりはしていないんですか?もし何かの病気や遺伝疾患があるなら治療が必要ですし、治療すれば治るはずです」
 すると宿主は苦笑するような、憐れむような目で私を見た。
「人間はどれほど優秀でしょうか。確かに医療技術の進歩は目覚しいです。いや人類の進歩というべきかな。けれど人には致命的な欠点があります。すぐにおごり高ぶる」
 まっすぐその言葉は私の心臓を突き刺した気がした。いや実際私の心臓は跳ね上がった。
「科学技術も進歩しました。けれど、それは人がしたことでしょうか。全くのゼロから作り上げたものでしょうか。違いますよね、もうすでにあったものをベースとして改良した。あるいは模倣した。何かがあったから生み出せた。ただそれだけです。人間はそんなに大したものではない」
 宿主はもう私に語りかけるというより自分の考えを呟いているだけのようだった。そしてそれは正しかった。私は論理的な宿主の話に反論できなかった。
「分からないからといって存在を否定することはできません。その点では現代人よりも古代の人の方が理にかなっている部分があるでしょう。もちろん現代の技術を否定しているわけじゃありません。技術の進歩により昔では諦めるしかなかった問題も解決できるようになっている、それは喜ばしいことです。ただ、だからといって過信してはいけないんです。この世界は僕らが思っているよりずっと広くて、ずっと複雑なんです」
 コーヒーはとっくに冷めていた。
「カナシミに構うなというのはそのためです。カナシミは自分の意思とは無関係にそこに負の感情があれば吸収してしまいます。それを避けるため近づかないんです」
「負の感情を吸収することはカナシミにとってきついことなんですか?」
「いえ、分かりません。ただ僕らが勝手にやっていることです。カナシミはある一定量まで負の感情を吸収すると死んでしまうんです。負の感情で命を繋いでいながら、やがては重くなりすぎた負の感情に食い殺されてしまうんだと。だから少しでも生きられるように、なるべく吸収させないように近づかないんです。でも全く吸収させなければ、それはつまり食事を取らせないことになるので、悲しみや痛みに触れさせずにおくことはできません。どちらにしろカナシミは短命です」
 十数年に一度、というのはそういうことか。
「・・・吸収してもらった側は楽になるのですか?例えば悲しい気持ちが和らいだり痛みがなくなったり」
 原理としてはそうなるだろうと半ば希望の思いだったのだが宿主の答えは否定だった。
「いいえ。楽にはなりません。悲しいと感じるのはその人自身ですから。痛みも同じです。そのほかも」
「なんで・・・」
 その先の言葉は喉の奥に落ちてしまった。真っ黒い液体に立つ波紋を見ていると宿主が言った。
「カナシミが何故存在するのか、僕らは分かりません。ただカナシミはここにいる。そして負の感情を吸収している。それが繰り返されている。ただそれだけです」
 宿主の顔を見た。そこにはさきほどカナシミを見たときと同じ無表情が浮かんでいた。その顔がすっと笑顔に戻る瞬間を見た。
「余計な話を聞かせてしまって」
「いえ、こちらが立ち入ったことを聞いてしまったので」
「コーヒー、飲み終わったらカウンターに上げといてください。あ、おかわりされるようでしたら奥にポットがあるので」
「ありがとうございます」
「ゆっくり休んでください」
 宿主は電話を元の位置に戻して、玄関の戸締りを確認すると自室のある方向へと消えた。私は釣り下がったシャンデリアを見ながら冷め切ったコーヒーを一息に飲み干し、カウンターにカップを置いて部屋に上がった。

 大した考えがあったわけではなかった。使命なんて大それたものはなかった。ただ私の中に今まで潜んでいた何かが突き上げていたのだ。
 町は一日あれば巡ることができるような小ささだ。カナシミを見つけるのは容易かったが他の人の目を盗んで近づくことに気を張った。初めはただ観察するだけ。そのうち近づいて。逃げられたら追わない。偶然を装い、また近づく。それを繰り返して私の存在に慣れさせた段階でようやく傍にしゃがみこんでみた。その日、カナシミは仔猫の死骸を抱いていた。やはり少女だと思った。痩せこけても頬にわずかに弾力が残っている。その頬の上を大きな雫が流れていた。そっと髪に手を伸ばすと逃げられた。やれやれ。持久戦だ。だが急ぐことはない。使命でもない。そんなことを繰り返すうちに、カナシミは髪を撫でられても逃げなくなった。じっとして撫でられるままにしている。さて、と。わずかに指先に力を入れ、一瞬で引き抜く。
「!」
 驚いたのだろう、無理もない。脱兎のごとく飛び出した後姿を見送りながら、またしばらくは逃げられるなとぼんやり溜め息をつく。
「まあ、これで分かればその心配もいらないけど」
 指先に残ったカナシミの髪の毛を丁寧にハンカチに包み、携帯したビニールにしまう。送って鑑定を待つよりは自分で行った方がいいかな、と一瞬の計算をしてから宿に戻った。

「カナシミに親族は必要ないと言っていたけど」
 いつもの夕飯の帰り道にさしたる意味はなく尋ねた。その雰囲気は分かったようで宿主の返事も軽い。
「はい」
「親族がいない、という意味ですか?」
「いえ、親族、というか母親はいます。父親はなくなりましたけど」
「母親がいるんですか?この町に?」
「いますよ」
 宿主の答えはあっさりしすぎていて拍子抜けする。と同時に不安が過ぎる。
「やはり近づかないように気をつけているんですか」
 気にしたのは、もしかしたらいつも物陰から少女を見守っているのではないか、とすれば自分が忠告に背いていることがばれているのではと考えたからだったが宿主の答えはどちらでもなかった。
「気をつけているというか、近づけないというか」
「どういうことですか?」
 宿主が少し考えたのが分かった。
「すみません、また立ち入ったことでした。よく分かりませんが一緒にはいないってことですよね」
 そう先手を打つと宿主は苦笑した。
「あなたがカナシミに気をかけてくれているのはよく分かりますよ。でも僕らは正直カナシミにはそれほど気にかけていないんです。気にかけるべきなのはむしろカナシミになってしまった子を持つ家族ですから」
 そこまで教えてくれたことを心のうちで感謝する。つまりそういうことだ。血の繋がりなど当てにならないというのは都市では常識だが、やはり家族は特別なカテゴリーではないかと私は思っている。カナシミになった時点でその子の将来は決まってしまう。その過酷な生に対し存在理由すら見出せない、やがては負の感情に食い殺されるカナシミ。まして自分の腹を痛めて生んだ母親にとってはどれほどの心痛だろう。もしかしたら発狂するかもしれない。そうしてカナシミにとってそれは寿命を縮めるだけの存在でしかないのだ。こんな皮肉を黙って耐えられるとしたらそれは家族以外の何かだろう。私は十分に理解した。そのつもりになっていた。

 カナシミに会って、というよりここに来てから一週間がたったその日、私は前日に食堂のおかみさんに頼まれていたお使いを果たしていた。来るもの拒まず去るもの追わずの精神の町で、町の人の私への関心はさほどなく、まるで遠くの親戚のような扱いに私もすっかりリラックスしていた。おかみさんのお使いの先でさらなるお使いを頼まれ、私は心安く請け負った。
「ごめんなさいね、急に頼まれちゃって家空けられなくて」
「帰り道ですから大丈夫ですよ」
 向かう先は私たちで言うところの警察署だ。といって犯罪者を留め置くといったものではなく、お茶を啜りながら困っている人の相談に乗り助けるといった風情だそうだ。頼まれたのは昨日もっていくと約束していたお茶菓子らしい。向こうで一緒に食べていって、とも言われてなんだか奇妙な気分だった。
 教えられた道を歩いていると視界の端を黒い影が動いた。おや、と視線をやるとカナシミが建物の影かがこちらを見ていた。すっかり覚えられてしまった。だが昼間は近づかないと決めている。知らぬふりで通り過ぎ、警察署へ向かった。
「おや、そうですか。わざわざありがとうございます。どうですかよかったら一緒に。おいしいんですよ、これ」
 すでに集まっていた幾人かの人達からも呼ばれたがやはり違和感は拭えない。それに今日は大事な知らせが届く日だった。あまり長い時間宿を空けたくなかった。
「すみません、今日は用事があるので」
 都市なら間抜けな断り文句で白い目を向けられるが、彼らはそれならしかたないねとあっさり引いた。この淡白さにもいい加減慣れてきたなと思いつつ、じゃあ、と玄関を出ようしたとき、小さな影が素早く動いた。あっと止めるより早く、玄関の中に滑り込む。カナシミは入り込んだ先に人がずらりと並んでいたことに驚いたらしく、すぐさま取って返して私の足元に隠れるように身を寄せて背を向けた。さっきすれ違ったところから付いてきてしまっていたのだろう。皆の目がカナシミに釘付けになっている。
「あ、あの、これは」
 さすがにまずいと思って取り繕うとした。カナシミが私に懐いていることがばれてしまうというかばれただろう、と。だがそれを心配する必要はなかった。
「かんな・・・」
 人垣の奥から一人の女性がよろめきながら出てきた。伸ばされた手がわなないている。それで悟った。
「かんなぁ!!」
 彼女の叫び声にパニックになったカナシミが飛び上り、爪を立てて私によじ登ってきた。同時に周囲の人間が彼女を押さえ込む。
「落ち着いて!」
「かんな、かんな!!」
 泣き叫ぶ彼女を数人がかりで奥へと引きずっていく。
「早く外へ!!彼女から離すんだ!声を聞かせるな!」
「はい!」
 怒声を浴びて私はカナシミを抱えたまま外へ飛び出した。彼女の声がこだまするたび、カナシミが爪を立てた。静かな町に起きた喧騒に町の人達が何事かと顔を出す中を一目散に駆け抜けた。
「ちょっとカナシミをどうする気?!」
「何してるんだ!」
 そう怒鳴られても答える暇はない。母親の声に反応するカナシミを離さず、宿を目指して走った。
 完全にパニックに陥ったカナシミを力づくで押さえ込みながらようやく宿に辿り着くと、幸いにも宿主が外に出ていた。騒ぎを聞きつけ様子を見に出ていたのだろう。みるみる顔が赤くなった。
「何してるんだ!どういうつもりだ!」
 怒鳴る宿主を押しやり、こちらも怒鳴り返す。
「母親に会った!彼女から離せと言われた!」
「何?!」
「放しても大丈夫な部屋はあるか?!」
「こっちだ!」
 宿主が走ったのは裏口付近にある倉庫だった。
「放すぞ!」
 ぱっと力を緩めた途端、カナシミは大暴れして倉庫中を駆け回りだした。
「落ち着け、カナシミ!」
「駄目だ!外に出よう!」
「私は残る!あんたは出ててくれ!」
「だが!」
「大丈夫だ!」
 当然宿主は悟るだろうと思ったが私は言った。案の定、宿主は悟った顔をしてしばらく私を睨んでいたがやがて倉庫から出て行った。私はまだ暴れまわっているカナシミにぶつかられないよう注意しながら出入り口に立って、カナシミが落ち着くのを待った。
 カナシミが隅に蹲ってしばらく、そっと動いてみる。びくっとして私を睨み付ける。まだ駄目か。長期戦になるかと座りなおした。それだけでカナシミはまた暴れだした。またじっと息を殺して待つ。だが力づくで押さえつけたことが刻み込まれたか、カナシミはなかなか落ち着かなかった。
 そのうち日が暮れ、こつ、とドアが静かにノックされた。そろりと動いて隙間を開ける。カナシミは隅で固まったまま微動だにしない。ちらりと視線を外にやると宿主が何かを持っていた。黙って差し出されるそれを受け取ると宿主は何も言わず向こうへ行ってしまった。またドアを閉める。差し出された中身を見ると手づかみで食べられるものが入っていた。わざわざおかみさんに頼みに行ってくれたのだろう。忠告を破ってカナシミに近づいていたことはもちろん許してはくれないだろうけど、とりあえず今は棚上げにしてくれるようだ。ありがたく受け取って夕食をとった。
 照明も何もなく、昼でさえ薄暗い倉庫内は完全に闇の中になった。カナシミの息遣いだけが聴こえてくる。やはり外で待っていたほうが良かっただろうか。そんなことを思いながら、知らず、うとうとしていた。
 ふと目を醒ますと夜が明けていた。足元に朝日が差し込んでいる。ん?と思ったのと、はたと気付いたのが同時だった。ドアが開いている。カナシミが蹲っていた隅をみやるとそこには何もなかった。
 宿の玄関から回って入ると宿主がロビーのソファでコーヒーを飲んでいた。
「カナシミがいない!」
 ところが、
「出て行ったか」
 宿主は慌てた様子もなくずずっとコーヒーを啜る。全く理解できなかったし理解したいとも思えなくなった私は苛立ち混じりに舌打ちしてまた玄関へ向かった。すると、
「カナシミを探しに行く気じゃないでしょうね」
 宿主が後ろから聞いてきた。その言葉に完全に切れた。
「行きますよ。あんなにおびえきった子供を放っておくわけにはいかない!それにあの子には“かんな”というれっきとした名前があります!ここではあの子があのままでいるというなら私は連れて行きます!」
「誰のせいでこうなったと思ってるんですか!知らないくせにあんたが引っ掻き回して・・・!家族がどんな思いでいるのかあんたに分かるのかよ!」
「少なくともあの子の母親はあの子を必要としていた!」
「他の家族は必要としてないんだよ!」
 はっとして私は息を呑んだ。宿主が深く息を吐く。
「母は・・・自分のことしか考えられない。それも仕方ない。でもそれじゃあいつはあっという間に死んじゃうんだよ。僕らはただあいつに生きていてほしいんです。できれば一日でも長く。だから、これ以上構わないで下さい。お願いします」
 宿主の頭が下がる。私はそれをじっと見つめた。
「分かりました。でもあの子が落ち着いたかどうかだけ確認させてください。絶対近づきません」
 そう言って私は今度こそ玄関から出た。
 小さな町だ。探せば見つけるのは容易い。おまけに最近では懐いてきていた。私の姿を見つけると向こうから近づいてきてくれていたのだ。だが今は事情が違う。いつもよく蹲っている場所を重点的にぐるぐる見回ったが一向に見つからない。私の姿を見て逃げ回っているということも考えられる。これは楽じゃないな、と腰を伸ばす。その先でふわりと洗濯物が風に揺れた。
 ああ、そうか。
 ぼんやりと見上げていた。
 だから見つからなかったんだ。いつも蹲っていたから。
 近づいて足場を探す。置いてあるものやら柵を利用し壁の隙間に足先をかけながらよじ登る。本当はあそこまで登っていたんだ。
 屋根にたどり着いてその小さな体を見下ろす。触るまでもなく分かっていたが手を伸ばして確認する。ひんやりと冷きった温度が指先に触れた。そのまま髪を撫でる。たった一日で頬はこけてしまっていた。柔らかな髪を何度も撫でる。ぽたりと雫が落ちて屋根に染み込んでいった。
 宿に戻ると宿主はいなくなっていた。食堂にも行ったがやはりいなかった。
「あんたに悪気はなかったってのは皆分かってるよ。だけど感情は別物だからね。早めにここを発ったほうがいいよ」
 私がカナシミを連れて走ったのは皆が見ている。その原因と共に私がしたことも知れ渡っているのだろう。私がしたことは甚だしく傲慢なことだ。私はおかみさんに礼を言い、宿に戻った。
 宿に戻ってもやはり宿主がいない。他に探せる場所を考えて倉庫に向かった。ひょっとしたら初めからそこにいたのかもしれない。倉庫の中央、そこで宿主はこちらに背を向けた状態で座り込んでいた。なんと声を掛けようか悩んでいると、
「見つかりました?」
 淡白な声だったがその表情は見えない。
「はい」
 答えると宿主が驚いたように振り返った。見つかったことにではなく、私が声に含んでしまった答えにショックを受けたのだ。殴られる覚悟でいた私は目を瞑って待っていたが何も起きず、おそるおそる目を開けると宿主が私の前に立っていた。
「どこで?」
「屋根の上で見つけました」
「屋根の上・・・」
 意外だったような、まるで手の焼く妹に呆れるような、そんな呟きだった。
「どんな顔してました?」
「泣いた跡がありましたが眠っているようでした。泣きつかれて寝てしまったような」
「そう、ですか」
「はい」
 しばらく沈黙を置いた後、堰を切ったように宿主の目から涙が溢れ出した。嗚咽をかみ殺しながら静かに泣き続ける宿主に、私は黙って涙が納まるまで待った。それから宿主を連れて、見つけた場所まで案内した。
「下ろしますか?」
 屋根の上で確認している宿主に聞くと、短く、いいえ、とだけ返された。そして屋根から戻ってきたときにはっきりと告げられた。
「勝手な話で申し訳ありませんが、もうお泊めすることはできません」
「はい」
 それは覚悟していたことだった。むしろ形であれ、謝罪されたことが心苦しかった。
 宿に着き、荷物をまとめる。
「そうだ、私宛に手紙が届いていませんか?」
「ああ、預かってます」
 いけないいけない、と宿主はカウンターの裏側に走っていって取って返してきた。
「どうぞ。昨日届いたものです」
「ありがとうございます」
 私はその場で封を開けて、中身に目を通した。宿主は覗き込むでも凝視するでもなくただぼうっとこちらを見ている。私は最後に記されたサインまでもう一度読み返してから封筒にしまいなおした。
「では。ありがとうございました。さようなら」
「さようなら」
 お辞儀をして宿を後にする。入ってきたときと同じ、さらりとした流れの中を歩く。手紙の内容を思い返した。
『染色体に異常あり。要検査』
 だとすれば治療法も見つかる可能性がある。今でなくとも将来。そう、思っただろう。だが、カナシミの問題はカナシミ本人だけの問題ではない。だとすれば、人はいかに無力だろう。少なくとも希望があることを伝えることは、そして自分が駄目でも誰かのためには欠かせないのだと説得することはどれほど難しいことだろう。
 この町の冷えた風が体をすり抜ける。けれどそれもこれも全て自宅に戻れば忘れてしまうのだろう。人は悲しみだけで生きてはいけないのだから。